小倉南区徳力・蒲生・石田・若園・北方地区
2008年9月23日開設2018.8.22更新
 1 玉塚古墳  2 神理教  3 猿田彦大神  4 日限地蔵
 5 平和観音  6 経筒埋納地  7 蒲生石棺群  8 蒲生大畔遺跡
 9 大興善寺  10 紫池  11 五輪塔  12 弁財天
 13 丸橋静子句碑  14 於婆宮  15 虹山城  16 五輪塔
 17 専教寺  18 蒲生八幡神社  19 里程標  20 猿田彦大神
※蒲生四丁目地区
 21 輜重兵第十二大隊  22 小倉衛戍病院  23 工兵第十二大隊  24 天疫神社
 25 将校集会所  26 六所神社  27 綿津見神社  28 白髪神社
 29 石田駅  30 石田遺跡  31 井手尾遺跡  32 永万寺
 33 天疫神社  34 忠魂碑  35 五輪塔  36 専妙寺
1 玉塚古墳
 玉塚古墳は、現在徳力小学校の校内に保存されていますが、昔は、この周辺に数基の古墳があったと云われています。
 古墳の大きさは、高さ約4m、直径約14mの円墳と言われていましたが、現在は方墳の可能性が高まっています。内部は、南西方向を入口とする前室と玄室からなる複室構造の横穴式石室ですが、羨道部はなくなっています。玄室は、長さ2.8m、幅2.3m、高さ2.8mで、内部の石積みは一段目の腰石に大きな石を用いて、その上にやや小振りの石を持ち送って、天井部をドーム状にしています。また、床面には、平たい河原石を敷き詰め排水機能を持たせています。これらのことから、6世紀後半の築造と考えられています。
全景 現在の入口
玄室の入口 玄室内部
2 神理教

 神理教は、古代神道を復活させた布教を行う教派神道13派のうちのひとつです。教祖の佐野経彦は、家伝の物部氏の血流に繋がる古神道巫部神道を元に、明治27年明治政府より認可を受け「神理教」と名乗ることとなりました。



岡村嘉辰(おかむらよしたつ)翁の碑
岡村嘉辰、通称杢右衛門(もくうえもん)は、代々小笠原候に使え天保8年より徳力村で近隣の子供たちに読書きを教えていました。慶応の役以後は、豊津に移り明治11年1月72歳で亡くなりました。明治17年6月、かつての教え子らよって、翁の業績を称える為この碑が建てられました。


芭蕉碑
 松尾芭蕉は、九州への旅を果たさないまま元禄7年大阪で亡くなりましたが、その芭蕉の志を意して享保7年(1722年)に作られたと云われています。作者の其香は、芭蕉の門人で巫部(かんなきべ)七十一代佐野三右衛門巫部経之です。
 碑には、
 「行きて見む花につくしのあらしやま」
と、刻まれています。

参道 大教殿
岡村嘉辰)翁の碑
芭蕉碑
3 祠と猿田彦大神
由緒:不明

参道入口に、旧「桜橋」橋柱とその上に文化11年に建てられた猿田彦大神が祀られています。


「桜橋」橋柱
祠の全景 猿田彦大神
4 日限地蔵
本尊:日限地蔵尊
由来:現在の寺は、明治26年に二市一郡新四国霊場を設置するに当り、四国八十八箇所霊場第25番の高知県室戸市宝珠山津照寺より聖土を持ってきて建立されたと言われています。その後、西谷村麻生出身の林惣吉なる人物が菅生の滝で修行し、この寺を守るようになりました。その頃は、近在から多くの参詣者が訪れ非常に賑わったと言われています。
全景 写経塔
5 鷲峰山平和観音
鷲峰山平和観音
 この像は、標高137mの鷲峰山山頂に平和を願って昭和41年3月に建立されたもので、高さは約17mあります。

