小倉南区津田・長野・横代・隠蓑・堀越地区
2009年8月11日開設2018.8.22更新
 1 津田八幡神社  2 津田地蔵堂  3 中村平左衛門の墓  4 若宮八幡神社
 5 長野小学校跡  6 玄福寺  7 観音寺古墳  8 長野観音堂
 9 下長野古墳群  10 護念寺  11 長野城護念寺裏山地点  12 上長野石棺群
 13 森山西遺跡  14 猿田彦大神  15 長野小西田遺跡  16 臼山古墳
 17 長野尾登遺跡  18 長野城  19 猿田彦大神  20 猿田彦大神
 21 金山遺跡  22 高倉神社  23 安徳天皇稜  24 隠徳庵
 25 丸ヶ口福相寺城  26 丸ヶ口観音堂  27 タケの観音堂  28 高智神社
 29 猿田彦大神  30 宇津木先生之碑  31 堀越城  32 石灰釜
1 津田八幡神社
祭神:譽田別尊
   息長帯媛命
   多紀理毘賣命
   市寸嶋比賣命
   多岐都比賣命
例祭:10月14日
由緒:貞観元年(859年)宇佐八幡宮の御分霊を山城国男山(現在の京都・石清水八幡宮)に奉遷する途中、津田の生岩山に神輿を停めたのがはじまりとされ荘八幡神社と同じ由緒を伝えています。その後、天元2年(978年)この生岩山に宮殿を建て津田村、田原村の産土神として祀られました。そして、永正6年(1509年)津田村の鬼門となっていた、現在の地に神殿を建て御遷座して津田八幡神社としました。明治6年7月9日、村社となりました。

※鬼門(きもん)とは、丑と寅の間の方位で北東のことを指しています。
正徳年間建立された鳥居 安政5年建立の狛犬
本殿 文化13年建立の與玉神
2 津田地蔵堂
本尊:地蔵菩薩
由緒:不明

二市一郡新四国霊場の第57番札となっている御堂です。
石祠の全景 石祠に刻まれた銘
3 中村平左衛門の墓
 中村平左衛門は、寛政5年(1793年)に現在の小倉北区菜園場に生まれ、企救郡及び京都郡の大庄屋を勤め、安政3年(1856年)には六郡大庄屋上席になった人物です。また、文化9年(1811年)から慶応2年(1866年)まで55年間に亘って書かれた日記は、福岡県の文化財に指定されています。
 そして、慶応3年(1867年)享年75歳で亡くなりました。 
中村家の墓 中村平左衛門の墓
 平左衛門の墓の隣は、子息で企救郡の初代郡長を勤めた津田維寧(これやす)の墓です。津田は、北九州市内で最古の新聞「門司新報」を創刊した他、門司築港の着手、常磐橋を鉄橋へ架け替えなどに功績を残しています。

 この墓がある場所は、もともと護念寺の末寺であった成就寺がありました。
津田維寧の墓 成就寺の跡
4 若宮八幡神社
祭神:仁徳天皇
    誉田別命
    息長足姫命
例祭:9月15日
由緒:長野城主長野豊前守直盛は、建仁2年(1202年)鎌倉の鶴岡八幡宮を勧請し、長野臼山に祀ったのが始りで、明応3年(1494年)に現在地に遷されました。その後天正年間の末に、長野城が落城したした際にこの社も兵火にかかり焼失しました。
現在は、長野の上下地区の産土神として祀られています。

