八幡西区香月地区 2005年12月8日開設 |
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1 吉祥寺 | |
2 聖福寺 | |
3 白岩神社 | |
4 山神宮 | |
5 五輪塔 | |
6 大辻炭坑 | |
7 香月駅跡 | |
8 杉守神社 | |
9 広旗八幡宮 | |
10 専福寺 | |
地域の歴史 1 町の変遷 明治22年:香月、楠橋、畑、馬場山の4村を合併して香月村となる。 昭和6年:香月町となる。 昭和30年:木屋瀬町とともに八幡市に合併。 昭和38年:5市合併に伴い北九州市となる。 2 町名の由来等 日本武尊が、熊襲平定の帰路、此の地で日が暮れて、杉の森の中に陣を定められた。月影が黒川の水に写り、梅の香りがただよったので、それを賞められて香月の地名がついたと伝えられている。 |
1 吉祥寺 | ||
浄土宗鎮西派 本尊は、桧(ひのき)一木造りの木像坐像で、胎内には全面に麻布が漆で貼られており、昭和52年3月北九州市の有形文化財(彫刻)に指定されています。また、鎮西上人が母聖寿妙養尼の菩提を弔うため、自ら彫ったとも云われています。 鎮西上人は、応保2年(1162年)この吉祥寺の地で生まれ、父は香月城主香月秀則の弟、古川則茂で、母は古川氏の出であると云われています。9歳で剃髪し比叡山で修行、36歳の時、浄土宗開祖法然上人の門人となり、その後九州に戻り浄土宗鎮西派を開きました。嘉禎4年(1238年)77歳で亡くなり、墓は久留米の善導寺にあります。
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香月牛山翁分骨の墓 |
香月牛山翁寿塔 |
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鎮西上人の父の墓 |
鎮西上人の父の墓 |
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五輪塔 |
五輪塔 |
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2 聖福寺 | ||
天台宗 本尊:観世音菩薩 由緒:延暦22年(803年)、伝教大師が開基としたと云われています。また、当初は七堂伽藍25坊が備わった大寺院であったと云われています。さらに、香月城主の祈願所となっていました。 本尊の聖観世音菩薩は、木彫の立像で、仏師慶雲の作と云われている秘仏で、33年に一度の本開帳と17年毎の中開帳があります。 |
岩窟内の様子 |
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銅製経筒 本堂前にあった2基の五重層塔から、銅製経筒が発見されたと「筑前国続風土記」に書かれています。経筒はいずれも銅板を筒型に巻き合わせて作られており、蓋はすでになくなっています。経筒には、正和5年(1316年)、両親の菩提を弔うために作ったことが針書きされています。
現存している1基の五重層塔は、花崗岩製で高さ2.3m、幅60cmで、その第5層に上から4枚の花びら状になる深さ22cmの孔をあけ、中に経筒を納めていたと考えられています。時代は、鎌倉時代です。 経筒は、平成2年11月13日、市の指定有形文化財(考古資料)に指定されています。 また、「筑前国続風土記拾遺」には、本堂後ろの岩窟にあった石塔からも経筒が1口発見されたと書かれていますが、現在所在は不明です。 |
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現存している1基の五重層塔 | 四重層塔と宝篋印塔 | |
文化15年(1818年)の石灯篭 | 五輪塔 | |
3 白岩神社 | ||
祭神:伊邪那岐神 伊邪那美神 由緒:正和年間(1312〜1317年)に、麻生氏が創建し、文明年間(1469〜1487年)に香月七郎興則が再興したと云われています。 境内には、貴船神社が昭和47年石坂団地造成にあたり遷座しています。 |
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4 山神宮 | ||
大辻炭坑の安全祈願のための神社でしたが、炭坑の閉山と共に廃れ、元の山に帰ろうとしています。鳥居には、炭坑主であった貝島一族の名前が刻まれています。 |
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5 上殿延命地蔵堂内五輪塔 | ||
香月氏の居館跡と云われている上殿にあった五輪塔が、地蔵堂の裏に集積されています。 | ||
6 大辻炭坑跡 | ||
明治12年(1879年)、帆足義方が香月炭坑を開坑、明治29年5月貝島太助が買収し第二大辻・香月炭坑と改称する。その後、貝島太助は、 明治29年12月宮林・外扉炭坑を買収し、第三大辻・中間炭坑と改称、翌明治30年には、大辻炭坑を買収して第一大辻炭坑と改称する。明治37年、これらの炭坑を統合し大辻炭坑と改称する。また、明治41年に大辻病院を開設、大正7年には大辻尋常小学校(現在の香月小学校)を設立する等香月地区の発展に寄与しましたが、昭和43年に閉山しました。 現在、当時の面影を残すものとして明治45年に建設されて変電所と石炭を貨車へ積込む積込場ホッパー が残っています。 変電所は、赤レンガの建物で外壁のみが残っています。また、内壁にはいたるところに配線用の碍子が打ち込まれています。 |
