八幡西区野面・金剛・笹田地区
2006年1月16日開設
1 長泉寺
2 八所神社
3 野面古墳
4 野面校跡
5 舞岳神社
6 本宮神社
7 庚申塚?
8 庚申尊
9 稚児ヶ原地蔵
10 乳児原池
11 開墾碑
12 常楽寺
13 立石  
14 前岳神社
 
 
地域の歴史
1 町の変遷
  明治22年:木屋瀬、野面、笹田、金剛の4村が合併して鞍手郡木屋瀬村(人口3,239人) となる。
  明治31年:鞍手郡木屋瀬村が鞍手郡木屋瀬町となる。
  昭和30年:遠賀郡香月町とともに八幡市に編入される。
  昭和38年:5市合併に伴い北九州市となる。
2 町名の由来等
  野面:昔は「ノモ」と呼ばれていましたが、後に「ノブ」となり、また「野夫」とも表記されたこともありました。
    また、中世文書に野面庄の名前がみられます。
  笹田:この地は小狭田彦の領地であったため、昔は、「小狭田」と呼ばれていましたが、何時の頃か「笹田」
    に転訛したと云われています。
  金剛:金剛寺と云う寺があった為、村の名前に転訛したと云われています。
1 長泉寺

真宗
本尊:
由緒:もともとは、真言宗で「普門寺」又は「遊仙寺」と称し、野面地頭戸田氏の菩提寺でした。文禄年間(1592年から1595年)に、瓜生長門寺勝忠、宗像中納言との戦に利あらずと当地に遁れて仏門に入り、道喜と称して普門寺に住みつきました。その後、長泉寺と改称し真宗に改めたのがこの寺の開基とされています。

 山門は、黒田藩六支城の一つであった直方の鷹取城が、元和元年の一国一城令により破却された際、城門を移築したものと云われています。

2 八所神社
祭神:高皇産霊神
    神皇産霊神
    生産巣日神
    足産巣日神
    魂留産巣日神
    大宮乃売神
    御食津神
    事代主神

由緒:斉衝2年(855年)、郷督小賀四郎左右衛門と云う者に神託があり、日隅の丘に社を建て、嫡男源太丸を社司としました。その後、元応2年(1320年)香月兵部少輔則盛がこの地を領している時に、現在地へ社を移転したと云われています。

 
 一ノ鳥居脇に、天保15年(1844年)に造られた旗竿石が二基ありました。

 二ノ鳥居は、宝暦8年(1758年)に造られたものです。


 境内に、嘉永6年(1853年)に造られた灯篭があります。




 また、弘化3年(1846年)に造られた狛犬がありました。








 境内にある天満宮の鳥居は、文久元年(1861年)に造られたものです。






荒五郎様
 農耕に牛馬を使用していた時代に、牛馬の守り神として信仰されていました。



地神様
 民家で、大切にお祭りされていた地神様が境内に移されていました。明治30年代の頃だと云われています。

享保8年に造られた鳥居
荒五郎様 地神様
3 野面古墳
 墳丘と羨道は、既に無くなっていますが、玄室のみが残っている6世紀末に造られた横穴式石室古墳です。現存の玄室の全長は、3.75m、幅は2.25mで、本来羨道を含めた全長は10m程であったと推定されています。また、現在この1基のみがお堂を兼ねて保存されていますが、他にも古墳があったと云われており古墳群の存在が知られています。
4 野面校跡

 明治6年(1873年)、現在の木屋瀬小学校の前身である野面校が開校する。野面村、笹田村、金剛村の子供たちが学んでいました。翌明治7年、同じく木屋瀬校が開校。そして、明治27年、野面校と木屋瀬校を統合して木屋瀬尋常小学校となりました。その野面校があった場所の塀の中に、碑が埋め込まれています。

