若松区小敷・大鳥居・乙丸・蟹住地区
2005年2月2日開設
1 太閤水 8 貴船神社
2 小敷城 9 戸脇神社
3 潮分地蔵 10 戸明神社
4 板碑 11 真教寺
5 八剣神社 12 島郷四国霊場
6 大鳥居尋常小学校 13 一字一石塔
7 戸明神社 -
1 太閤水(たいこうみず)
 豊臣秀吉は、文禄元年(1592年年)朝鮮出兵のため、肥前名護屋に出陣する時、大阪から肥前までの要所要所に太閤塚や給水所を設置するなど道路を整備しました。その時、この小敷に設けられた給水所がこの井戸で、後に石で囲んで人々は太閤水と呼ぶようになりました。  この水は、非常に清く、また味も甘美であったため、酒造りの用水や田畑の用水として使われたと言われています。しかし、石炭採掘による影響のため、往時の湧水量は無くなったと言います。
 また、この伝承にちなんで、この付近の地名ともなっています。
 
2 小敷(こしき)城
 標高約48mの丘陵山頂に築かれた、16世紀終わり頃の城で、東西方向に向かう全長約60m、幅約30mの狭い範囲に曲輪等の遺構があり、非常に小規模な城です。従って、戦さがあった時だけに一時的に使われたもので、砦のような機能をもっていたものと考えられます。




 城の構造は、二つの曲輪(くるわ)と一条の堀切及び竪堀からなっています。

 曲輪のうち主郭は、最も高い位置にあり長さは約36m、幅は約10mで、ほぼ中央に約6m×約5mの一段高くなった区画があり、櫓もしくは、見張り台があったと推測されています。また、火を焚いた跡が2ヶ所あり、暖をとったり、のろしを上げたりした跡だと考えられています。

 もうひとつは、帯曲輪で主郭より約4m低い位置に、主郭の北辺と南辺に沿うように通路状の曲輪です。幅は、約80cmから150cmくらいだったと考えられています。

 堀切は、山城では一番基本の堀で、主郭から南東へと延びる尾根筋を断ち切るように、主郭の東端に接して造られています。堀底が平らなため「箱堀」と呼ばれるものです。また、堀切の底と帯曲輪は回廊状につながっています。
堀切の幅は、上端で約7.5m、底で約2mの大きさです。

 

 
西側水田より遠景
左端の丘陵に築かれています
主郭及び帯曲輪(おびくるわ)の全景
堀切の手前から主郭を望む 北側斜面に築かれた竪堀
北側の帯曲輪1 北側の帯曲輪2
南側の帯曲輪1 南側の帯曲輪2
堀切の断面 主郭から堀切を望む
3 潮分地蔵
 昔は、洞海湾及び遠賀川から江川に満ち上がって来る潮がこの付近で会合し、また両側へ引き退いていた、潮の分岐点でした。このため、このお地蔵様は、潮分地蔵と呼ばれています。
 従って、ここを通過する船は、満潮にならないと通れないため、この地蔵堂の前あたりが、潮待ちの場所となっていました。
 ちなみに、現在は三つ頭付近で川幅が狭まっているため、太閤水付近が潮分となっていると、言われています。
 
 堂内の石段横に、嘉永7年(1854年)の銘が彫られた石碑があります。
4 板碑
 潮分地蔵から南東方向の丘陵地に板碑が大切に祀られています。
5 八剣神社
祭神 日本武尊
    (相殿神)
    菅原神
    武内宿禰(たけのうちすくね)
    豊臣秀吉命
    天水分神
由緒 不詳
棟札によると、享保13年、文化4年、明治26年に正殿、拝殿を再建または修改築されております。
相殿神の菅原神及び武内宿禰は、太閤水にあった菅原神社、また同所に祀られていた豊臣神社の豊臣秀吉命を大正7年に合祀。また、天水分神は、池田地区にあった船尾神社に祀られていたのを大正13年に合祀したとあります。

 寛政11年(1799年)の寄進年が彫られた鳥居があります。
境内社
貴船神社   祭神 高淤加美神
恵比須神社  祭神 事代主命
            (相殿神)
             御年神
             素戔嗚命
由緒
 貴船神社   不詳
 恵比須神社 不詳
 相殿神の素戔嗚命は、本村地区の須賀神社、御年神は同所の大歳神社に祀られていたのを大正7年に合祀したとあります。



 慶応3年(1867年)製作の狛犬が一対あります。
6 大鳥居尋常小学校の校名板と門柱
 大鳥居尋常小学校は、明治7年浅川村の民家に設置された小学校を起源とし、明治21年1月小敷村に校舎を新築して小敷小学簡易科と呼ぶようになった。明治25年12月江川村大鳥居に校舎を建築し江川尋常小学校と改称する。明治41年、江川村・洞北村の合併により嶋郷村立大鳥居尋常小学校と改称する。昭和13年4月、有毛尋常小学校と統合し、島郷第二尋常小学校となる。この間、約30年間この校名板は使用されていたことになります。
 なお、この学校は、現在移転し、江川小学校となっています。
※庄家(しょうげ)
 庄家とは、荘園支配のため、領主が設置した事務所のことで、領主が任命した荘官によって運営されていました。ここには、荘園内からの上納米等を納める倉庫を必要とするため、陸上及び水上交通の要所が選定されました。
 学校があった地域は、昔から「正の江(しょうのえ)」と呼ばれており、また江川や坂井川(注)に接する場所であることから、この地に山鹿庄の庄家があったと推定されています。
 注:坂井川は、境川と言い、蟹住と大鳥居の境界を示しています。
7 戸明神社
祭神 天手力雄命
    
