八幡東区高見及び槻田地区
2003年4月14日開設(2011年4月23日追加・更新、2012年8月14日更新)
長崎街道(一部推定)  ■■大蔵線(一部推定)
1国境石 2阿弥陀院 3小笠原家の墓 4戦災殉難者碑
5荒生田神社 6小笠原番所跡 7国境石 8宮の下古墳
9天疫神社 10小笠原家の墓 11佐家大明神 12高槻遺跡群
13土地区画整理碑 14茶屋町橋梁 15八王寺古墳 16岩淵神社
17五輪塔 18洞海地蔵 19一里塚跡 20慈光寺
21旧槻田小講堂 22早鷹様 23国境石標 39薬師堂
40槻田区画整理境界杭 41六地蔵・一石五輪塔 42日限地蔵 43高見倶楽部
44高見遺跡 45谷口古墳群    
24猿田彦大神 25板碑と五輪塔 26豊日神社 34堰の跡
35葛城城・板碑 36山路峠 37山田弾薬庫 38板櫃村役場の門柱
27梅宮神社 ※山中の山城遺構? 28六地蔵 29阿弥陀堂・一石五輪塔
30猪倉集落 31通学路 32猪倉峠 33猪倉金山
地域の歴史
1 町の変遷
  明治20年:企救郡高槻村、荒生田村の2村が合併して槻田村となる。
  明治22年:槻田村は、企救郡板櫃村大字槻田となる。
  大正11年:板櫃村が板櫃町となる。
  大正14年:板櫃町が小倉市に合併、その時、旧槻田村は八幡市と合併する。
  大正 6年:八幡市となる。

2 地名の由来
■高槻   もともとは高築で、付近の平地より一段高い所に築かれた田畑の意味からつけられたと考えられています。高槻の名は、鎌倉時代に書かれたと云う宇佐神宮の宇佐大鏡に「高杯」の字で出ています。また、貞治4年(1365年)門司親尚の軍忠状には「高月」と書かれています。そして、元禄年間から「高槻」と書かれるようになりました。
■荒生田 もともとは新生田で、新しく出来た田からつけられたと考えられています。荒生田村の名は、「正保年間豊前六郡図」に出ており、高見小学校一帯が村の中心でした。 
1 国境石
 現在、高見三丁目に所在する阿弥陀院の下にある国境石は、右側の白黒写真にあるとおり、もともと反対側の崖の上にありましたが、1970年代に降ろされその後現在地に設置されたものです。なお、説明板には1953年のがけ崩れで移設と書かれていますが、間違って記載されています。

銘文筆者 二川相近
大きさ   87cm×18×18
石 質  花崗閃緑岩
2 阿弥陀院

真言宗醍醐派別院
本尊 不動明王座像
由緒 承久元年(1239年)京都醍醐寺の中に建立された塔頭寺院が始まりで、後白河天皇の長女「覲子(せんし)内親王」の御願により、座主の成賢が開山した寺です。その後、文正二年(1467年)の応仁の乱によって醍醐寺とともに荒廃しましたが、慶長年間「豊臣秀吉」によって醍醐寺は再建され、併せて阿弥陀院も再興されました。明治29年、廃仏毀釈の影響を受け九州の篤信者によって企救郡大字南方へ移転、明治44年には再度八幡村荒生田に再移転しました。そして、昭和10年現在地へ移転し「堂ヶ峯」を号しました。
 境内には、虚子像、宝篋印塔や五輪塔があります。

3 小笠原家の墓
 市立谷口霊園の中に、昭和29年槻田公民館(現祝町市民センター)建設により移設された小倉小笠原初代藩主小笠原忠真の五男及びその子孫の墓が三基あります。小笠原忠増は、忠真の五男となっていますが、最初の子どもでした。しかし、側室の子であったため五男とされています。また、家臣坂牧並右衛門忠利の養子となり坂牧監物と名のっていました。また、忠増の次男長鎮は、後に小笠原監物長救となり家老を勤めていました。そして、長鎮の次男である貴長は、父より早く亡くなっています。この3基の墓は、元は忠増を中央に、右側に長鎮、左側に貴長が配置されており、字図から公園横の道路より小笠原墓所へ通じる専用の参道があったようです。
 1小笠原忠増(五男) 貞亨5年
        (1688年)没、73歳
  墓碑銘:本覚院殿源忠正白居士神儀
 2小笠原長鎮(忠増の二男) 正徳3年
        (1713年)没、63歳
  墓碑銘:高済院義覚正恩居士之墳
 3小笠原貴長(長鎮の二男) 宝永5年
        (1708年)没、26歳
  墓碑銘:大玄院真鑑正光居士