 境内には、安永4年(1775年)建立の鳥居・安永3年(1774年)建立の手水鉢・天明2年(1782年)建立の灯篭・寛政11年(1799年)銘の猿田彦・建立年不明の猿田彦大神等があります。
全景 寛政11年(1799年)銘の猿田彦
天明2年(1782年)建立の灯篭 安永4年(1775年)建立の鳥居
安永3年(1774年)建立の手水鉢 建立年不明の猿田彦大神
5 長野小学校跡
 明治10年9月に、芝津村長野小学校がここに設置され、明治38年8月には長野尋常小学校が併立されました。その後、明治40年9月には、貫尋常小学校と統合され曽根村尋常小学校と改称しました。現在の貫小学校の前身です。
6 玄福寺
浄土真宗本願寺派
本尊:阿弥陀仏
由緒:僧「浄覚」が開基する。当初は、天台宗で、津田村にあって長野城主の祈願所でした。文明年間に兵火に遭い廃退しましたが、僧「善念」が長野村に真宗の寺として再興しました。
7 観音寺古墳
 玄福寺の裏、丘陵先端部に築かれている全長約20mの前方後円墳です。主軸は、ほぼ南北ですが、前方部と後円部の高さの違いもなく、またくびれ部もあまりしまらない為、ズングリとした印象を受けます。
 なお、埴輪や葺石といったものき見つかっていません。また、発掘調査が行われていない為、竹林造成によって前方後円形になったという説もあります。
横から見た全景 平面図
8 長野観音堂
本尊:観世音菩薩
由緒:不明

 二市一郡新四国霊場の第32番札となっている御堂です。
 境内に、文化年間に建立された灯篭があります。
9 下長野古墳群
 竹馬川の支流、長野川を望む北側丘陵の竹林の中に、現在2基の古墳が確認されています。写真は、1号墳の石室内部です。1号墳は、直径約8mの円墳で、前室と玄室からなる全長約5mの横穴式石室です。
 なお、2号墳は、開墾の為削られ石室に用いられた石材が畑の中に積まれています。
古墳群のある森 玄室の奥壁
10 護念寺
西山浄土宗
本尊:
由緒:
平康盛が、保元2年(1157年)に豊前国司としてこの地区に下向し、長野城を築いた時に禅宗の寺として開基したと云われています。弘安9年(1286年)、第5代長野豊前守種盛の時に、始めて護念寺と名付けられました。文明18年(1486年)、第13代長野城主長野豊前守助氏の二男岩松麿が父の菩提のために出家し「行念」と号し、浄土宗に改宗。また、行念は、護念寺の中興開山となっています。なお、護念寺は長野城主長野氏の菩提寺でもありました。