由緒 不詳

 この地は、昔鳥居山と呼ばれていました。また、この神社は、昔遥拝所であったため、社殿はなく、鳥居のみが立てられていたから、この名が付けられ、それが大鳥居の地名の由来になったとも言われています。
 遥拝所は、山鹿庄の時代この地区にあった庄家が、戸明浜にあった戸明本社が遠く日常の参拝が困難であったため、設けたのでとも考えられています。も


境内社
須賀神社   祭神 素戔嗚尊
恵比須神社  祭神 事代主命

由緒 不詳
 石祠には、天保4年(1833年)と、文政2年(1819年)の建立年が彫られていました。
※大鳥居の地名由来
戸明宮縁起[元文5年(1740年)]
御鳥居乃立し所を大鳥居村と云。
筑前国続風土記
むかし麻生氏小岳山の上に宇都宮の白山権現を勧請し、此村に大鳥居を立てし故に、其後此村の名とする。
8 貴船神社
祭神 闇淤加美神
    高淤加美神
    
由緒 不詳




 境内に、神功皇后が新羅渡航のおり、洞海を通りしとき船がなかなか進まず、貴船の神を祭り、その時お手植えした松が、この船留の松と云われ、現在は枯れてしまった為石碑のみがあります。
 毎年4月15日、この貴船神社で、ご神体のほら貝からお神酒をいただき、不老長寿を祈願する「ほら貝祭り」が行われています。これは、この地区に伝えられている「筑前國庄の浦壽命貝由来記(ちくぜんのくにしょうのうらじゅみょうがいゆらいき)」に、天明2年(1782年)5月、筑前芦屋の商人が奥州津軽で600年も生き続けた女性にあった話が書かれており、それから由来しています。
 その話は、商人が津軽の山路で道に迷い、ある家に宿を頼みました。その家の女性は、筑前の生まれというその男性を懐かしんで家に案内し、語り始めました。「私は、筑前山鹿の近くの庄の浦に住んでいた海女の子です。ある時、私は病に倒れ、明日おも知れぬ命となっていましたが、孝行な子供達がほら貝を採って帰り、料理をして食べさせてくれました。おかげで元気を取り戻し、それからは病気一つしなくなりました。そして、いくら歳月が流れても老いの兆しもなく、あれが不老不死の薬だったのではと思っているうちに、早や600年余りが過ぎてしまいました。夫も子も孫も皆死んでいくのに自分一人歳をとることなく、生きるつらさに何度死のうとしたかわかりません。住みなれた村もだんだん住みにくくなったので、諸国の神社や寺院にお参りすることを思い立ち一人で各地を渡り歩きました。ある所では、夫婦になって暮らしたこともありますが、私が歳をとらないので化生の者と怪しまれ、こっそり抜け出したことがあります。諸国を転々とするうち津軽に来て、断りきれずに、この家の主人に嫁ぎました。私が故郷を出る時、ほら貝を形見として小さな祠に納めて参りましたが、今ではどうなっていることでしょう。祠のそばに船留めの松というのがありましたが、松は千年といいますから今でもあるかもしれません。あなたが、そこへ行くことがあったら、私の子孫でもいればこの話をしてやってください。 」
 商人は、この年の10月、庄の浦を訪れ、子孫の伝次郎という人に会い、この話を伝えました。
なお、この話に出てくる、船留めの松は昭和の初期に倒れ、枯れてしまった時、その女性の命も耐えたといわれています。
※庄の浦
 庄の浦は、正の浦とも言い「庄家の裏」の意味ではないかと考えられています。また、この地区の台地から平安時代の須恵器等が採取されていることから、庄家に勤務した荘官等の住んでいた場所ではないかとも言われています。
※乙丸の地名由来
 乙丸と言う人物が所有していた名田(名田)の名前が、地名化したものと言われています。なお、名田とは、所有者である名主(みょうしゅ)が、私有を強調するため自分の名をつけて呼んだ田地のことです。
9 戸脇神社
祭神 天手力雄大神
 (相殿神)
    応神天皇
    高淤加美神
    市杵島姫神
    大歳神
    猿田彦
由緒 万治3年(1660年)、山鹿村狩尾神社より移し祭るとあり、「万治」「天和3年」「宝暦10年」「明治4年」「明治23年」の5枚の棟札が残っていると言われています。




