八幡西区畑・小嶺地区 2008年10月6日開設・2018.8.22更新 |
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1 塩土老翁祭祝碑 | 2 畑貯水池 | 3 沈んだ村 | 4 畑城 |
5 中世墳墓群 | 6 五輪塔群 | 7 道しるべ地蔵 | 8 庚申塚等 |
9 尺岳神社 | 10 白木谷貯水池 | 11 庚申塚等 | 12 帆柱新四国34番札所 |
13 畑鉱山跡 | 14 茶屋の原一里塚 | 15 辻田遺跡 | 16 熊野神社 |
17 石坂橋 | 18 石坂 | 19 興玉神 | 20 各務一徳の墓 |
21 立場茶屋銀杏屋 | 22 興玉神 | 23 小嶺観音堂 | 24 小嶺一里塚 |
25 興玉神 | 26 八千鉾神社 | 27 小嶺の風景 | 28 香月市民の森 |
29 慰霊碑 |
1 塩土老翁祭祝碑 | ||
道路脇に祀られている塩土老翁祭祝の石碑は、天明8年に建立されたもので、元は下畑にありました。塩土老翁(しほつちのおじ)は、別名事勝因勝長狭神(ことかつくにかつなぎさ)とも云われ、日本書紀では神武天皇に東へ行くよう進言したことになっています。このことから、道案内の神として村の出入口等に建てられました。 |
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2 畑貯水池 | ||
畑貯水池は、旧八幡市の第三期拡張事業として昭和14年11月19日に着工しましたが、戦争により一時中断となりましたが昭和30年4月竣工しました。 重力式コンクリートダム 貯水量は、734万トン 畑浄水場は、畑貯水池を水源に、八幡西区の南部に給水しています。 また、畑貯水池は市と新日本製鐵(株)の共有となっています。 |
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畑貯水池 | 畑浄水場 | |
3 沈んだ村 | ||
畑貯水池の建設にあたって、多くの家などが移転することとなりました。渇水時期には、移転した人々の生活の跡が湖底から現れてきます。 ※昭和32年版八幡市市勢要覧より 補償対象戸数 102戸 移転戸数 61戸 学校 1校 公民館 1館 |
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道路と橋の跡 | 棚田の跡 | |
井戸の跡 | 貯水槽か? | |
4 畑城 | ||
標高154mの尾根に築かれています。本丸は、採石の為消滅ましたが、二の丸は残っています。 |
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5 中世墳墓群 | ||
渇水期に旧斜面に現れる中世と思われる墳墓群です。未調査の為、詳細は不明です。 | ||
6 五輪塔群 | ||
上記墳墓群の近くの岸部に集められている五輪塔群。また、単独で放置されている五輪塔の火輪等があります。 | ||
7 道しるべ地蔵 | ||
地蔵尊の後背に、右荒谷道、左音滝道と道案内が刻まれています。 | ||
8 庚申塚等 | ||
道路脇に宝永年間に建てられた「庚申祭壇」と刻まれた庚申塚があります。 また、傍らの祠の中に一石五輪塔祀られています。 |
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庚申塚 | 一石五輪塔 | |
10 尺岳神社 | ||
祭神 |
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全景 | 拝殿 | |
本殿 | 安政3年(1856年)の手水鉢 | |
寛政6年(1794年)の祠 | 文政元年(1818年)の祠 | |
寛政6年(1794年)の祠 | 須賀神社拝殿 | |
須賀神社拝殿内の絵 | 天保12年 | |
10 白木谷貯水池 | ||
本堂 | 昭和9年建立の記念碑 | |
11 庚申塚と五輪塔 | ||
道路脇に明和7年に建立された「庚申祭壇」と刻まれた庚申塚があります。 この庚申塚から西へ100mの道路脇に一石五輪塔がぽつんと置かれています。 |
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12 帆柱新四国第34番札所 | ||
帆柱新四国第34番札所のお堂で、本尊は薬師如来です。なお、お堂入口に掛かっている篇額には「三十三番正福山馬頭観世音」と書かれています。 境内には、戦没者の碑もあります。 |
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13 畑鉱山跡 | ||
14 茶屋の原一里塚 | ||
長崎街道の黒崎宿から木屋瀬宿まで間に設けられた4箇所の一里塚の一つです。この一里塚には松と椎の木が植えられていたといわれています。また、ここから次の小嶺までの距離は、一里に満たなかったため、六合道と呼ばれていました。これは、この間に石坂やアケ坂などの険しい坂道があったことを配慮したものと考えられています。 | ||