小笠原忠増
小笠原長鎮
小笠原貴長
4 谷口霊園内の戦災殉難者の碑等
 昭和20年8月8日の八幡大空襲によって亡くなられた霊を慰めるため、昭和30年8月8日、当時の八幡市長守田道隆氏によって建てられた慰霊碑です。

 下の写真は、当時火葬した場所。
                     戦災殉難者の碑

 第二次世界大戦中、八幡市は国内最大の鉄鋼生産地で軍需資材の供給源でもありました。このため、中国大陸に航空基地を確保したアメリカ軍の初めての攻撃目標となり、昭和19年6月15日第一回目の空襲がありました。昭和20年12月八幡市が作成した戦災概況図によると、その後7月8日、8月20日、昭和20年8月8日と4回の空襲を受けています。その中でも、8月8日の八幡大空襲では、小伊藤山の防空壕に避難していた市民約300人が一度に亡くなる等、1785名の死者を出したことが記載されています。また、米軍資料によると、当日は三つの航空団から計245機のB29戦略爆撃機と160機の戦闘機によって、焼夷弾等による大規模な空爆が行われたことがわかりました。空襲後、犠牲者の遺体は、焼け残った小学校の講堂や教室等に安置され、翌日には町内毎に高見にあった八王寺火葬場横の畑に大八車やリヤカー等で運ばれ、野天での火葬が終戦後の8月18日頃まで行われたと云われています。そして、残骨や身元不明者の遺骨は、そのまま畑の中に埋められ、木製の墓標が建てられました。しかし、数年後には省みる人もなく夏草の中に埋もれていました。それを見かねた地元の方々の陳情によって、昭和30年8月8日建てられたのが谷口霊園内の碑で、参加者は少なくなりましたが、今でも毎年8月8日に慰霊祭が行われています
戦災概況図八幡より

 19年6月19日  死者129名  
 19年7月8日   死者0名
 19年8月20日  死者136名
 20年8月8日   死者1785名



米軍資料より

 B29戦略爆撃機
  第 58航空団   35機 
  第 73航空団  120機 
  第313航空団  90機 
           計245機
 戦闘機P-47 160機
霊園内にある江戸時代の地蔵尊及び一石五輪塔。
宝暦5年(1755年)
享保2年(1717年)
5 荒生田神社
祭神 彌都波能売命
    少彦名命
    藤原広嗣
由緒 慶長2年(1597年)、時の庄屋によって板櫃川に設けた岩淵堰の取水口(現在の七条橋付近)の無事と、村の繁栄を願って灌漑用水の神である彌都波能売命と、穀物や酒造りの神である少彦名命を祀った水神社が建立されました。元禄年間には、荒生田村の氏神として、茅葺きの神殿と拝殿が造営されました。
 そして明治35年、村人は天平12年(740年)、板櫃川の戦いで敗れた藤原広嗣の霊を祭るため、現在の八王寺橋付近にあった明神社を合祀して荒生田神社に改称し、到津八幡神社の末社となりました。
境内の猿田彦