変電所 |
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内壁に打ち込まれた配線用の碍子 |
積込場ホッパー |
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7 国鉄香月駅跡 | ||
香月駅は、明治41年に開業した九州最短路線であった香月線の終着駅でした。筑豊本線中間駅を始発とする全長3.5Kmで、この駅から大量の石炭が輸送されましたが昭和40年代以降のエネルギー転換で輸送量も大幅に減少し、昭和60年3月廃線となりました。 | ||
8 杉守神社 | ||
祭神:日本武尊
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寛政9年(1797年)に造られた鳥居 |
本殿 |
慶応元年(1865年)に造られた石灯篭 |
文政13年(1830年)に造られた狛犬 |
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明治28年に造られた狛犬 |
明治28年に造られた狛犬 |
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明治26年に再建された鉄の鳥居 |
寛政10年(1798年)に造られた石灯篭 |
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9 広旗八幡宮 | ||
祭神: 左殿:天照大神、豊受大神、市杵島姫命、 田心姫命、湍津姫命 右殿:大国主神、高皇産霊尊、神皇霊尊、 武甕槌神、経津主神、武内大臣 中殿:応神天皇、仲哀天皇、神功皇后 由緒:昔は、東南400mの古宮にありましたが、永保年間(1081〜1084年)に遷座したと云われています。また、天慶4年(941年)藤原純友の乱平定の為、下向した追捕長官山陽道使小野好古は、戦勝祈願を行い、神馬、田を寄進したと伝えられています。 社殿は、北から本殿、渡殿、幣殿、拝殿が南北方向に配置されており、また江戸時代末期の神社建築が良く残っており、平成14年3月に市指定有形文化財(建造物)に指定されています。現存する棟札から、本殿は天保12年(1841年)に起工され翌13年5月に遷宮、渡殿・幣殿・拝殿の3殿は弘化4年(1847年)に起工され翌5年に完成、大工棟梁は楠橋村の光長貞定ほか近村の4人で、彫刻は鞍手郡金丸村(現在の若宮町)の古田源衛門の作です。 本殿 桁行3間(4.2m)、梁間3間(4m)で、全て丸柱とする特殊な大型前室付三間社流造、屋根は銅板葺となっています。また、各所に彫刻を配し、木鼻の龍等市内の本殿ではあまり見られない特徴をもっています。 渡殿 本殿と幣殿を繋ぐ吹放しの切妻造で、屋根は桟瓦葺、市内江戸期のものでは唯一の建物です。 幣殿 切妻造で、屋根は桟瓦葺です。 拝殿 桁行4間(6.2m)、梁間3間(6m)で、入母屋造、桟瓦葺の建物です。拝殿に丸柱を使用している珍しい建物です。 また、楠橋村庄屋伊藤彦六が書いた「楠橋村記」によると建替費用は、村民の負担にならないよう焚石(石炭)の収益を当てたとあります。 |
拝殿 |
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本殿 |
本殿から渡殿、幣殿、拝殿を望む |
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本殿木鼻の龍 |
本殿木鼻の龍 |
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猿田 |
安政2年(1855年)に造られた石灯篭 |
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製作年が判読出来ない石灯篭 |
楠橋小学校にあった元奉安殿 |
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10 専福寺 | ||
淨土宗 本尊 阿弥陀如来 由緒 聖光上人誕生の地、茶臼山の辺に寺が建てられていましたが、慶長年間(1596〜1615年)に、現在地に移転したと云われています。また、一説には寛文年間(1661〜1673年)に、文通という僧が開基したとも云われています。 境内に、大正11年佐藤慶太郎が建立した高江炭坑死亡者碑があります。 |
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参考文献等 | ||
北九州市史 古代・中世 平成4年1月25日発行 北九州市 北九州の史跡探訪 昭和61年1月15日発行 北九州史跡同好会 北九州の史跡探訪 平成2年9月1日発行 北九州史跡同好会 増補改訂 遠賀郡誌 下巻 昭和37年9月1日 遠賀郡誌復刊刊行会 |