八幡西区折尾地区
2005年1月4日開設
1 折尾駅 12 東筑高等学校
2 九鉄用地石 13 疋田小三次墓
3 赤煉瓦人道 14 折尾警察署庁舎
4 旧西鉄煉瓦橋梁 15 折尾横穴古墳群
5 堀川疎水碑 16 特攻勇士の碑
6 岡山直道先生碑 17 川ひらた
7 鷹見神社 18 舫石
8 一石五輪塔他 19 車返しの岩盤
9 正願寺 20 三好セキ女史碑
10 明照大師堂 21 エンドレス線橋台
11 菅野十郎右衛門墓 -
1 折尾駅

 明治24年2月、九州北部の幹線鉄道である九州鉄道会社の折尾駅が開業、そして同年8月に、筑豊地区の石炭を若松港まで輸送する筑豊興行鉄道会社が開業しました。
 明治28年6月30日、両社は石炭輸送の便を図る為、折尾駅にて連絡線を敷設し、相互乗入れ運転を始めました。
 明治30年4月、両社の合併により、折尾駅は九州鉄道株式会社折尾駅として再出発、そして明治40年国有化により鉄道局の管轄下に入りました。


 このように、当初二つの会社がそれぞれ駅を造っていた為複雑な構造となっています。また、日本ではじめての立体交差構造をもち、一階と二階のホームを結ぶ煉瓦造りの連絡通路等建設当時の面影がよく残っています。




 駅舎は、大正5年に建設された木造2階建で、寄棟屋根と屋根窓の付いた入口を持つ中央棟と翼部から構成されています。なお、外観は改修されており屋根窓につけられた車輪の装飾は建設時はありませんでした。

 駅舎内部は、円柱と下部に設置された木製ベンチ、そして円柱頂部の補強と装飾を兼ねた金物が開設当初の雰囲気を残しています。

2 九鉄用地の境界石柱
 九州鉄道会社時代の「九鉄用地」と刻まれた境界石柱が、折尾駅構内の端に残っていました。
3 赤煉瓦の人道
 鹿児島本線を横断する為の人道用トンネルが、折尾駅西側に赤煉瓦で造られています。  入口部分は、カーブがきつかったせいか、後に削られていました。
4 旧西鉄北九州線の煉瓦橋梁

 大正3年(1914年)、旧西鉄電車の前身である九州電気軌道の終点折尾停留所が完成しました。この橋梁は、折尾停留所へ接続する3連の煉瓦造りアーチ橋として造られました。この橋梁は、アーチ内の煉瓦が斜めに積まれる「ねじりまんぽ」という特殊な構造で造られています。この橋梁下は、地域の生活幹線道路として使われている為、通行者への配慮として装飾性の高い技法が採用されたようです。
 なお、西鉄電車は、平成4年10月砂津〜黒崎間が廃止、平成12年12月には折尾〜黒崎間も廃止され、北九州市内の路面電車は全線廃止となりました。

5 遠賀川(堀川)疎水碑
 元和7年(1921年)、毎年雨期や台風時に氾濫し大きな被害を出していた遠賀川の治水対策として、福岡藩初代藩主黒田長政は、家老栗山大膳に堀川運河の着手を命じました。堀川運河の開削は、治水対策のほか、潅漑用水や船運の確保も目的とした多目的な計画をもっていました。着工後の元和9年(1623年)、藩主の死去等により工事は中止。その後、何度か工事再開が試みられましたが、成功せず、寛延4年(1751年)六代藩主継高によって、計画を変更し再開となりました。その工事は、吉田村車返しの岩盤開削という難工事を経て、宝暦12年(1762年)着手から140年の時を経過して完成しました。
 この碑は、明治30年(1897年)堀川流域の河守神社に関係する十六ヶ村の住民によって建立されたもので、裏面の工事概要は黒田長政の文と筆で記されています。
6 岡山直道先生の頌徳碑
 岡山直道先生は、弘化元年(1844年)福岡藩士の子として生まれ、元治元年(1864年)藩学問所の指南役を命じられ、その後藩校の教師となりました。明治4年、廃藩置県により藩校も廃止されたため、有志の招へいに応じて香月村で「余力学舎」を開きましたが、明治5年の学制発布にともない、明治7年香月小学校の教師となりました。その後、県立芦屋中学校教授、本城村に開校された私塾「岡洞校(こうどうこう)」の教師、感田村「真香校」の教師等を経て、明治20年折尾村に私塾「岡洞校」を再び開校しました。明治38年(1905年)、先生の還暦を記念して門下生が建立したのが、この頌徳碑です。題字は、黒田長成の筆によるものです。
7 鷹見神社
祭神 素盞鳴命 速玉男命 事解男命