文化3年(1820年)の銘があります。
6 小笠原番所の
 荒生田一丁目東公園内に、長崎街道沿いに設けられた小笠原藩の番所がありました。慶応元年(1865 年)、松江藩の藩医桃文之助が書いた西遊日記に「小倉より1 里半計にして豊前・筑前境也、建石あり。右境より少し手前に荒田( 荒生田) とか申所に小倉より之番所あり。」と番所の記載があります。また、元禄4年(1691年)、ドイツの医師ケンペルが書いた日本旅行記には「行くこと一里半にして二個の境界石の立てる所に着きぬ、それは互に十歩許りを隔てて立てられたる石柱にして、其面に文字あり。筑前と小倉の版図を分つものなりき。更に行くこと小一里にして吾等はフイヨミと称する直ちに小倉に接する小村に着き、これより小倉公の家中の士なる二人の奉行に伴われて小倉の市に入れり。」とあり番所の記載は無く、また迎えの武士はこの番所からでは無く「フイヨミ」と呼ばれていた場所から出仕しています。また、享和2年(1802年)呉服商菱屋平七が書いた筑紫紀行にも番所の記載がないことから、番所は江戸時代後期に設置されたことになります。そして、今も遺構が残っていると云われていますが、発掘調査がなされていない為不明ですが、旧交番側の石垣に鏡積みと云われる古い技法が用いられていること、また街道に面した石垣が平成6年積み直された際、現れた断面から現状はかなりの埋め土がなされていることが判明しました。また埋土の下層から、明治の染付き陶磁片が出土しています。
 また、公園の片隅に円を陰刻した猿田彦(文字はない)が横たわっていますが、元の位置は不明です。

旧街道から公園を望む

現在の公園

鏡積みの石垣全面

鏡積み

石垣の積み直し工事

土層の状況

猿田彦

猿田彦の印刻部分
7 国境石
 現在の高見五丁目地内の境川源流付近(右の写真の中心より左の赤い印付近)にあった国境石で、1950年代に当時の地主であった方が移設したものである。

銘文筆者 二川相近
大きさ   85cm×18×18
石 質   花崗閃緑岩

注:北九州市文化財調査委員会調査報告書(豊前・筑前の国境石)のNo7
8 宮ノ下古墳
 古墳時代中期の横穴式石室古墳で、昭和11年発行の八幡市史に荒生田公園東に古墳ありと記載されているのがこの古墳と思われます。また、この付近では、県道曽根槻田線道路新設工事の際に、古墳が発見されていること等から古墳群を構成していたものと思われます。また、板櫃川を挟んだ対岸の谷口にも3基の古墳が発見されています。写真中央の擁壁部分が古墳で、石室を覆っていた封土の中から弥生時代の石斧等が見つかっています。また石室を写した以前の写真から、古墳の天井部分は大きな石を使用しているのがわかります。また、石室内には、土砂が流れ込んでいることと発掘調査が行なわれていないことから詳細は不明です。
擁壁の内側に古墳

1960年代の写真

現在の状況

石室内部の状況

詳細位置図

 所在地:宮の町二丁目7番22号の財満さん宅内にあります。財満さんの都合がよければ見学させていただくことも可能です。なお、以前は宅地の持主の名称をつけて「財満古墳」とも呼んでいたこともありました。
9 天疫神社
祭神  稲田媛命 須佐之男命
     大穴牟遲命 事代主命
     事八十神 彌都波能売命
由緒 醍醐天皇の時代、この地に疫病がはやったため、里人たちがこの高杯山頂で祈ったところ疫病は、たちまち鎮まったため、社を建てたのが始まりとされています。そして小笠原氏が入国後の寛永年中に、社殿を改築しました。なお、社紋に三階菱を用いているのは、そのためです。また、清田にあった、水神社を大正2年に合併しています。 右は寛政6年(1794年)に建立された鳥居の額で、江戸時代は「高槻疫神社」と呼ばれていたことを示しています。白黒写真は、その鳥居が建っていた昭和初期のもので、公園脇の階段下にありました。

公園脇にあった寛政時代の鳥居とその額
中は、境内にある嘉永5年(1852年)に建立された燈籠、右は全国で始めての竹刀塚。下は文化2年(1805年)に建立された道祖神。
燈籠