 本堂横に保管されている鬼瓦には、長野氏の家紋である「三つ盛り扇」が刻まれています。

 境内には、享保6年(1721年)に建立された手水鉢、享保5年(1720年)に建立された宝篋印塔、一石五輪塔があります。


 また、境内や裏山には、江戸時代に寄進された三十三の観音像があります。「三十三」の数については、「法華経」等に、観音菩薩が衆生を救うとき、33の姿に変化するという信仰に由来すると言われています。
全景 本堂
三つ盛り扇 享保6年建立の手水鉢
享保5年建立の宝篋印塔 一石五輪塔
中興開山 行念願阿上人の墓 十番 如意輪観音像
十二番 千手観音像 二十二番 聖観音像
11 長野城護念寺裏山地点
 護念寺の裏山、標高86mの山頂に堀切、帯曲輪等の長野城に関する遺構が残っています。
 以前は、舞ヶ丘団地の丘陵からも尾根道が続いており、土橋状の遺構等もありましたが、今は団地造成で跡形も無くなってしまいました。
堀切 帯曲輪
12 上長野石棺群
 護念寺のある丘陵の崖面に、古墳時代前期の箱式石棺墓が2基、その断面を現しています。この墓は、板状の石を箱型に組み合わせて造られており、内部には丹(ベンガラ)が塗られており、今でもその赤色を保っています。副葬品として土師器の壺、鉢等が石棺の外から出土しています。
丘陵の崖面全景 下部の石棺内部
上部の石棺全景 下部の石棺内部
13 森山西遺跡
 この遺跡は、長野川によって形成された長野平野を見下ろす標高約20mの丘陵の頂部から裾部に、縄文時代の早期から古墳時代後期までの竪穴住居跡が、発見されました。 特に弥生時代の後期では、母屋と作業所と考えられる2基一対の竪穴住居跡が発見されています。
全景 2号竪穴住居跡
14 猿田彦大神
 用水路の脇に、猿田彦大神が祀られています。
15 長野小西田遺跡
 現在、「人と自然を育む、体験・交流公園」として多くの市民に利用されている緑地公園ですが、整備に先立つ発掘調査によって弥生時代前期末から古墳時代前半までの遺構や遺物を持つ「長野小西田遺跡」が発見されました。この遺跡の大きな特徴は、始まりは自給自足的な小集落でしたが、弥生時代中期後半から木製品の水漬け、加工やドングリ等の堅果類の水さらし、保存、加工等、極めて多目的な水場の維持管理が出来る集団による集落へと変遷したことが分かった点です。公園整備に当たっては、この発掘調査の成果を活かして、当時の水路が復元整備されています。   
16 臼山(うすやま)古墳
 若宮八幡神社の旧地である臼山には、そのことを表示した石碑が建っています。
 なお、その場所は径約50mの臼山古墳の墳丘頂部です。発掘調査等が行われていないため詳細は不明ですが、古墳時代前期の古墳ではないかと云われています。
 最初に探訪した二十年前は、鬱蒼とした竹林で全容を見ることは出来ませんでした。
左が、鬱蒼とした竹林の時で右が現在 こんもりとした墳丘の全景
17 長野尾登(ながのおのぼり)遺跡
 この遺跡は、長野平野の最奥部標高約24mの丘陵に位置し、発掘調査によって弥生時代から鎌倉時代までの遺構や遺物が発見されました。遺跡の大部分は弥生時代で、前期から中期の住居跡、貯蔵用の竪穴などが多く発見されました。また、竪穴からは、製作途中の石製品もあったことから、この集落内で生産していたことが判明されました。
 さらに、瀬戸内方面との交流を窺わせる住居跡や土器が発見されたことから、この集落の居住者は、他の地域からの移住者か、その影響を受けていた人々であったことが伺われています。
 この丘陵先端の畑で、黒色の黒曜石の石片を表採したのが約40年前、弥生時代の遺跡があるなとは思っていましたが、これ程の規模とは想定以上の遺跡でした。
全景 住居跡
貯蔵用の竪穴 出土した土器
遺跡を被い尽くす土石流の石群 矢が刻まれた花崗岩
18 長野城
 平康盛は、保元2年(1157年)に豊前国司としてこの地区に下向し、長野城を築き、これより長野氏を称することとなりました。その後、天正年間(1573年~1593年)までの約400年間、この地区を治めました。
 また、この城は日本最大と言われる畝状竪堀群(うねじょうたてぼり)で有名です。

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畝状竪堀群堀を上から望む 林道に削られた畝状竪堀
19 猿田彦大神
 長野平野から貫平野に通じる峠道の脇に、猿田彦大神が2基祀られています。
20 猿田彦大神
 冬野観音堂内に、猿田彦大神が1基祀られています。
21 金山遺跡
 弥生時代の終わり頃から古墳時代の始め頃に築かれた、矢板と杭で構成する大規模な井堰が発見されました。
 井堰は、水田へ水を取り入れるための施設で水位の調整も行っていました。
 また、水辺では祭りを行っていた様で壺や高杯が出土しています。
 さらに、住居の扉、鍬やスコップ等の木製品が大量に発見されました。
全景 説明板
22 高倉神社
祭神:息長帶比賣命
    品陀和氣命
    多紀理比賣命
    市寸島比賣命
    多岐都比賣命
    沖津彦神    沖津媛神
    罔象女神    大山祇神
    猿田毘古神
例祭:9月2・3日
由緒:建武年間に、足利尊氏が下向の時、、この村を食料の地として貢倉を営み、京都三条坊門高倉に鎮座していた高倉八幡宮を勧請し、横代村の産土大神としたと云われています。
 境内には、寛政9年(1797年)寄進の鳥居、寛政年間の猿田彦大神等があります。
 白髭社は、明治39年に村内より移転したもので、弘化5年(1848年)建立の鳥居が建っています。
全景 寛政9年(1797年)寄進の鳥居
集められた猿田彦大神 寛政年間の猿田彦大神
拝殿全景 猿田彦大神 白髭社の弘化5年の鳥居
23 安徳天皇稜
 元暦2年(1185年)壇之浦の合戦で敗れた平家一門は、安徳天皇は二位尼(にいのあま)に抱かれ入水したと偽り、安住の地を求めこの地にたどり着きました。そして、この地で天皇が亡くなった為、火葬し墓を建てたと云われています。境内には、安徳天皇を祀った石碑と4基の五輪塔が祀られた御堂があります。なお、安徳天皇の陵墓は、全国に数十箇所の伝承地があり、現在は下関市の赤間神宮にある墓が阿彌陀寺陵(あみだじのみささぎ)とされています。

