八幡西区穴生地区 2005年5月2日開設 |
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1 弘善寺 | 5 鷹見神社 | |
2 井上周防之房夫人の墓 | 6 宮川善五郎の墓 ※位置について、 少しずれていると の指摘を受けてい ますので参考まで としてください。 |
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3 庚申塔 | ||
4 穴生小学跡 |
1 弘善寺 | ||
浄土真宗鎮西派 本尊 阿弥陀如来立像 由緒 大永年間(1512〜1527年)中に、「念誉」と云う僧によって開かれた[一説には、永禄元年(1558年)開基とも云われている]浄土真宗鎮西派の寺院で、京都知恩院に属しています。開基後、黒田二十四騎の一人、井上周防之房によって再興され、寺領23石、山林2万5千坪を与えられたと伝えています。 このため、境内には、井上周防之房の夫人と娘の墓が、また之房夫妻の彫像もあります。 また、文禄元年(1592年)、本寺の中興の僧「信譽上人」は、八幡西区茶屋原にて、佐賀県名護屋へ赴く徳川家康より御十念を授けた返礼に短刀を与えられたと伝えられていますが、今は存在していません。 この寺は、款冬山玉章院と号しています。 その他、境内の片隅には五輪塔がありました。 |
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庫裏の裏には、中興の僧「信譽上人」を始めとし、歴代住職の墓があります。 | ||
2 井上周防之房の夫人と娘の墓 | ||
井上周防之房の夫人は、播州志方(しかた)城主櫛橋(くしはし)氏の娘で、黒田如水の奥方の兄の娘にあたります。夫人は、元和4年(1618年)8月23日に亡くなり、之房が再興した弘善寺に葬られています。法名は、玉章院殿光誉法月大姉(ぎょくしょういんでんこうよほうげつだいし)です。また、之房の娘は、黒田長政の従兄弟の黒田修理正基(しゅりまさもと)に嫁ぎましたが、若くして死別、その後元和4年4月4日に亡くなった為、母と一緒に葬られています。法名は、覚修院殿享誉涼心妙光大姉(かくしゅういんでんきょうよりょうしんみょうこうだいし)です。 |
井上周防之房の夫人の墓 |
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井上周防之房の娘の墓1 |
井上周防之房の娘の墓2 |
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3 庚申塔 | ||
旧暦2月7日を庚申様の日として、「積もる話は庚申様の夜に」ということで、その日は夜通し飲み食いし、話に花を咲かせる講が行われていました。その、信仰の記念として、享保15年(1730年)に建てられた庚申塔が、弘善寺の入口にあります。 |
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4 穴生小学跡 | ||
穴生小学は、明治元年(1868年)黒崎岡田神社の神官波多野直足(号を鷺山という)が開いた私塾鷺山(さぎやま)学舎を前身としており、明治5年学制の発布により明治7年2月弘善寺境内に穴生小学が設置されました。穴生小学は、下等小学(1・2年生)で年齢6歳から9歳までで、開校当初は男子58名、女子2名の計60人、教員1名でした。その後、明治26年に引野校と統合され、上津役尋常小学校が開校し、穴生小学は廃校となりました。そして、戦後の住宅地化により昭和27年穴生小学校が開校するまで、穴生地区の児童は上津役小学校へ通学していました。 |
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5 鷹見神社 | ||
祭神 伊邪那美大神(伊弉冉神) 須佐之男大神(素戔嗚神) 速玉之男大神 例祭 十月九日・十日 由緒 神功皇后が新羅渡航のおり、軍船の帆柱を帆柱山から伐りだした折、九合目に熊野神を祀り高見ノ宮と創立。その後、慶雲2年(705年)、役の行者小角(えんのぎょうじゃおづの)が、五穀成就を祈り、高見大権現として旧跡に祀りしました。建久5年(1194年)、宇都宮重業は花尾山に城を築くとともに紀伊国の熊野権現を勧請し、遠賀郡43ヶ村の総氏神となりました。また、穴生村の諏訪山に移して下宮とし、山頂の旧跡は上宮としました。江戸時代に入ると、井上周防之房によって古屋敷に移されましたが、宝永5年(1708年)現在地に遷座しました。 ※鷹見神社の由緒について、大筋では合致していますが詳細になると諸説があるため、今後の研究課題としたい。 @ 天保6年(1835年)建立銘の石灯篭 A 文化2年(1805年)建立銘の潮受台 |
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@ 石灯篭 |
左の銘文 |
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A 潮受台 |
左の銘文 |
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6 宮川善五郎の墓 | ||
困窮していた農民を救うため、福岡藩に年貢米の減免を直訴した宮川善五郎の墓。文化6年(1809年)に亡くなっています。 | ||
参考文献等 | ||
八幡市史 復刻版 昭和49年5月17日発行 名著出版 北九州の史跡探訪 昭和61年1月15日発行 北九州史跡同好会 北九州の史跡探訪 平成2年9月1日発行 北九州史跡同好会 北九州市史 近代・現代・教育文化 昭和61年12月10日発行 北九州市 |