由緒 寛永7年(1630年)、穴生村から迎えて祭ったとあります。明治5年に折尾村の村社となり、昭和4年に再建されました。また、平成5年には鉱害復旧工事により全面的に修復されました。





 境内には、五輪塔の他、文化8年(1811年)及び文久2年(1862年)に建立された江戸時代の古い鳥居があります。






 また、日露戦争で使用された海軍の水雷が奉納されています。なお、第二次大戦中の鉄製品供出の際には、軍からの奉納品であることを理由に拒否したとのことです。
 東筑高校北側に、今は使われなくなった鳥居と参道がひっそりと残されていました。
8 江戸墓・板碑・一石五輪等
 鷹見神社が鎮座する丘の東側にある御堂の境内に、江戸時代の墓や、時代が不明の板碑、一石五輪塔が大切に祀られています。

江戸時代の墓
 なお、一石五輪塔は、平面が楕円形や長方形を呈しており、市内ではあまり類例がありません。
板碑 一石五輪塔
9 正願寺

浄土宗鎮西派

由緒 穴生弘善寺の末寺で、則松の代官を務めていた大野勘右衛門が、寛永15年(1638年)の島原の乱で戦死した二人の息子を弔うために建てた小庵「松月庵」が始まりとされています。勘右衛門は、引退して三省と号していたため、これをとって三省山正願寺と言います。
 なお、お寺の石碑には、この寺の起源は慶安5年(1652年)と刻まれていました。

また、境内には、寛永15年(1638年)の年が刻まれた二人の息子の墓があります。

大野勘右衛門の息子の墓
10 明照大師二十五霊場
 正願寺の東隣にある御堂で、境内には同地から掘出された多数のお地蔵さんが安置されています。
11 菅野十郎右衛門の墓
 地域の方からは、殿の墓と呼ばれており、横の石碑には、「古屋敷地主弐百四十余名の武士の碑」と「菅野十郎右衛門」の名が刻まれています。
12 東筑高校の正門

 福岡県立東筑高等学校は、明治31年6月嘉穂郡飯塚町(弦飯塚市)の仮校舎で開校し、明治35年3月に現在地の新校舎へ移転。この正門は、開校当時の面影をのこす石造りの重厚な造りとなっています。
13 疋田小三次の墓
 疋田小三次は、黒崎城主井上周防の子半右衛門の家臣で、半右衛門は黒田藩二代藩主忠之の不興を受けて脱藩、その甥忠三郎も脱藩しました。小三次は忠三郎の脱藩を助けたことで捕らえられましたが、自白しなかったために、幼い三人の息子とともに責め殺されました。
 その後、折尾の村に異変が相次ぎ、村人は小三次親子のたたりを恐れ、墓を建てて供養しました。
 墓の中で一番大きい墓が、疋田小三次で小さいほうは三人の子供たちの墓です。また、墓の横にある古井戸には、小三次の遺品が収められていると云われていますが、たたりを恐れて一枚岩で蓋がされています。
 菅原神社(堀川町)には疋田小三次が祀られています。
14 旧折尾警察署庁舎
 折尾女子学園の旧本館として使われていた建物は、昭和16年折尾警察署の旧庁舎を買取り、解体移築したと記録されています。
 木造瓦葺、2階建ての建物で、明治30年代後半の建築と推定されていますが、詳細な調査がなされていないため不明です。
 昭和61年、本館の役目も終わり2度目の移築により部室等に利用されています。
15 折尾横穴古墳群
 横穴墓(おうけつぼ)は、古墳時代後期(五世紀後半から七世紀)に造られた古墳の一形態で、丘陵の斜面に横穴を掘って死者を葬ったものです。従って、砂岩丘陵等構造上適した地質が求められますが、この折尾地区は殆どが砂岩丘陵で形成されており、横穴墓築造の最適地でした。なお、堀川町の丘陵斜面にはいくつもの横穴がありますが、発掘調査がなされていないため、推定の域を超えていません。また、横穴墓は、早い時期から盗掘されたり、中世以降に再利用されたりで、確証が非常に難しい遺構です。
16 特攻勇士の碑