平和之礎
 昭和20年8月ソ連軍の侵攻に際し、満州に出兵していた野戦重砲兵第二十戦隊(満州第938部隊)は、その防衛に当たり六百余名の戦死者をだしました。この碑は、その慰霊として昭和47年9月九州斐徳会によって建立されました。
6 経筒埋蔵地
 明治39年、この場所で銅製の経筒が山芋掘りしていた地元の3人の方によって発見されました。この、経筒は永久6年(1118年)規矩郡平等寺の僧良禅によって、この地と守恒の二箇所に埋蔵されたものでした。現在、発見された経筒は、東京国立博物館に所蔵されています。
7 蒲生(がもう)石棺群
 蒲生石棺群は、紫川中流の左岸にそびえる鷲峰山の山裾、通称ハリヤ山(標高46m)の頂上付近一帯にありました。この遺跡からは、弥生時代前期末から古墳時代前期までの墓が84基発見されました。墓の形態は、①土坑墓(どこうぼ)②配石墓(はいせきぼ)③箱式石棺墓(はこしきせっかんぼ)④甕棺墓(かめかんぼ)⑤石槨墓(せっかくぼ)からなる集団墓地で、約600年間にわたって営々と築かれていました。
 その中で、紫川を見下ろす南東側に、石列によって区画された方形の中に、5基の箱式石棺墓がありました。これらの墓は、頭の位置を全て北側にそろえており、石列の外側に祭祀のための燈火(ともしび)を行った焼けた坑が見つかっています。また、墓からは、鏡、玉類、刀等の副葬品が出土していることから「特定家族墓」と考えられています。

 副葬品一覧
墓番 金銅製品の状況 玉類の状況
27号 なし 墓外に勾玉
34号 素環頭鉄刀 白色小玉、管玉
30号 鉄刀子 なし
36号 素環頭鉄刀 ガラス製小玉
37号 内行花文鏡 勾玉、管玉、小玉

 また、30号墓からは、鹿児島県奄美諸島以南の南海に生息しているオオツタノハの貝輪が、出土していることから、これらの墓は遠隔地から交易によって入手する力を持っていた首長層であることが判明しています。

 なお、方形区画に接して築かれていた32号土坑墓からは、ヒスイ製の勾玉1個、管玉40個、小玉119個が出土しています。


 現在この遺跡と6番の経筒埋蔵地は、道路工事によって完全に消滅してしまいました。
全景 27号墓
34号墓 30号墓
36号墓 37号墓
箱式石棺墓 32号土坑墓
木蓋土坑墓 木蓋の目を詰めていた
 粘土が残っていました
8 蒲生大畔(がもうおぐろ)遺跡
 この遺跡からは、中世の建物跡が多数発見されています。発見された柱穴の総数は、約800基でその状況から、幾度も建て替えが行われたことがわかりました。また、出土した遺物は、土師器や輸入磁器の他に多くの瓦がありました。このことから、この遺跡は、庶民の生活跡ではなく隣接する大興善寺に関連する施設であった可能性が高いものと考えられています。
遠景 調査の状況
9 大興善寺
曹洞宗
本尊:如意輪観音菩薩
由緒:寛元3年(1245)年の創立で、時の執権北条時頼公の命により佐野源左衛門尉常世が開基したと云われています。また一説には、奈良西大寺の中興の祖叡尊が開基したとも云われています。建立当初は、寺の規模も大きく、多くの僧を擁していましたが、天正年間(1574-92)に大友氏の兵によって伽藍はことごとく焼かれ、廃墟となりました。  その後、禅宗寺院として復興が図られ、寛文11年(1671)年小笠原家の支援により伽藍の再建が行われました。


 現在、江戸時代の建造物として山門と舎利殿が、平成11年3月30日に北九州市指定有形文化財に指定されています。
 山門は、三間一戸(桁行3間(6.89m)、梁間2間(3.94m)の楼門で、屋根は入母屋造本瓦葺で、寛文11(1671)年に建立されました。その後、享保4年(1719年)に大規模な改修が行われています。門の左右に、南北朝初期(14世紀中頃)に桧で造られた寄木造りの金剛力士像が安置されていました。