 文化13年(1816年)の寄進年が、彫られた鳥居があります。

 本殿裏の崖の上に、庚申塚が祀られていました。








 製作年不詳ですが、足元と胴の部分の削り込みが行われていない狛犬が一対あります。






10 戸明神社
祭神 天手力雄(あめのたぢからお)大神
    天児屋根大神
(相殿神)
    事代主大神
    素戔嗚大神
    高淤加美神
    御歳大神
    闇淤加美神、
    闇岡女神
由緒
 蟹住、有毛、大鳥居、高須、脇田、岩屋の六区の産神で、安屋、有毛、大鳥居、高須に鎮座する戸明神社の本宮です。また、稲国、岩屋、脇田、竹並、払川、塩屋、小敷に鎮座する産土氏神社十八社の総社として古来より崇敬されていました。天文15年に書かれた「戸明宮縁起書序」によると、岩屋と柏原との間、戸明浜にあった宮を享禄の頃(1528年〜1532年)、この地へ移したとあります。


 天明8年(1788年)の寄進年が、彫られた鳥居があります。

 境内には、子宝石と呼ばれている陰陽石や、慶応元年(1865年)製作の石灯篭があります。
若松と戸明神社について

 竹中岩夫氏によると、東京芸術大学が所蔵している延喜5年(905年)の「観世音寺資材帳」に書かれている「遠賀郡山鹿」と、大東急記念文庫が所蔵する養老4年(720年)の「観世音寺領田園山林図」に書かれている「遠賀郡山鹿島」こそが、若松島すなわち現在の若松区であるとしている。
 そして、現在の二島から頓田を通って脇の浦を結ぶ線から東側は、大宰府にある観世音寺が所領する塩を焼くときに燃料とする木を切り出す山で、この領内を祭祀圏としていたのが、二島に本宮がある日吉神社である。一方、その領内から西側は、蟹住を本宮とする戸明神社が祭祀圏としている。この祭祀圏こそ、初期山鹿庄の荘域を示すものであるとしている。
11 真教寺
真宗本派西京本願寺の末寺
本尊 阿弥陀仏如来
由緒 もともと真言宗でしたが、文禄元年(1592年)清遊という僧が、真宗に改め、再興したと伝えられている。また、一説には、寛文年中(1661年〜1662年)に、開基し元禄元年(1688年)に寺号を許されたと云われています。
 境内に、元禄7年(1694年)、正徳6年(1716年)に造られた江戸時代の古墓があります。
12 島郷四国霊場開祖碑
 島郷四国霊場5番札所の脇に、昭和27年12月に造られた霊場開祖碑があります。

(碑文より抜粋)
 島郷四国霊場の起源は、慶長七年(1602年)に蜑住村の郷士大庭源馬氏が、 祖先秋月藩主原田家の菩提を弔うため、三男三太夫に命じて四国の八十八ヶ所の霊場を巡拝させて集めた聖土を島郷の八十八ヶ所に移し納め、子孫に巡拝させたことに始まります。
 その後、寛延元年(1748年)に小竹の元庄屋 香山弥次郎重治氏が更に四国から霊地の土砂を持帰り、地形、距離、日数等を勘考して八十八ヵ所の位置を定め、番札と御詠歌を掲げて開基する。これにより、一般信仰の霊場となりました。また、隆盛をきわめた明治年代には、近郊はもとより他県からも巡拝に訪れ、春秋二季の大詣りには千数百人が、巡拝に訪れていました。
 また、その横に寛政3年(1791年)に造られた供養塔や文化6年(1809年)に造られた大乗妙典六十六部廻国奉納碑があります。この六十六部廻国碑には、当村の七蔵、六十六歳と刻まれています。
※「六十六部」は六部ともいわれ、六十六部廻国聖のことを指します。これは、日本全国66カ国を巡礼し、1国1カ所の霊場に法華経を1部ずつ納める宗教者です。この風習は、中世後期を起源とし、当初は、宗教者が主体でしたが、近世に入ると一般俗人まで広がったとされています。、
13 大乗妙典一部一字一石塔
 島郷四国霊場44番札所の脇に、明和5年(1768年)9月に造られた大乗妙典一部一字一石塔があります。大乗妙典とは衆生を迷いから悟りの世界に導いてくれる教えを記した経典で、本来は大乗仏教の教義を記した経典全般のことですが、一般的には法華経、妙法蓮華経をさしています。この一字一石塔は、これらのお経を、一つの小石に一文字ずつ書き込み納めた上に、塔を建てたと考えられますが、その場所が現在地であるのかは不明です。

 また、一字一石塔と並んで板碑や、首から上の部分が欠けたお地蔵さんも一緒に祀られていました。
参考文献等
北九州市史 近代・現代 教育文化 昭和61年12月10日発行 北九州市
北九州の史跡探訪 昭和61年1月15日発行 北九州史跡同好会
北九州の史跡探訪 平成2年9月1日発行 北九州史跡同好会
北九州の古代を探る 竹中岩夫著 昭和45年11月3日発行 北九州郷土史研究会
福岡県教育百年史 第一巻資料編(明治T) 昭和52年3月1日発行 福岡県教育委員会
増補改訂 遠賀郡誌 下巻 昭和37年9月10日発行 遠賀郡誌復刊刊行会
発掘ニュースNo63 小敷城跡 2004年11月27日発行 財団法人 北九州市芸術文化振興財団