八幡西区木屋瀬・楠橋地区
2008年11月7日開設
1 木屋瀬宿西構口 2 追分の道標 3 村庄屋 4 高崎家住宅
5 愛宕山護国院 6 船庄屋 7 代官所跡 8 木屋瀬宿記念館
9 問屋場跡 10 郡屋跡 11 須賀神社  12 常夜燈 
 長崎街道
13 長徳寺 14 弁財天  15 西元寺 16 永源寺
17 御茶屋の門 18 扇天満宮 19 東構口 20 船板壁の家
21 のこぎり歯状家並 22 木屋瀬盆踊り 23 中島橋 24 観音堂
25 祠 26 祠 27 御堂 28 寿命の唐戸
29 興玉神 30 興玉神    
1 木屋瀬宿西構口

 木屋瀬宿は、長崎街道の筑前六宿の一つで、構口は宿場町の出入り口で、道路と直角に石垣を組み、その上に練塀を築いたもので扉は設けられていませんでした。築かれた時期は、参勤交代が制度化された寛永12年(1635年)以降、宿場が整備されて行く過程と考えられています。また、構口は、設置の方向にかかわらず、江戸への上り方面を東構口、下り方面を西構口としました。従って、この西構口は、次の飯塚宿への出口となります。なお、この構口は、市内に残る唯一の遺構で貴重な文化財となっています。

宿場内に向かっての全景 割り石を組んでいます。
左側の石組み 右側の石組み
1970年代 1970年代の追分と構口
2 追分の道標
 西構口の外側に、元文3年(1738年)に建立された追分道標が建っています。道標には、右赤間道、左飯塚道と刻まれています。赤間道は、遠賀川の土手を越え、渡し舟に乗って遠賀川を渡り、中ノ島を歩き再び犬鳴川を渡って植木の宿に上がり、新延(にのぶ)から赤間へ出ます。なお、現在道標は、レプリカに代わっており、実物はみちの郷土史料館にあります。
レプリカ 実物であった1970年代
3 村庄屋(松尾家)
 宿には、村庄屋・宿庄屋・船庄屋の三庄屋が置かれ、その内村庄屋は村全体を統括していました。この松尾家は、庄屋役の他、問屋役、人馬支配役などを務めていました。現在の建物は江戸時代末期の建築で、妻入りの入母屋造り、軒裏まで漆喰で塗り込めた大壁造りとなっています。

 室内吹き抜けの土間には、明かり取りが設置され、紐を引っ張れば滑車を利用して障子等の戸が開くようになっています。これは、高崎家住宅にも全く同じものがあります。

 また、二階へ荷物を運び込む必要がある時だけ、釣りおろす階段が設置されています。

 家の裏手は遠賀川の土手まで敷地があり、ほぼ真ん中に井戸が掘られています。こちらの井戸枠は四角に組まれていますが、内部構造は板石を六角形に組んでいます。また、板石の目地には漆喰が使用されています。
表・全景 明かり取り窓
室内と釣りおし階段 裏手
井戸
4 高崎家住宅(伊馬春部生家)

  元高崎家は、解体修理の結果、梁に残された墨書から天保6年(1835年)の建築で、妻入りの入母屋、大壁造りとなっています。
 また、高崎家は、江戸時代末期には絞蝋業、明治初期は醤油醸造業を営む商家であったことから、大戸口(おおとぐち)の柱を外すと荷車が土間に乗り入れられるようになっているなどの工夫が施されています。
 2階の座敷天井は、船の底のように、中央部が両端より勾配を持って高くなった「船底天井」が採用されています。そして2階への昇り降りには箪笥と階段を兼ねた箱階段を利用しています。
 井戸は、復元整備に当り新しく六角形に井戸枠が組まれていますが、内部は当時の瓦質の粘土板が円形に組まれています。同様の瓦質粘土板
を利用した井戸は、小倉城城下町の民家跡からも数件見つかっています。
 雨戸は、建物の角である入隅と出隅で戸板を回転させ戸袋に収納することが出来るように工夫されています。同様の工夫は、鹿児島県知覧町の武家屋敷でも採用されています。但し、知覧では戸板外れ防止に出隅に竹を用いていますが、高崎家では鉄鉤を用いています。
 建物の基礎は、土台の腐食を防ぐため、布石と呼ばれる長方形に加工された石材を建物の土台の下に廻らせいます。この工法は、木屋瀬宿の古い民家には、現在も使用され続けられています。
 街道に面した表は、昼間上半分を内側に吊り上げ、下は柱の溝に沿って外すことが出来る摺り上げ戸になっています。
 屋根瓦には、高崎家の屋号であるカネタマの印が入っています。