竹刀塚

道祖神
10 小笠原家の墓
 槻田中学校に隣接して小倉小笠原初代藩主小笠原忠真の弟及びその関係者の墓が七基あります。

小笠原忠慶(弟)延宝3年(1675年)没 75歳
 墓碑銘:雲門院殿機叟定新大居士之碑
その他の墓碑銘
玄照院無端了徹居士(忠慶の長男長武)
      正徳元年(1711年)没
圓明院殿寂山智照居士(忠慶の三男重長)
      寳永6年(1709年)没
素光院権大会都法院隆範和上(忠慶の次男隆範)   享保16年(1731年)

小笠原忠慶の墓
11 佐家大明神(槻田地蔵)
伝承 佐家姫屋敷跡と云われ、姫の神通力により攻められるとせり上がり、退却すれば元の平地に戻るという不思議な城がありましたが、敵に切通を造られついに落城しました。この時、姫は風邪で床に就いていたため、神通力が効なかったと云われています。人々は、これを哀れみ祠を建てて祭りました。百日咳・喘息・いぼとり等に、ご利益があるといわれています。
12 高槻遺跡群
 昭和4年、名和羊一郎氏によって発見された弥生時代の遺跡で、大型蛤刃石斧の製作工程を示す未成品が数多く出土することから石斧製作跡として広く知られています。また、弥生時代前期末の壺に特徴があることから高槻式土器としてこの地域の土器標識とされています。また、戦前の発掘調査には、日本版画院の結成に深く関与された高田一夫氏も参加されたことを、「民芸の倉」にて直接お聞きしたことがあります。
高槻式土器

 弥生時代前期の末頃、周防灘をめぐる瀬戸内西岸部一帯に出土する壷形土器の特徴的な形式で、高槻遺跡の名前から付けられています。その特徴は、壷の肩部に貝殻やヘラで、羽状文(うじょうもん)、重弧文(じゅうこもん)、山形文(やまがたもん)などの装飾性豊かな文様が描かれています。

 右2枚の写真は、現在「いのちのたび博物館」に展示されている高槻式土器です。出土地は小倉南区の岡遺跡で、右が肩部の文様部分の写真です。なお、高槻遺跡からの出土品は収蔵庫に入っているとのことでした。
13 槻田土地区画整理記念碑
 八幡市は、大正12年小倉市、若松市と同時に都市計画施行市と決定されました。その後、槻田地区においては、昭和7年に区画整理組合が設立され、同年事業着工し昭和9年に竣工しました。右の写真は、その竣工を記念して造られた碑で、松尾公園内にあります。記念碑には、下記の区画整理内容が刻まれており、そして揮毫は当時の八幡市長図師氏によるものです。
 総地籍:169,925坪  事業費:15万円
 起工:昭和7年9月  竣工:昭和9年3月
 道路延長:17,172m   小公園:3箇所 
14 九州鉄道茶屋町橋梁
市指定史跡
 この橋梁は、九州鉄道大蔵線の施設で昭和51年3月に市の史跡に指定されました。この築造形式は、尾倉町の橋梁と同じです。なお、大蔵線は、明治44年9月廃線となりました。