5 舞岳神社
祭神:伊邪那岐尊
    伊邪那美尊
    級長津彦命
    級長戸辺命

由緒:正応2年(1289年)、舞岳山の頂に祀ったのが始まりで、いつの頃か麓の松林の中に社を建て、山頂の神を勧請し下宮としたのが現在の社となった云われています。山頂の上宮の北に大きな岩窟があり、里人は風穴と呼び、これにふれれば必ず大風がおこると云われています。また、七合目に不動石と言われる高さ二丈余りの岩があり、これをけがすと祟りがあると云われています。そして、五合目に比丘尼石と言われる大岩があり、その石の上には足跡があると云われています。さらに、日本武尊が滞在の際、舞をまわれたことから舞岳神社と名付けたとの伝説もあります。


 境内の鳥居は、弘化2年(1845年)に造られたものです。

弘化2年

天保11年(1840年)と刻まれた石碑
6 本宮神社
祭神:日本武尊

由緒:永禄12年(1569年)創建とされ、地方にて初めて日本武尊を祀った為、本宮と称しているとも云われています。




 境内に天保13年(1842年)に建てられた鳥居を平成12年に復刻したものがありました。



 その他、大切に祀られている石碑等がありましたが、由緒は不詳。
7 庚申塚か猿田彦
 金剛一丁目地内の稚児ヶ原地蔵へ行く道路分岐点に今でも大切に祀られている、無銘の立石がありました。云われ等については、不明です。
8 庚申尊
 金剛三丁目地内の道路分岐点に、庚申尊がありました。こちらは、祀る人もいなくなったのか、蔦などに覆われ、かろうじて前面に彫られている庚申尊の文字が読めました。
9 稚児ヶ原地蔵
 応仁年間(1467年〜1468年)、金剛寺に強盗が侵入した時、寺に住んでいた多くの稚児は逃げたが、賊は追撃して皆殺しにし、この地に埋めたと云われています。その後、宝暦年間(1751年〜1763年)に、殺された稚児を弔う為、地蔵観音堂を建てたと云われています。子供の病気には、ご利益があると言われ願かけに穴のあいた小石をそなえていました。
10 乳児原池
 稚児ヶ原地蔵堂の横にある農業用のため池で、上池と下池からなり、下池の中を九州自動車縦貫道が通っています。
上池

下池
11 開墾碑
 明治44年に、笹田地区の開墾を記念して建てられた石碑です。
12 常楽寺
真宗
本尊:薬師如来
由緒:天正年間に廃絶し、今は薬師堂のみ残っています。また、本尊薬師如来坐像は、奈良時代のもので行基の作と云われています。その他、鎌倉から室町に作られたとされる四天王像や、十二神将像もあります。
13 立石
 常楽寺の前に、文字が刻まれた石が二基あります。内一基には、梵字らしきものが刻まれていました。詳細は、不詳。
左の石に、梵字が
14 前岳神社
祭神:伊邪那岐尊
    伊邪那美尊
    級長津彦命
    級長戸辺命

由緒:正応2年(1289年)、舞岳山の頂に祀ったのが始まりで、いつの頃か村中に社を建て、山頂の神を勧請し下宮としたのが現在の社となった云われています。舞岳神社と、祭神及び由緒共に同じものです。



 境内に、文化8年( 1811年)に建てられた鳥居があります。それには、石神門一基と刻まれていました。
参考文献等
北九州市史 民俗 平成10年10月1日発行 北九州市
北九州の史跡探訪 昭和61年1月15日発行 北九州史跡同好会
北九州の史跡探訪 平成2年9月1日発行 北九州史跡同好会
八幡市文化財調査報告書 第八輯 昭和38年1月 八幡市教育委員会
郷土八幡 創刊号 昭和48年6月1日 八幡郷土史会
目でみる 八幡の文化財 第一輯 昭和47年5月20日 八幡郷土史会
目でみる 八幡の文化財 第二輯 昭和51年6月20日 八幡郷土史会
木屋瀬町誌 昭和34年12月 木屋瀬公民館