 舎利殿は、仏舎利を祀る建物で市内に現存する唯一のものです。建物は、方一間(2.72m)の小堂で、屋根は宝形造りこけら葺きで、建立は元禄3年(1690年)と考えられています。


 本尊の如意輪観音菩薩座像は、胎内の墨書銘から暦応3年(1340年)に、物部武村と物部武直の親子が運慶の5代の孫を名乗る仏師康誉と康尊に造らせたことが判っています。また、平成11年3月19日に県指定文化財に指定されています。


 その他、木造釈迦如来立像は、鎌倉末期から南北朝初期の14世紀中頃に造られと推定され、胎内の墨書銘から元亀4年(1573)、寛文11年(1671)に修理されたことがわかり昭和32年4月に県指定文化財に指定されています。


全景 山門1
山門2 山門3
山門4 本殿
舎利殿1 舎利殿2
五輪等 五輪塔1
僧の墓 宝篋印塔と五輪塔
五輪塔2 五輪塔3
10 紫池
 豊前志等の古文献に「大興善寺の門の外に池ありて紫と名づく、中に一島を築く、前に虹橋あり、島に弁財天を祭る」と記載されている池で、紫川の名の起こりとされています。また、一説には、万葉集の中に豊前国・白水郎(あま)が詠んだ歌一首「豊国の企救の池なる菱の末(うれ)を摘むとや妹が御袖濡れけむ」の「企救の池」の名残とも云われています。
11 最明寺時頼の五輪塔等
 大興善寺を創建した、佐野源左衛門尉常世と、創立を命じた北条時頼を祀った五輪塔等があります。

 ※北条時頼は、康元元年(1256年)病に倒れたため執権職を北条長時に譲って出家し、最明寺入道と号した。
全景 五輪塔1
五輪塔2 最明寺殿と刻まれいる墓石
12 弁財天と鳥居
 この祠と鳥居は、もともと10番の紫池の中にありましたが、道路工事により現在この場所へ移転しています。この鳥居は、伊勢の「江本検校」が、船旅の途中大風に遭ったが、紫池の弁財天によって救われたことに感謝して天和3年(1683年)に奉納したもと云われています。
全景 天和3年(1683年)の鳥居
13 丸橋静子句碑
 丸橋静子は、明治43年生まれで昭和4年に、杉田久女の門下に入り、高浜虚子の指導を受け、昭和34年「ホトトギス」の同人となりました。また、俳句の指導をする一方、小倉で家庭裁判所の調停委員等も務めました。
 碑には、「梅さむし 人散らはりて 又よりて」と刻まれています。
 
14 於婆宮
由緒:不明 

 境内には、享和年間(1801~1804年)に建立された鳥居と猿田彦大神が大切に祀られています。
享和年間の鳥居 参道
本殿 猿田彦大神

15 虹山城

 標高119mの虹山から、南北に延びる尾根に3段の郭や堀切等が築かれています。

虹山城のページーへ
全景 堀切

16 寺院跡と五輪塔

 道路脇に寺院跡の石祠と傍らに、五輪塔が祀られています。

17 専教寺

浄土真宗本願寺派
本尊:
由緒:

18 蒲生八幡神社

祭神:応神天皇(ほむだわけのみこと)
    神功皇后
(おきながたらしひめのみこと)
    仲哀天皇
(たらしなかつひこのすめらみこと)
例祭:
由緒:昔、三女神が企救郡蒲生村の虹山に天降り、永くこの地を護らんと告げられたので、里民は、虹山に社を祀り、蒲生八幡宮と称しました。文治元年(1185年)、平家が壇の浦に戦いに敗れた時、「三種の神器」は海中に没しましたが、規矩郡高浜浦の岩松興三は、蒲生八幡宮に祈り海底に沈んでいた三種の神器を回収し、源頼朝公に献じ、新たに社殿を建立しました。天正の初め、大友氏の兵によって社殿は、灰燼となりましたが岩松興三の子孫であった弥三郎兵衛が一宇を高
浜浦に建て、高浜八幡宮と称しました。その後、慶長年中に細川忠興が、小倉城を改築する時、高浜が城郭内に入る為、社殿を蒲生村中島山に
移しました。また、この時に名称を蒲生八幡宮にもどしました。