 建物は、平成6年3月に市の有形文化財(建造物)に指定され、平成10年(1998年)3月に修復工事を完了し、一般公開されています。


 さらに、この家は「向う3軒両隣り」等ラジオの全盛期に活躍した放送作家伊馬春部(本名:高崎英雄)の生家です。なお、今年は明治41年(1908年)に生まれてから生誕100年の節目となっています。

外観 内庭
船底天井 箱階段
室内と展示 六角の井戸枠
井戸の構造 小倉城下町で出土した井戸
雨戸の入隅と出隅 知覧の武家屋敷の出隅
礎石 摺り上げ戸と屋号の瓦
5 愛宕山護国院
 直方四国の札所で、本尊は不動明王を祀るお堂となっていますが、元々は僧源水が、明応2年(1493年)に香月の聖福寺の末寺として開基したと云われています。
 境内には、建立年不明の庚申天尊、文久2年(1862年)建立の常夜燈、五輪塔の空輪が2基分あります。

 現在、いのちの旅博物館に収蔵されている江戸時代末期の木屋瀬宿駅の様子を描いた「板絵著色木屋瀬宿図絵馬」は、このお堂に奉納されていました。なお、この絵馬は平成12年3月に市の有形民俗文化財に指定されています。
全景 庚申天尊
常夜燈 五輪塔の空輪
6 船庄屋(梅本家)
 木屋瀬宿には、年貢米の集積場である本場(米場)が置かれていました。そして、年貢米の運搬は、権利をもった24艘の川ひらたに限られており、その管理を行っていたのが船庄屋です。現在の建物は、天保年間の建築で、平入りの切妻造りで大壁造りとなっています。なお、かつて屋根は草葺であったと云われています。

 室内は、ここも奥まで続く土間があります。また、奥の1階座敷の天井は船底となっていましす。
全景 1970年代当時
土間 船底天井
7 代官所跡
 福岡藩は、宿に年貢の取立てと国継ぎを行うために代官所を設置していました。また、代官所には、代官と宿場の事務を行う下代が数人常勤していました。長崎街道から代官小路と呼ばれていた路地に入った所に建物がありましたが、現在は石垣のみを残すのみとなっています。
代官小路 石垣
8 長崎街道木屋瀬宿記念館
 宿場の御茶屋(本陣)と町茶屋(脇本陣)が建っていた跡地に、「みちの郷土史料館」と芝居小屋風のホール「こやのせ座」からなる長崎街道木屋瀬宿記念館が整備されています。
 御茶屋は、福岡藩が建てた宿で、主に長崎奉行、大名等が泊まっていました。
 資料館は、江戸時代から、明治、大正、昭和までの歴史が分かりやすく展示されています。
みちの郷土史料館 こやのせ座
9 問屋場跡

 問屋場は、馬・人足・駕籠等の調達や飛脚・荷物の発送等、宿場でもっとも重要な施設でした。そのため、問屋場の前は道幅が、通常5mのところ7.5mと広く、また街道沿いに飛脚井戸が残っています。そして、この場所は宿場内で一番の高台にあり、水害などの災害にも備えていました。
 最後の問屋は、野口家で、北九州では小倉に次いで2番目の古さとなる郵便所を明治4年に開設しました。
 また、大正から昭和にかけ日本のペスタロッチといわれた教育者である野口援太郎の生家でもあります。

10 郡屋跡
 郡屋は、郡内の村役人の集会所で、福岡藩は筑前六宿をはじめ主要な宿場に設置していました。また郡屋には郡屋守が配置され、参勤交代に係わる人馬割当、年貢の調整、普請の打合わせ等には、代官、下代、大庄屋、庄屋、組頭などが集まっていました。
11 須賀神社
祭神:
由緒:永享年間(1429〜1441年)に勧請され、その後荒廃していましたが、寛永2年(1625年)に豪商伊藤宗伯が再建したといわれています。江戸時代までは、鳥居の額に刻まれているように祇園社と呼ばれていました。

