八幡西区紅梅・鳴水地区
2005年9月2日開設(2005年9月25日追加)
1 古官道跡
2 河頭山
3 高祖寺
4 馬塚
5 紅梅庵跡
6 赤穂浪士の墓
7 貴船神社
8 平等寺
9 猿田彦大神
10 西光寺
11 12番札所
1 古官道跡

太宰府に通じる官道の跡と云われて道が、住宅地の間に残っています。江戸時代に、この地域の主要道路である長崎街道が整備されるまでは、この山手の道を多くの人々や利用したのでしょう。現在、幅わずか1m余りですが、石畳で整備されています。
 また、この道に平行して、「水道道」と呼ばれている幅4m程の道がまっすぐに延びていますが、この道の地下には明治年間に八幡製鉄所の工業用水を遠賀川から導水する為の水道管が埋設されています。 

※大和朝廷成立とともに、中央権力による全国統一の進展が始まり、中央と地方の連絡を密に必要性が高まり、都が作られると同時に道路の建設も行われ初めました。その後、律令体制の整備とともに、都と地方に置いた国司や郡司の間を伝達や情報が、いち早く伝わるための「駅制」を整備され、これをもとに「駅路」が運営されます。やがてこの駅路は、官道として畿内より地方へ続く七つの路線が造られました。これが「七道」で、東海、東山、北陸、山陰、山陽、南海、西海の7つの官道と、これにつらなる国の領域を表しています。この内、都より山陽道、西海道を経て太宰府までの道を大路、東海道・東山道を中路、その他の道と小路と呼びました。この駅路には、30里(約16km)ごとに駅が設けられ、駅舎や駅馬が置かれていました。また、九州の太宰府は、中国や朝鮮への窓口であり外交、防衛上の重要な拠点であったため、太宰府から都への道は太宰府官道(大路)として七道の中でも特別に扱われていました。九州で発見された官道の遺跡には、道幅が8〜9メートルで側溝も2メートルを超えるものもあり古代の道の規模が意外と大きかった事を伺わせます。なお、太宰府官道には、杜崎(門司区)、到津、独見、夜久、嶋門、津日、席打、夷守、久爾の駅が設けられていました。

2 河頭山
忠孝碑
 昭和13年、頭山満が来幡した時に揮毫した「忠孝」の書を中腹にある巨岩「はまぐり岩」に刻んだものです。
木村壱岐守鑑邇顕彰碑
 熊手の庄屋木村家の先祖で、天正14年(1586年)太宰府の岩屋城で城主高橋紹運と共に玉砕した木村壱岐守鑑邇の顕彰碑で、元首相広田弘毅の書によるものです。

忠孝碑

木村壱岐守鑑邇顕彰碑
仏教済世軍創立者真田増丸の像
明治40年代、八幡製鉄所内には多くのキリスト教牧師が雇い入れられ布教を行っていた。このため、製鉄所直属の布教師を命じられていた本願寺の江田師は、仏教界の危機を感じ、明治42年東京帝国大学宗教学科卒の文学士真田増丸を招へいし、布教に力を注いだが弱冠33歳の真田にはその攻勢を止めることは出来なかった。その後、街頭に出て洋太鼓を打ちながら声高く歌い、歌が終わると辻説法を行う等伝道活動を展開し、大正の親鸞、大正の日蓮とまで呼ばれていた。そして大正4年(1915年)、「仏教済世軍」を創立し、子供会の設立、幼児教化等社会福祉事業の草分け的活動を行ったが、大正15年極貧のうちに亡くなった。この像は、このあたりの山や土地を所有していた木村孔爾氏が建てたものです。
宇都宮正顕翁碑
 宇都宮正顕翁は、幕末から明治にかけて黒崎宿で肥州・薩州の定宿「桜屋(薩摩屋敷とも言っていた)」の主人で、勤皇の志厚く西郷隆盛、五卿なども交友があった。この碑も元首相広田弘毅の書によるものです。

割られた花崗岩の巨岩
 真田増丸の像が載っている花崗岩を裏から見ると真っ二つに割られており、その上部には矢の跡が残っています。この山の石は、日光東照宮造営時に、黒田藩主が大鳥居、大手洗鉢用の石材として献上されており、この岩も割ったものの持ち出されずに放置されたものと考えられます。

宇都宮正顕翁碑

雨乞いの碑
 明治11年6月、黒崎一帯は大干ばつにおそわれたため、村人は周防の国に滞在していた名僧を招きました。僧は河頭山に登り、七日間の雨乞いをしたところ丁度満願の七日目に雨が降り始め3日3晩にわたって降り続きました。その僧は、源唯行といい、米麦を口にせず、蕎麦のみを常食としていたため「そばくい上人」「木食(もくじき)上人」と呼ばれていました。その後、明治26年8月、再び干ばつにみまわれたため、木食上人を招き雨乞いをしたところ今度は、3日目で大雨が降り出し、田畑は生気を取り戻しました。村人は、大変感謝し、翌明治27年7月上人が雨乞いをした場所に、上人の書による南無阿弥陀仏を刻んだ石碑を建立しました。
3 桂昌院高祖寺