 また、毎年12月15日源氏の追っ手が迫った時、里人が藁の中に安徳天皇をかくまい、追っ手の目をそむけることができたという伝説にちなんで「しびきせ祭り」が行われています。
  御堂
堂内の五輪塔
24 隠徳庵
浄土宗
本尊:薬師如来
由緒:元暦2年(1185年)壇之浦の合戦の後、この地に隠れ住み亡くなった安徳天皇を祀ったことが始まりと云われています。また、本尊は、安徳天皇の守本尊で亡くなった時に、巻物一巻、御太刀一腰、鏡一面があったと云われています。
 また、現在は二市一郡新四国霊場の第74番札所ともなっている御堂です。
25 丸ヶ口福相寺城
 標高110mの山麓から標高212mの山頂にかけて4段の郭や竪堀、そして北東側に出丸が築かれています。




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全景 堀切
26 丸ヶ口観音堂
本尊:観世音菩薩
由緒:不明

 二市一郡新四国霊場の第67番札所となっている祠です。なお、この場所は福相寺の跡で、タケの観音ももともとはこの場所にあったと云われています。
 福相寺は、浄土宗護念寺の末寺で、丸ケ口城主長野太郎義春が開基したと云われています。なお、寺は明治37年に大分県に移転しました。
道標
27 タケの観音堂
本尊:不明
由緒:不明

 標高180mの中腹、山城の土塁に囲まれた郭の平地に建っています。もともとは、麓にありましたが、何時の頃かここに移ったと云われています。境内には、文政7年(1824年)に建立された石灯篭があります。

 また、毎年4月17日にお祭りが行われており、前日は「お通夜」といって、里の女性によって作られた料理を、夜8時頃から真っ暗な山中を登り、夜遅くまでご詠歌の謹行が行われています。なお、これらの祭りは全て女性のみで代々行っていると言われています。
全景 何が祀られているのでしょうか
文政7年(1824年)の灯篭 観音堂よりの眺望・曽根地区
28 高智神社
祭神:日本武命
    闇淤加美命
    大山祗命
    木花咲那姫命
例祭:6月21日
由緒:不詳
29 猿田彦大神と五輪塔
 堀越城の西の麓、旧堀越村の中心地に石垣で造成された平地があり、そこに祠が祀られています。
 境内には、享和2年((1802年)建立の猿田彦大神や一石五輪塔があります。
全景 享和2年建立の猿田彦大神
一石五輪塔他
30 宇津木先生之碑
 旧堀越村に、昭和2年に建立された宇津木先生之石碑があります。宇津木先生は、堀越村の出身で志井尋常小学校の教師そして校長を務めました。この場所は、宇津木先生宅の庭でした。
31 堀越城
 標高353mの山頂から東西に延びる尾根に、郭や二重堀切等が築かれています。


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全景 堀切
32 石灰釜

 堀越城のある山の山麓に、石灰石を焼いて石灰を作るための釜が残っています。農業用の肥料をここで製造していたようです。また石灰は、伝統的日本家屋の壁に使う漆喰の原材料にもなっています。

全景 内部の石積みが焼けている
参考文献等
北九州の史跡探訪 昭和61年1月15日発行 北九州史跡同好会
北九州市史 近代・現代(教育・文化) 昭和61年12月10日発行 北九州市
復刻 企救郡誌 昭和52年2月11日発行 防長史料出版社
北九州市の文化財ガイド(古墳編) 平成4年4月1日発行 北九州市教育委員会
福岡県の城 1995年4月14日発行 廣崎篤夫著 海鳥社