八幡西区藤田地区
2003年10月18日開設
1 東構口跡 12 大日寺
2 町茶屋跡 13 黒崎湊跡
3 御茶屋跡 14 五卿上陸地
4 桜屋旅館跡 15 久我庄七翁碑
5 人馬継所跡 16 浄蓮寺
6 代官所跡 17 春日神社
7 妙見神社道標 18 東光庵
8 妙見神社 19 正覚寺
9 秋月屋敷跡 -
10 光円寺 -
11 庚申塚 -
1 東構口跡と海蔵庵

 東構口跡は、長崎街道の宿場「黒崎宿」の東側の出入口があった所です。
今は、天和3年(1683年)に再興された海蔵庵が建っています。本尊の阿弥陀仏座像は、天平16年(744年)行基によって造られたと伝えられています。

2 町茶屋跡

 福岡藩以外の藩主などの宿泊所で、脇本陣とも言われていた旅館があった所です。右の図で本陣と書かれた上に上町茶屋がありますがこれが「八幡屋」で、下町茶屋が「関屋」です。 

3 御茶屋跡

 寛永15年(1638年)に設置された福岡藩主の宿泊所で、御本陣とも言われていた旅館があった所です。

4 桜屋旅館(薩摩屋) 跡

 幕末当時の当主は、熱心な勤皇家で高杉晋作や坂本龍馬などと親交があったため、慶応元年の薩長同盟の協議はこの旅館で行われたと伝えられています。



 右上2枚の写真は、桜屋のあった場所(白い高層マンション)を当時の宿場通りから撮影したものです。






 右の写真は、天保十一年(1840年)に建築されたと云われている離れ座敷で、明治維新の歴史を伝える貴重な建物として平成2年に解体された時のものです。

5 人馬継所跡
 問屋場とも言い、輸送を担当する宿場の主要施設で、人足や馬が常備されており、参勤交代に必要な人馬の手配や飛脚が運ぶ荷物なども取り扱っていた所です。
6 代官所跡
 寛永15年(1638年)に設置された代官所のあった所です。
7 妙見神社への道標
 東構口から妙見神社への途中の別れ道に、古い道標があります。
8 妙見神社

祭神 国之常立神
由緒 花尾城主麻生氏が守護神として祀り、その後黒崎城主井上周防守が城の鬼門の守神として祀ったと云われています。また、創建当初は尾倉にありましたが、万治元年(1658年)現在地へ移転しました。
現在の鳥居(神門)は、享保13年(1728年)の製作年銘が刻まれています。

9 秋月藩蔵屋敷跡

 福岡藩の支藩であった秋月藩は、元禄2年(1689年)黒崎に代官所を置き、米蔵4棟を建設し、黒崎湊から大阪へ穀物を送る中継所としました。また、湊には、藩船4隻と川船20隻が常備されていたと云われています。
さらに、藩主の別館の他、海上には波止場も設けられており、蔵屋敷は明治二年(1869年)まで存続していました。
敷地の大きさ
 東西四八間(約94m)
 南北二十間(約39m)

10 光円寺

真宗本願寺派
本尊 阿弥陀佛
由緒 明応2年(1493年)の創建ですが、その後衰退していたのを黒崎城主であった井上周防守により元和2年(1616年)再興されました。

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11 庚申塚
 光円寺から大日寺への途中、享保二十年(1735年)銘の庚申塚があります。
12 大日寺と圭頭墓

本尊 大日地蔵菩薩
由来 江戸時代に豊前油山より移転し、昭和28年(1953年)浄土宗知恩院許可を得て寺院となりました。境内には、寛永12年(年)に造られた、井上五郎衛門の墓がありますが、この墓は圭頭墓と言われ、北九州市内では数少ない形式のものです。

13 常夜灯と黒崎湊
 黒崎湊は、小倉湊とともに九州で2ヶ所の九州と大阪を結ぶ乗合貨客船の発着する湊でした。九州西南諸藩の参勤交代もこの両湊を利用しました。
この常夜灯は嘉永2年(1849)航海安全を守る灯台として黒崎湊の入口に建立されたもので、灯籠の基礎部には建立した地元の船庄屋や船頭達の名前が刻まれています。
 総高約2.6メートル