高野山真言宗
本尊 釈迦如来
由緒 不明

 帆柱新四国霊場の1番及び2番札所となっています。
 また、境内に天保9年(1838年)につくられた大乗妙典六十六部供養塔があります。なお、寄進者は「豊后国東郡」在と刻まれていますが、これは「豊後国東郡」のことではないかと推測しています。




大乗妙典六十六部供養塔
豊后国東郡
4 馬塚(荒馬大明神)

 文明10年(1478年)、または明応年間(1492〜1501年)、花尾城主麻生近江守家延が、大内の軍との合戦中、家延の愛馬が敵陣へ馳入ろうとしたので、家延は馬を切り捨てました。後に、家延の誤解とわかり埋葬した場所に塚を建て愛馬の霊を慰めたと云われています。

5 紅梅庵跡
 花尾城主麻生上総介重郷の側室であった紅梅姫は、正室柏井御前の嫉妬や謀略により、明応4年(1495年)8月14日自害。その後、謀略に加った者に異変が起こったため、上総介重郷は、紅梅庵を建て紅梅地蔵を祀ってからは亡霊は成仏し、異変もなくなったそうです。
 庵は、昭和20年8月の八幡大空襲により全焼したため、紅梅地蔵は浄蓮寺に移されましたが、その跡は公園となり片隅に「帆柱四国10番札所」となっている小堂が建てられています。
6 赤穂浪士の墓
 大正2年、津屋崎町新町の医師児玉恒次郎氏は東京高輪泉岳寺の許可を得て、四十七士の墓と同じものを作り、町の入口近くに設置し公園としました。その後、八幡東区の枝光(現在の枝光西公園)に移設されたが、昭和6年真田増丸の高弟木村孔爾によって増丸の墓の横に再移設されました。
7 貴船神社
祭神 高淤加美神、闇淤加美神、
    闇美津羽神

由緒 創立年不詳、慶長の頃より祭祀厳重なる有様にて宮座の神事あり、鳥居の下、神畝という所に大きな神石が二つあり、祭礼の時村中の者悉くこの神石に二膳の饗饌を備えると「遠賀郡誌」に記載されています。
右の写真が、その神石と云われているものか。周りを注連縄が取り巻いています。
 境内裏の山中に何故かある墓石、左側の大きな自然石にも、銘文が刻まれています。
 上記石の碑文。
中の写真
表 寿春妙永信女
裏 慶長十二年三月廿日
   安政三年辰三月


 同じく境内裏の山中にある墓石と思われる加工された石碑。不思議なことに、燈籠にように四角くくり貫きがされています。


黒崎方面を望む

戦前の鳥居前の写真
畑や田んぼがひろがっています。
8 平等寺
禅宗黄檗宗
本尊 観世音菩薩(伝行基菩薩の彫刻)
脇仏 釈迦如来 阿弥陀仏
由緒 開創は、定かでないが、建久5年(1194年)麻生氏によって再建されたが、天正15年(1587年)豊臣秀吉の九州平定で麻生氏が滅びて以降漸次衰退し小堂のみとなっていた。その後、宝暦4年(1754年)広寿山塔頭資福庵湛堂禅師は、行基菩薩の彫刻と云われる観世音菩薩に感じて、鳴水村庄屋古海与七と相談して堂宇を再建し、広寿開山即非禅師揮毫の扁額「平等寺」を掲げた。明治初年までは、寺もさかんであったが、廃仏毀釈により一時住職の常住しない寺となっていたが、檀家の方々の熱意により寺門復興しました。

帆柱四国霊場第3番札所となっており、天保4年(1833年)銘が刻まれた弘法大師像が大子堂に祀られています。また、88体の石仏が安置されています。
 寛政12年(1800年)銘の大乗妙典六十六部供養塔が境内にあります。
 
9 猿田彦大神と山の神
 西川頭町の黒崎を望む傾斜地に、三基の石碑が祀られています。

 @左側は、無銘。
 A真中は、「山の神」と刻まれていますが、年銘はありません。
 B右側は、「猿田彦大神」で、天明7年(1787年)の銘が刻まれています。

 これらの石碑は、元々どこに建っていたのでしょうか。
10 西光寺
真宗大谷派
本尊 阿弥陀如来
由緒 花尾城主麻生氏によって創建されたとも云われていますが、詳細不明。

 境内に、昭和5年火葬場建設10周年を記念して造られたコンクリート製の仏像があります。この、コンクリートには、人骨が混ぜられているといわれています。


11 帆柱新四国霊場12番札所
本尊 虚空蔵菩薩

 花尾城を望む、元城町の小高い丘の頂きに建つお堂は、立派なものです。かつての花尾城とのいわれが、感じられます。
参考文献等
北九州市史 近代・現代・教育文化 昭和61年12月10日発行 北九州市
北九州市史 古代・中世 平成4年1月25日発行 北九州市
北九州の史跡探訪 昭和61年1月15日発行 北九州史跡同好会
北九州の史跡探訪 平成2年9月1日発行 北九州史跡同好会
淨蓮寺史蹟と伝説 昭和56年5月10日発行 淨蓮寺
花尾城築城八百年記念誌 花尾 1995年11月10日発行 花尾山を愛する会
増補改訂 遠賀郡誌 下巻 昭和37年9月1日 遠賀郡誌復刊刊行会