 昭和19年8月20日午後5時、アメリカ軍の爆撃機B29約80機が八幡を空襲、迎撃に当たったのは、小月飛行場の第4戦隊でした。しかし、攻撃するが、当時空の要塞と言われていたB29はびくともせず、このままでは八幡に爆弾を投下されると思い、陸軍二式複座戦闘機「屠竜」搭乗の少年飛行兵第6期の野辺重夫軍曹、戦技第13期高木伝蔵兵長は、折尾上空でB29に体当たりし爆破、その爆破片で続く爆撃機も空中分解して、計2機を撃墜しました。
 両勇士の功績を称えて、この慰霊碑が建立されています。

 なお、特攻した日は、8月21日と書かれている文献もありますが、本文については現地の戦記碑を根拠にしております。

17 川ひらた(県指定有形民俗文化財)

 川ひらた(別名五平太とも呼ばれていました)は、堀川運河で使用されていた米や石炭等の物資運搬船で、水深の浅い運河でも航行できるよう船底は平たく、喫水(船が水に浮かんだとき船体が沈む深さ)も浅く造られています。また、多くの物資が載せられるように前後のへりは幅広く造られています。折尾高校に保存されている船は、長さ12.2m・幅2.1mで約7dの標準船です。川ひらたには、主に遠賀川で使用された約10dの大型船と、堀川運河と江川で使用された約4.5dの小型船がありました。
 川ひらたは、最盛期には約8千隻ありましたが、明治24年の筑豊興行鉄道の開業により、順次廃船となり、大正時代には姿を消しました。

18 舫石(もやいいし)

 川ひらたを係留するための設備で、石に開けられた穴に綱を通して船を結び付けていました。現在、運河沿いに3基残っています。
 地上に出ている舫石の高さは、20〜40cm、幅15cm、厚み10cmで、その中心に直径5cmの穴が開けられています。

19 車返しの岩盤開削
 堀川運河は、寛延4年(1751年)六代藩主継高によって、当初の計画を変更し工事再開となりました。その工事で最大の難関は、折尾高校下の岩盤を開削する工事で、現在でも、鑿(のみ)の跡が岸壁にのこっています。
 また、このとき使用した鑿や槌(つち)が大量であったことから、この近くに鍛冶場が作られていたと云われています。
20 三好セキ女史の顕彰碑

 日本炭礦鰍フ前身である三好炭坑の坑主三好徳松氏の夫人セキ氏は、大正7年(1918年)私立折尾高等女学校を創立しました。女学校は、その後大正15年に県営へ移管され昭和24年東筑高校に統合されました。なお、同校跡地に、昭和31年福岡県立折尾高等学校が開校しました。
 この顕彰碑は、校地や校舎を提供して女子の育英事業に多大な貢献をしたセキ女史を称えるため、折尾高校の入口に建立されました。

21 エンドレス線の橋台跡
 日本炭礦鰍フ前身である三好炭坑は、大正3年(1914年)折尾駅までエンドレス線を敷設して、高尾・釜ヶ谷坑から掘出された石炭を直接駅まで輸送をはじめました。この、旧国道199号線沿いに残っているコンクリートの塊は、そのエンドレス線の橋台で、鹿児島本線側のみ残っています。
参考文献等
八幡市史 復刻版 昭和49年5月17日発行 名著出版
北九州の歴史的建造物 平成元年9月30日発行 (財)北九州都市協会
福岡県の近代化遺産 平成5年6月15日発行 (財)西日本文化協会
北九州の史跡探訪 昭和61年1月15日発行 北九州史跡同好会
北九州の史跡探訪 平成2年9月1日発行 北九州史跡同好会
増補改訂 遠賀郡誌 下巻 昭和37年9月10日発行
北九州を歩く 昭和62年7月15日発行 (有)海鳥社
北九州市史 総論先史・原始 昭和60年12月10日発行 北九州市