※ 明治20年に設立された九州鉄道は、門司から黒崎までの鉄道敷設に当たって経営効果の高い海岸回りの路線を国に申請しましたが、日清両国の情勢と、艦砲射撃による線路破壊を懸念する陸軍の強い反対に遭い、小倉駅から先は大蔵回りの路線に計画変更されました。その後、官営製鐵所の建設が始まり、当初の海岸回り路線の敷設要望が高まり、明治35年12月現在の鹿児島本線小倉、黒崎駅間の戸畑線が開通しました。このため、明治31年8月に、大蔵駅を設置し集客を図ったものの、戸畑線が本線となり大蔵線は支線に格下げとなりました。そして、追い討ちをかけるように明治44年7月九州電気軌道が、大蔵線に並行して運行を始めたため廃線となりました。
長崎街道側
 九州鉄道の鉄橋として明治24年に開通した茶屋町橋梁は、赤煉瓦の小口と長手を交互に積むイギリス積みで造られています。しかし、強度を要するアーチ部分が乗る迫台と、河川上流部に面する脚部の端は花崗岩の切石積で造られています。 この時代、レールを始め鉄道資材の多くはドイツやイギリスから輸入されており、この赤煉瓦も輸入製品と考えられていましたが、昨年煉瓦に刻印があることを発見しました。その刻印は、「イ一」「ハ二」等仮名と漢数字があることから日本製品であることが判明、市内に残る同時代の赤煉瓦として明治20年に竣工した矢筈山保塁の刻印「イヨミツ」に次ぐものです。
 また、この橋の北側を通る長崎街道に面するアーチ部の片側だけに、煉瓦を一段ごとに迫出していることから意匠として考えられていましたが、これは将来の複線化の工事を行う際に、この迫出し部に煉瓦を組込むことによって橋梁全体の強度を図るための工夫の跡ではないかと言われています。当初、九州鉄道は単線で営業を開始しており、この茶屋町を始め多くの煉瓦造橋梁は単線設計ですが、大蔵川に残る大蔵鉄橋は複線で橋台が造られています。
 廃線後、昭和7年の区画整理が始まるまでは橋梁に接続する盛土の土手が残っていましたが、区画整理によって盛土は撤去されその後、両サイドに階段が架けられ橋には欄干が設置され歩道橋として使用されていました。また、昭和28年6月、北九州市を襲った集中豪雨により金山川(かなやまがわ・現在は槻田川と呼ばれている。)に架かる橋は大きな損壊を受けましたが、この橋は無傷でした。)

区画整理時の図面

昭和28年大水害時・奥の橋です

刻印 1

刻印 2

刻印 3
15 八王寺教会内古墳
 八王寺地区には、この古墳を含めて八基以上の古墳の存在が知られており、板櫃川上流域の古墳群を形成していました。この古墳は、八王寺カトリック教会の中ににあり、形式は横穴式石室で東西2室の石室が同時に造られています。時代は、古墳時代の終末期である7世紀中頃から後半代に造られたものと考えられています。
東石室 
 長さ5m×高さ1.1~1.3m×幅1.1m
西石室 
 長さ2.5m×高さ0.8~0.7m×幅.9m

石室の平面図

両石室の入口部分

西石室内部

東石室内部
16 岩淵大明神
祭神 荒武党明神
由緒 天平12年(740年)、太宰府に左遷されていた藤原広嗣は、身の潔白を訴え上奏文を 聖武天皇に提出しましたが受け入れず、太宰府の軍勢を率いて反乱を起こしました。 天皇は、大野東人を征討大将軍として1万7千人の兵を派遣、板櫃川にて合戦が行われましたが、広嗣は敗れ肥前松浦に逃亡しました。しかし、現地で捕えられ、処刑されました。このことを知った里人は、広嗣を荒武党明神として祀ったのが始まりで、天保4年(1833年)水害により社殿は倒壊してしまいました。その後、現在地に祠を建てたと云われています。

 現在の石祠は、天保10年(1839年)荒生田村の人々によって建てられたものです。

板櫃川の右側に祠があります
17 五輪塔
 高野山真言宗観世音寺の境内に、一石五輪塔が一基祀られています。また、中世の頃栄えた八王寺の境内にあった石仏の子安観音が祀られていると云われています。また、観音堂は其昔 八王寺伽藍領にして 石の仏を建立なし 子安観音称へつつ 祀り給ひて験(しるし)ありと昭和9年発刊の「八幡市舊蹟めぐり」に記載されています。
18 洞海地蔵
 洞海湾から引き揚げられた地蔵さんが、洞海地蔵として製鐵寺の境内に祭られています。
19 一里塚跡

 長崎街道の徒歩渡り先の板櫃川の西岸にあった一里塚の記念碑で、実際は若干南側の場所にあったと云われています。「正保年間豊前六郡図」には「一里山より境目まで五十間」と記載されています。

20 慈光寺
真宗本願寺派
本尊 阿弥陀仏
由緒 大内義隆の家臣であった柳原哲之助の子喜平太は、清田に住み剃髪して永照寺の弟子となりました。その後、清田山麓に庵を建てました。寛永年間に寺号を許可され、五世順南の時に、現在地の宮の町(西村)へ移転されたと云われています。慈光寺の元の場所は、下図のとおり旧東村で現在の清田一丁目で、山裾にあったと云われています。