 境内には、宝永元年(1704年)、寛政12年(1800年)、文政8年(1825年)、天保4年(1833年)銘の灯篭や、寛政12年(1800年)銘の鳥居、そして天保6年(1835年)銘の狛犬があります。
 また、文政6年(1823年)、寛政12年(1800年)銘の猿田彦大神と製作年不明であるが○印が刻まれた猿田彦大神が祀られています。

寛政12年の鳥居 寛政12年の灯篭
天保6年の狛犬 楼門
寛政12年の猿田彦大神 文政6年の猿田彦大神
○印のある猿田彦大神 拝殿
文政8年の灯篭 天保4年の灯篭
宝永元年の灯篭 本殿
19 里程標

 紫橋の袂に、大正3年9月に在郷軍人12名が建てた、小倉・八幡・香春・菅生滝までの距離を刻んだ里程標が大切に残されています。この場所は、三叉路になっています。

20 猿田彦大神

 道路脇に、文化2年(1805年)に建立された猿田彦大神等が、大切に祀られています。

全景 文化2年

21 輜重兵第十二大隊跡

 輜重兵(しちょうへい)第十二大隊があった場所で、昭和49年に有志によって記念碑が公園内に建てられています。また、公園内の塀や門はその当時のものでしょうか。

※ 輜重兵は、陸軍の水食料・武器弾薬・各種資材など様々な物資を扱う後方支援部隊です。
碑文と塀 公園と門柱
22 小倉衛戍病院跡

 現在の国立小倉病院は、明治21年に小倉衛戍病院として小倉城内に開設され、明治32年4月に現在地へ移転しました。構内には、記念のみが当時のことを物語っています。

※ 衛戍病院は、陸軍の衛戍地(駐屯地)に設置された病院のことで、陸軍病院の旧称です。

病院玄関 記念碑
23 工兵第十二大隊の倉庫跡
 住宅街の道路脇に、煉瓦積の倉庫らしきものが残されています。楔石となっている石には、「工兵第十二大隊」と刻まれています。工兵第十二大隊は、明治31年小倉に第十二師団が設置された際に編成された工兵部隊で、大正9年頃には、「工兵第十二連隊」と大隊から連隊に名称変更となっています。このことから、この施設は、明治31年から大正9年頃までの間に造られたことになります。
全景 楔石の銘板
24 天疫神社
祭神:須佐之男命(すさのおのみこと)
    大名牟遅神
(おおなむちのかみ)
    少名毘古那神
(すくなひこなのかみ)
    高於加美神
(たかおかみのかみ)
   
 建御名方神(たてみなかたのかみ)
    
彌都波能売神(みつはのめのかみ)
由緒:蒲生に鎮座していた疫神を、元和8年(1623年)現在の日の出町に勧請したのがはじまりで、明治13年現在地へ遷座しました。
25 歩兵第四十七連隊将校集会所
 現在、陸上自衛隊西部方面隊第4師団第40普通科連隊となっている敷地内に明治30年頃に建てられた「歩兵第四十七連隊将校集会所」が資料館として残されています。
 前庭には、第二代連隊長乃木稀典と元帥杉山元之の胸像があります。
26 六社大神社(ろくしゃだいじんじゃ)
祭神:
由緒:


 ※石田楽は、雨乞い祈願として伝承されてきた太鼓踊で、太鼓・鉦・笛等計25人で構成されています。楽は、不定期ですが、この六社大神社と綿津見神社の境内で踊られています。また、昭和33年10月に県指定無形民俗文化財に指定されています。


 境内には、寄進年不明の石祠や天保12年(1841年)寄進の手水鉢と古い鳥居を再利用した猿田彦大神の碑があります。
全景 拝殿
祠1 祠2
手水鉢 猿田彦大神
 境内にある蓮門妙法塔は、明治時代に小倉を本部とした新興宗教「蓮門教」の教祖島村光津が師の柳田素入の13回忌を記念して明治22年に小倉北区堺町にあった蓮門教本殿敷地内に建てたものです。その後、昭和42年現在地へ移設されました。
蓮門妙法塔
27 綿津見神社
祭神:
由緒:





 参道入口の鳥居は、文化3年(1806年)に寄進されたもので、扁額には「龍王社」とあります。
 境内には、天保12年(1841年)寄進の手水鉢や文化6年(1809年)の猿田彦大神が祀られています。
 また、境内の一角に周辺の山々等の開発等によって
遷座してきた祠が、集められていました。祠に祀られている神様は、左から下記のとおりです。
 1 水神様 
 2 貴船社 
 3 豊前坊社 
 4 明神社(現在の星和台から遷座) 
 5 権現社 
 6 天疫社 
 7 荒ごろ社(現在の神社周辺) 
 8 不明(現在の神社周辺)
文化3年の鳥居 龍王社の扁額と文化3年銘
拝殿 天保12年の手水鉢
文化6年の猿田彦大神 諸々の祠
28 白髪神社(しらひげじんじゃ)
祭神:
由緒:





 参道石段下の鳥居は、文政2年(1819年)に寄進されたものです。
 境内には、文久2年(1862年)寄進の猿田彦大神や安政2年(1855年)の狛犬が祀られています。
 また、宝篋印塔の一部も残されています。
全景 文政2年の鳥居
拝殿と本殿 文久2年の猿田彦大神
宝篋印塔の一部と祠 安政2年の狛犬
29 JR石田駅
 現在、JR九州日田彦山線の駅ですが、開業は大正4年(1915年)4月1日で小倉鉄道の駅でした。右の駅舎は、開業当時のものでしたが、平成14年4月に建替えとなりました。   
30 石田遺跡
 JR九州日田彦山線石田駅周辺から縄文時代から古墳時代までの水田や杭列、また包含層等が発見されています。
 写真は、1984年8月に行われていた発掘調査の状況です。
調査状況 包含層断面 
31 井手尾遺跡
 現在は、住宅地となっている石田南1丁目付近にあった丘陵から弥生前期後半の貯蔵穴が16基と同時期の甕棺墓が12基、土壙墓が50基発見されましたが、住居址は1箇所も発見されませんでした。
 写真は、1981年11月に行われていた発掘調査の状況です。
貯蔵穴 貯蔵穴内の土器
32 永万寺
浄土真宗本願寺派
本尊:
由緒:
33 天疫神社
祭神:須佐之男命(すさのおのみこと)
由緒:この地に疫病が発生したため、文政3年(1820年)建立されました。また、古くから神宿殿と呼ばれ、子供たちの守護神として親しまれてきたとのことです。
34 忠魂碑
 昭和3年11月に帝国在郷軍人会企救町分会によって建てられた忠魂碑です。
35 お堂と五輪塔
 お堂の中に、一石五輪塔と自然石が大切に祀られていました。
36 専妙寺
浄土真宗本願寺派
本尊:
由緒
 
全景 本堂
参考文献等
北九州の史跡探訪 昭和61年1月15日発行 北九州史跡同好会
北九州市史 近代・現代(教育・文化) 昭和61年12月10日発行 北九州市
復刻 企救郡誌 昭和52年2月11日発行 防長史料出版社
小倉市誌 補遣 (復刻版) 昭和48年6月13日発行 名著出版