 
 境内には、元禄10年(1697年)建立の鳥居、文政12年(1829年)建立の狛犬、弘化4年(1847年)建立の供物台等の祭祀施設があります。

 その他、嘉永5年(1852年)建立の猿田彦大神、天保15年(1844年)と刻まれた石柱、大正初期に建立された中島橋記念碑、室町時代後期の連歌師宗祇の碑等があります。なお、中島橋記念碑の碑文は、下関要塞司令部司令官であった陸軍中将白水淡の書によるものです。
 宗祇は、室町時代の連歌師で、大内政弘の援助を得て文明12年(1481年)大宰府天満宮へ参拝を行いました。その時の9月14日に木屋瀬に宿泊しています。また、その際に記した紀行文「筑紫道記」は、有名です。なお、碑文には、「広く見よ 民の草葉の 秋の花」と刻まれています。

 また、毎年7月中旬に開かれる祗園祭りでは、赤山笠とと青山笠の2台の飾り山笠が巡幸するほか、昭和37年4月に県の無形民俗文化財に指定されている木屋瀬盆踊りが境内で奉納されます。
元禄10年建立の鳥居 拝殿
文政12年建立の狛犬 弘化4年の供物台
嘉永5年建立の猿田彦大神 天保15年の石柱
中島橋記念碑 宗祇の碑
12 常夜燈
 須賀神社の前の通りに、寛政11年(1799年)に建立された常夜燈が1基あります。
13 長徳寺
浄土宗
本尊:
由緒:安元元年(1175年)頃に創建の寺で、当時は天台宗の寺でしたが、嘉禎元年(1235年)鎮西上人の縁で、浄土宗の寺になりました。慶応2年(1866年)の第二次長州征討の時には、佐賀藩の宿陣となりました。

 境内には、延宝4年(1676年)に亡くなった伊藤又右衛門、享保12年(1727年)に亡くなった伊藤治郎右衛門等豪商伊藤家の墓があります。伊藤又右衛門は、須賀神社を再建した伊藤宗伯の子供です。
 また、六面に地蔵尊を刻んだ変形の宝篋印塔があります。
本堂
伊藤家の墓 六面地蔵塔
14 弁財天
 木屋瀬宿では、たびたび遠賀川が氾濫したため、インドの河神様であった弁財天を、水の神様として祀っています。昔は、長徳寺の境内にありましたが、明治24年の大洪水で破損したため、大正11年現在地に再建されました。
15 西元寺
浄土真宗
本尊:
由緒:浄流が天正10年(1582年)に開基しました。その後、二世梅雪が寛永元年(1624年)に仏殿を建て西元寺の寺号を賜りました。

 境内には、第二次世界大戦中に梵鐘を拠出した記念として、コンクリート製の梵鐘が置かれています。

 また、塀には嘉永6年、明治43年の銘板が嵌め込まれています。
山門 本堂
コンクリート製の梵鐘 塀の銘板
16 永源寺
曹洞宗
本尊:聖観音立像
由緒:初めは、金剛寺として八幡西区の金剛にありましたが、応仁年間(1467年〜1469年)兵火に遭い、大永3年(1523年)にこの地に移り、大儀山永源寺と称しました。

 本尊の木造聖観音立像は、樟材の一木造りで鎌倉時代の作とされています。また、仏像の胎内に納められていた木札や光背の陰刻銘により、元禄11年(1698)と享和3年(1803)に修理されていたことがわかりました。昭和52年3月に市の文化財(彫刻)に指定されています。

 山門入口脇に、嘉永6年に建立された「禁葷」の禁牌石が建っています。これは、修行の邪魔になるネギやニラ等、臭気が強く精力の付く野草を寺の中に持ち込んではないという意味で、曹洞宗と黄檗宗の寺院に多く建てられています。

 山門脇に、嘉永7年に建立された地蔵尊が祀られています。
 
 境内には、遠賀川流域で亡くなられた水難者や炭鉱殉死者の霊を弔うため、昭和28年に建立された真如塔、円形の地蔵菩薩塔、蔦で覆われ碑文の殆どが剥落した天保3年建立の庚申塔があります。
 
 また、境内の墓地等には大正・昭和に造られた五輪塔が沢山あります。そして、街道から寺までの道は、永源寺小路と呼ばれています。
山門 嘉永6年建立の禁牌石
嘉永7年の地蔵尊 昭和28年建立の真如塔
地蔵菩薩塔 天保3年建立の庚申塔
本堂 本堂の鏝絵
五輪塔 永源寺小路
17 御茶屋の門
 永源寺境内の裏に、御茶屋(本陣)から明治3年に移築された門があります。もともとは、永源寺の正門でしたが、大正12年に再度裏門として移転されました。
 屋根には、黒田家の定紋であった藤巴の入った軒丸瓦が葺かれていましたが、昭和61年の修復時に、新しい瓦に取り替えられました。現在は、「みちの郷土史料館」に保存されています。
全景 表側
裏側 藤巴の入った軒丸瓦
18 扇天満宮
祭神:
由緒:観応元年(1350年)以前に創立され、当時は久保崎天神と云っていました。その後、室町時代の後期に連歌師宗祇が、当地に泊まった時、天神と名乗る者から扇をもらう夢を見、そして大宰府に着いた時、実際に扇を授けられたことから扇天満宮と呼ばれるようになりました。
 境内には、嘉永5年(1852年)この由来を刻んだ国学者伊藤常足の由来碑があります。
 大正6年、遠賀川土手改修工事に伴い、南側にある大銀杏の木の場所から現在地へ移設されました。

