八幡西区陣原・本城地区
2005年1月10日開設
1 旗頭神社 2 九軌境界石柱 3 舎月庵 4 石碑
5 渡し場跡 6 本陣橋 7 聖塚 8 八剣神社
9 力丸遺跡 10 蛭子谷城跡    
1 旗頭(はたがしら)神社

祭神 中殿 武内宿祢
    左殿 志賀三神
        住吉三神
    相殿 大国主三命

例祭 十月十四日


由緒 応神天皇に筑紫の人民視察を命じられた武内宿祢は、この地に陣を構えた事から陣原の地名が出来たと言い伝えられています。明応から永正年間(14921520)、花尾城主として遠賀一円を支配していた麻生興春が花尾城から山鹿城へ移るとき、陣原の里でしばらく休憩しました。花尾城を望みながら美しいこの亀山の地が気に入り、死んだらここに葬ってほしいと旗を指し立てて標としました。大永2年(1523年)興春の遺志に従って旗指神社が創建されました。慶長11年(1605年)、黒崎城主井上周防之房は、武内宿祢の徳を敬慕していたため、社殿を再興し、之房が陣原に住まいを移した頃、旗頭社と改名して陣原の産土の社としました。現在の社殿は、文久2年(1862年)に造営されたと言われています。






天保14年(1843年)に造られた石灯篭
安政3年(1856年)に造られた石灯篭
天保14年(1843年)に造られた石灯篭。
葦原神社
 祭神 大巳貴命 崇徳天皇
 例祭 十一月二十三日
 由緒、創立は不明ですが、以前は瀬高にありました。なお、明治維新前は、金毘羅神社と呼ばれていました。

 境内には、金毘羅神社と呼ばれていた時の天保12年(1841年)に造られた金毘羅宮の鳥居があります。 
稲荷神社
 祭神 宇賀魂神

 境内に、天保13年(1842年)に造られた稲荷社の鳥居があります。
 
 
奥津神社
 祭神 瀛津島姫命
 例祭 十月四日
 境内にあるこの神社は、元禄年間に陣原村の北にあった湿地帯を埋め立てて、新田七十町歩を開発し、瀬板村と名付け、この時、鎮守の守として畑村から移し弁天神社と称し夕原に創建しましたが、その後境内に移されました。
 また、元禄9年?(1696年)に造られた瀛津宮の鳥居があります。
2 九軌境界石柱

  西日本鉄道株式会社の前身である九州電気軌道株式会社は、明治41年に発足し、明治44年6月5日、現在の北九州市門司区東本町から八幡東区大蔵川まで18.3キロの運輸事業を開始しました。そして、大正3年黒崎・折尾間が開通しました。その際の敷地境界石が現在も旗頭神社境内脇に残っています。

3 舎月庵(しゃげつあん)[井上周防屋敷跡] 
舎月庵
本尊 十一面観世音菩薩
穴生弘善寺の末庵で、寛永6年(1629年)に井上周防之房が創立したと云われている。

また、この地は、元和元年(1615)井上周防之房が黒崎から移り住んだ屋敷跡です。井上之房(九郎左衛門)は寛永11年(1634年)11月22日に亡くなる。享年は81歳で、墓は遠賀郡岡垣町高倉の「龍昌寺」にあります。
4 石碑

 民家の敷地内にありますが、字が刻まれた面を路地側に向けており、その部分のみブロック塀が欠き込まれています。嘉永7年(1854年)に造られたものですが、表面に刻まれた文字は判読できません。

5 渡し場跡
 この場所は、金山川と堀川が合流する地点で、明治時代の終わり頃に木橋が架けられるまで、陣原村と本城村を結ぶ渡し舟の発着場があった所です。

 また、淡水と海水が交わる場所で葦も生い茂っていたため、魚も多く、右端の写真のように四つ手網の漁師小屋が点在していました。


 さらに、この場所では旗頭神社のお汐井とり神事や、幟旗が掲げられていました。今も明治38年と刻まれた幟石(のぼりいし)が残っています。 
6 本陣橋
 渡し船の替わりに架けられた本陣橋で、その名前は、本城の本と陣原の陣をとって付けられました。新橋架け替えに伴い、大正13年竣工の旧橋柱が橋のたもとに保存されています。
7 聖塚
 室町時代、夜越といわれるこの地は、人里離れた淋しい場所で、この付近を通りかかった高野山の修行僧が賊に襲われ殺されました。
 その後、この修行僧の怨霊があらわれ、通りかかった人々に祟ったので、村人達は塚を造り供養したところおさまったと言われ、いつしか聖塚と言われるようになりました。
 古墳時代の円墳である可能性もあります。
8 八剣神社

祭神 日本武尊、天照大神、神功皇后
    
例祭 十月十一日


由緒 日本武尊が、熊襲を征伐された時、この地を通られた。また、神功皇后もこの地で神祇を祭られた。このような霊地であることから、貞元元年(976年)祠を建て祀ったとあります。また、一説には、源範頼が平家追討の命を受け、故郷三河の国(愛知県)より熱田八剱神を勧請して武運長久を祈願したと云われています。昔は、現在地より西北十町許の場所にありましたが、永禄元年(1558)火災で焼失し、その後現在地で再建され本城村の産土神として祀られています。

大正12年に造られた庚神塔 軍艦「春日」の砲を奉納していた台座
砲は、戦時中に供出されたのでしょか
天保10年(1839年)に造られた
木を支える石柱
 元禄12年(1699年)の建立年の刻まれた鳥居がありましたが、これは明治29年に再建されたものです。
 天保4年(1833年)に造られた石の祠ですが、鉱害により昭和54年に境内に移設されたものです。
 天保2年(1831年)に造られた狛犬が祭られていました。
9 力丸(りきまる)遺跡

 本城西部区画整理事業に伴い、昭和52年に発掘調査が行われ29基の中世墳墓が発見されました。墓は、小型の土壙墓(どこうぼ)や石を積み重ねた集積墓で、火葬された人骨が多く出土しており、規模や副葬品等から庶民の墓と考えられています。また、遺跡の一部は公園として保存されています。

10 蛭子谷(えびすだに)城跡 
 寿永4年(1185年)、平家追討の命を受け九州入りした源頼朝の弟源範頼(のりより)は、本城の蛭子谷に城を築き、芦屋町の山鹿城にいた原田種直と戦ったと云われています。城跡からは、須恵器、青磁器、白磁器等が出土していますが、本城霊園建設のため、城跡は殆んど消滅しています。
城跡に祀られている蛭子神社
参考文献等
増補改訂 遠賀郡誌 下巻 昭和37年9月10日発行 遠賀郡誌復刊刊行会
力丸遺跡 北九州市文化財調査報告書第26集 1978年3月31日発行 北九州市教育委員会
北九州の史跡探訪 昭和61年1月15日発行 北九州史跡同好会
北九州の史跡探訪 平成2年9月1日発行 北九州史跡同好会
北九州の城 昭和44年3月1日発行 広崎篤夫