15 辻田遺跡 | ||
現在馬場山公園となっている場所には、弥生時代中期の竪穴住居が約40戸発見された辻田遺跡がありました。公園には、その様子を知って貰おうと竪穴住居を模した建物が造られています。 | ||
16 熊野神社 | ||
祭神 例祭 由緒 |
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再建された弘化2年の鳥居 | 拝殿 | |
宝永3年の庚申尊霊 | 元禄7年庚申塚 | |
17 石坂橋 | ||
長崎街道の難所、石坂の南側に街道を遮断するように黒川があります。現在は、橋が架かっていますが昔は川の中の石を渡っていました。また、橋の柱には籠のレリーフがはめ込まれています。 橋の袂には、旧橋の橋柱が残されています。 |
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18 石坂 | ||
長崎街道の難所、石坂です。現在は、舗装整備された石段と手すりで登りやすくはなっていますが、急坂となっています。このため、当時の参勤交代では、大名でさえ籠から降りてこの坂を登ったり、下ったりしたと言われています。 | ||
19 興玉神 | ||
石坂の南側登り口に、天保6年(1835年)に建立された興玉神があります。興玉神は、猿田彦と同様に道路の守り神として大切に祀られています。 | ||
20 各務一徳の墓 | ||
石坂の西側に、各務一徳(かがみいっとく)の墓があります。各務一徳は、幕末最後の遠賀鞍手の奉行を務めて人で、明治9年48歳で亡くなっています。 | ||
21 立場茶屋銀杏屋 | ||
立場茶屋銀杏屋は、長崎街道の難所であった石坂とアケ坂の途中に設置されており、大名をはじめ、長崎奉行、巡見使、奉幣使らが休憩に使用した「立場茶屋」です。庭に大きな銀杏の木があることから「銀杏屋敷」と呼ばれていました。現在の主屋は、天保7年(1836年)10月に火災で焼失後に建てられており、一部2階建てとなっています。また、大名などが休憩した「上段の間」の天井裏は全て壁土で覆われています。 建物は、解体復元整備され現在一般に公開されています。また、平成8年3月に市の史跡に指定されています。 開館時間:10:00〜16:30 休館日:毎週月曜日(祝日の場合は翌日) 入館料:無料 |
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1980年代整備前の様子 | 解体整備中の様子 | |
発掘された建物基礎 | 建物内の地下に埋納されていた壷 | |
整備後の表 | 一部2階建ての状況 | |
上段の間 | 上段の間の天井裏 | |
22 興玉神 | ||
銀杏屋の北側街道沿いに、寛延3年(1750年)に建立された興玉神があります。 | ||
23 小嶺観音堂 | ||
小嶺観音堂は、小嶺村の庄屋室屋儀平が文政2年(1819年)に開基し、が、平成13年火災に逢い堂宇及び諸仏全て消失してしまいました。現在の建物等は平成14年に再建されたものです。 | ||
24 小嶺一里塚 | ||
長崎街道の黒崎宿から木屋瀬宿まで間に設けられた4箇所の一里塚の一つです。この一里塚には松の木が植えられていたといわれています。 | ||
25 興玉神 | ||
小嶺公民館の敷地内に、建立年不明の興玉神があります。 | ||
26 八千鉾神社 | ||
八千鉾神社 祭神 例祭 由緒 境内社 金刀比羅神社 祭神 例祭 由緒 |
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全景 | 拝殿 | |
金刀比羅神社鳥居 | 金刀比羅神社本殿 | |
27 小嶺の風景 | ||
小嶺地区には、まだ自然と日本の原風景が残っています。 浦の谷池には、捕獲が原則禁止となっている国内希少野生動物種に指定されているトンボの一種「ベッコウトンボ」が生息しています。 また、山際の谷には棚田が残っています。 |
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浦の谷池 | 棚田 | |
28 香月市民の森 | ||
香月市民の森は、市街地の貴重な森林と住環境の保全等を目的に整備されました。ここには、かつて中鶴炭鉱の三坑があり、ボタ山の名残も残っています。また、以前は森の中に、個人が石炭の狸堀した竪穴もありました。 |
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市民の森内の池 | 狸堀した竪穴 | |
29 慰霊碑 | ||
昭和32年11月25日、坑内出水事故により18名の方が犠牲となり、遺体搬出に1年半もの時間を費やしましたが、難工事の為搬出を断念しました。このため、犠牲者の冥福を祈って、東中鶴炭鉱株式会社が昭和34年にこの慰霊碑を建立しました。 | ||
参考文献等 | ||
北九州の史跡探訪 昭和61年1月15日発行 北九州史跡同好会 北九州の史跡探訪 平成2年9月1日発行 北九州史跡同好会 |