下の写真は、昭和8年に撮影された湊の風景。
14 五卿上陸地

 文久三年(1863年)の政変により、攘夷派だった公卿三条実美ら七人は京都を追われ長州にのがれ、その後元治二年(1865年)、三条実美、西季知郷、東久世通禎、壬生基修、四条隆調の五卿が大宰府へ配流の途中、黒崎湊へ上陸したところです。

15 久我庄七翁碑
 藤田生まれの久我庄七は、現在三菱化成の敷地となっている洞海湾の開拓の内、慶応3年に着手し明治元年に竣工した妙見地区及び明治5年に着手し明治14年に竣工した五段地区の開拓を成し遂げた。その功績を顕彰するため、明治30年12月に碑文が建設されました。
16 浄蓮寺・紅梅地蔵・芭蕉翁碑

浄土宗鎮西派
本尊 阿弥陀佛
由緒 慶長2年(1597年)、信誉存道上人が開山したと伝えています。
 京都公家の娘であった紅梅姫は、周防国大内氏の養女となり、その後大内家より花尾城主麻生上総介重郷の側室として花尾城へ入りました。
 しかし、上総介の正室柏井御前の嫉妬や謀略により、上総介に疎んぜられ明応4年(1495年)8月14日自害した。その後、謀略に加った者に異変が起こり、柏井御前も姫の亡霊にとり殺されたと言われています。
 後悔した上総介重郷は、お堂を建て紅梅地蔵を祀ってからは亡霊は成仏し、異変もなくなったそうです。
 以来婦人の病に霊験あらたかなお地蔵様として知られ遠近より婦人が多く参詣していましたが、昭和20年8月の八幡大空襲により全焼し、本寺浄蓮寺に安置されました。その後、昭和56年浄蓮寺婦人会有志により新紅梅地蔵堂が建立されました。
 俳聖と讃えられている松尾芭蕉は、元禄7年(1694年)大阪で亡くなり、その三回忌のために、筑前蕉門の筆答格であった久芳水颯と関屋沙明(町茶屋である脇本陣を経営していた。)が同門の俳人らと共に、元禄9年(1696年)浄蓮寺に芭蕉翁追善供養の碑を建立しました。碑の手前には、水颯・沙明両名の墓があります。
 このように三回忌までに建てられた翁塚は、全国に僅か4ヶ所で貴重なものです。
17 春日神社
祭神 武甕槌命 経津主命 天津児屋根命
    比売神 黒田孝高霊神
    黒田長政霊神 天忍雲根命
    二十四臣神
例祭 八月四日
由緒 神武東征のとき、天津児屋根命を鳥野の原に祭り鳥野神社と云われていた。神護景雲年中(767〜770年)に、武甕槌命 経津主命を合祀して鳥野春日神社と改める。
その後、花尾城主麻生氏によって厚く祀られていましたが、黒田長政が黒崎城を築いた慶長9年(1604年)、家臣井上周防之房によって現在地に移され長政の霊を祀ったことから黒田宮とも云われ江戸へ往来する藩主は必ず参拝した。社宝として市指定文化財の「絹本着色黒田二十四騎画像」と中世末から近世初期にかけての「波多野文書」があります。

境内には、元禄14年(1701年)に建てられた鳥居等があります。
 神社の西側には、宮司波多野家の墓があります。
18 東光庵
本尊 薬師如来
由緒 花尾城主麻生氏の寺で東光寺と云われ、現在の桃園運動場付近にありましがいつの頃か、現在地に移転。霊験あらたかで、馬に乗ってこのお堂の前を通ると必ず落馬したと云われ、里人は恐れて前を通る時は、馬より下がって通行したと伝えられている。
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19 正覚寺
真宗本願寺派
本尊 阿弥陀佛
由緒 永禄4年(1561年)大友氏に攻められた門司城の城主であった三尾就定は、戦わずして遠賀郡山鹿村に逃れ、永禄6年剃髪し三清と改め、永禄7年(1564年)花尾城山の麓に開山したが、その後、寛永4年(1627年)現在地へ移転。
参考文献等
八幡市史 復刻版 昭和49年5月17日発行 名著出版
北九州の史跡探訪 昭和61年1月15日発行 北九州史跡同好会
北九州の史跡探訪 平成2年9月1日発行 北九州史跡同好会
淨蓮寺史蹟と伝説 昭和56年5月10日発行 淨蓮寺
黒崎学校九十年史 昭和39年発行 黒崎小学校
黒崎学校百年史 昭和49年5月1日発行 黒崎小学校