 その他、文化13年(1816年)の鳥居や江戸時代に建立された猿田彦大神があります。
全景 文化13年の鳥居
本殿 嘉永5年の由来碑
摂社の庚申社 猿田彦大神
19 東構口
 木屋瀬宿の入口である東構口は、西構口のように石垣は残っていませんが、岡森用水路の傍らにあったことが平成13年に行われた発掘調査で確認されています。
20 舟板壁の家
 かつては、老朽化し廃船となった川舟を解体し、板を家の壁に再利用した家が宿場内に観られていましたが、現在は残っていませんので70年代に撮影した写真で紹介します。
21 のこぎり歯状の家並み
 宿場内には、東構口から西構口まで約1.1kmの街道が通っています。街道沿いの家並みは、敵が攻めてきた時に、そのくぼみに隠れたり不意をついて攻撃したりするため、のこぎり歯状に建てられていました。これは、「矢止め」とも呼ばれています。
22 木屋瀬盆踊
 木屋瀬盆踊は、享保年間(1716年〜1736年)に木屋瀬の人がお伊勢参りをした時、その土産にと習ってきた伊勢音頭に、大名行列の供奴のしぐさや掛け声を取り入れて創ったものと云われて、地元では宿場踊と呼んでいます。踊手は道中姿を思わせる扮装で、囃子は太鼓と三味線の2種類です。踊りの種類は並手(思案橋)、次郎左(みやこ)、本手の3種類です。
23 中島橋
 木屋瀬から赤間道を行くには、遠賀川と犬鳴川を渡し舟に乗って直方市の植木に渡っていました。大正時代に、遠賀川の土手を築かれると共に、木製の中島橋が架けられました。その後、昭和2年に鉄筋コンクリートの橋に架け替えられました。その時の、橋柱が橋のたもとに保存されています。
24 観音堂
 直方四国札所で、本尊は、馬頭観音です。この場所は、北九州市内ですが、文化圏は直方市と密接のようです。
25 祠
 道路脇の祠があります。内部に寛政10年(1798年)と刻まれた台石があります。
26 祠
 丘陵の先端に祠があります。内部に嘉永2年(1849年)と刻まれた石碑がありますが、折尾砂岩であるため 表面の剥落が激しくなんであったのか不明です。
27 御堂
 道路脇に御堂があります。内部に板碑が、他の地蔵様等と一緒に大切に祀られています。
28 寿命の唐戸

 宝暦12年(1762年)に完成した堀川運河は、享和(1801年〜1804年)の頃、遠賀川からの分流点付近で田畑の湿地化が生じたため、分流地点を上流の楠橋村寿命に変更することになりました。そして、文化元年(1804年)郡奉行坂田新五郎に工事を命じ、同年6月寿命の唐戸(水門)が完成しました。
 唐戸は、掘削した堀川の両岸に石の樋を建て、天井石を渡した上に木造で上屋を設け、上屋内部に水門を堰き止める板戸を石の樋にはめて上下させる巻き上げ装置(鳥居巻き)を上流側と下流側の2箇所に設置しています。
 江戸時代の治水施設として市内に残された唯一の水門であるため、昭和46年4月に市の有形文化財(建造物)に指定されています。また、老朽化が激しかった為、平成4年度に解体修理が行れました。

上流側 下流側
上屋の下流側 上屋の側面
堰の板戸 鳥居巻き
29 興玉神
 道路脇の中尾公民館敷地内に、建立年不明の興玉神が大切に祀られています。  
30 興玉神
 愛宕神社境内に、文化8年(1811年)に建立された興玉神が大切に祀られています。
参考文献等
北九州の史跡探訪 昭和61年1月15日発行 北九州史跡同好会
北九州の史跡探訪 平成2年9月1日発行 北九州史跡同好会
みちの郷土史料館展示図録 平成13年1月1日発行 北九州市教育委員会