中央の山裾が元の場所
21 旧槻田小学校講堂の建物
 槻田小学校は、明治40年現在の宮の町公園の場所に福岡県企救郡板櫃第二小学校として開校しました。そして、昭和10年現在地へ移転しました。
 槻田第一自治区会の区民館として使用されていた建物は、当時の講堂だと言う事でしたが、最近解体されてしまいました。
22 早鷹様
 元々は、現在の荒生田一丁目3番と4番の境目付近にありましたが、明治年間に太子堂の横に移された祠で、早鷹様と呼ばれ今でも大切に祀られています。信者の話によると、瞑想すれば鎧兜の武者が現れると言うことから、合戦で無くなった武士を祀っているのではないかと云われています。また、早鷹は 清水の出づる所にて、往時此の地に七軒の家屋ありて高槻の村の起こりと云い伝ふ、茲に祀れる太大師堂、此御仏はむかしより、フシ原里にありけるを明治年間今の地へ移して安置せしものぞと「八幡市舊蹟めぐり」にあります。
大師堂

早鷹様
23 筑前・豊前の国境
 豊前と筑前の国境を示す石標が道路脇に建てられています。この石標から上の山側が豊前国で大蔵村に属していました。この石標は、昭和15年1月に中畑地区の区画整理が完成したとき、区画整理組合が、後世の人々に豊前と筑前との国の境を示すために、区画整理事業の記念として建立したものです。また、同様の石標がこの他に2基あり、内1基は高槻小学校の正門前、残り1基は中畑1丁目及び2丁目と中尾2丁目が接する階段下にあり、何れも山側が筑前国となります。
 石標には、表に「旧豊前筑前国界」、横に「昭和十五年一月建立」「中畑区画整理組合」と刻まれています。

1 中畑一丁目

1 中畑一丁目

2 中尾2丁目の階段下

3 高槻小学校の正門前
24 猿田彦大神
 山路二丁目の道路脇に猿田彦大神が、大切に祀られています。なお、寄進年等が刻まれていないため、時代は不明です。
 この猿田彦の銘文の上には、○印が刻まれています。市内の類例としては、春の町の豊山八幡神社境内と戸畑区の夜宮にあります。

※猿田彦大神は、天孫降臨の際に邇邇芸命を道案内していたことから、道案内の神、旅人の神とされています。
25 円通庵境内の板碑と五輪塔
曹洞宗
本尊 不明
由緒 元文3年(1738年)西安六世褱海和尚が開基する。

 また、境内に板碑が6基と一石五輪塔が1基大切に祀られていました。なお、八幡東区内で現存する板碑としては、大変珍しいものです。
26 豊日神社
祭神 不明
由緒 昔この地に悪疫が流行した折、英彦山から豊前坊様を勧請したのが始まりとされています。
27 梅宮(うめのみや)神社
祭神 大山祇神
     高龗神
     闇龗神
由緒 天明4年(1785年)イナゴ駆除の為に、大山祇神が祀られたのを始まりとされています。その後、明治42年5月に猪ノ倉の大山祇神社、貴船神社と中尾の大山祇神社の三社を合祀し、梅宮神社と称するようになりました。また、乳山神社の末社です。
 なお、この神社の住所は大字大蔵となっており、昔は大蔵村に属していました。
 成人の日と7月の第一日曜日が「おこもり」を行う日となっており、昔は村の中だけで行っていましたが、今では中尾からも参加しており、当日は乳山神社より宮司がやって来きます。
28 猪倉墓地の六地蔵
 猪倉の墓地入口に、地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人道、天道の六道を守護する六地蔵が他界への旅立ちを見守るように祀られています。この墓地には、江戸時代から明治30~40年代までに、この地で亡くなられた方が葬られおり、6軒で共同管理しております。墓の中で一番古いのは寛永の年号(1624年から1643年まで)銘が入っています。
29 阿弥陀堂と一石五輪塔
 阿弥陀堂は、もともとは8畳位の草庵で、入口に囲炉裏があり敷地一杯に建っており、管理人が住んでいましたが、その後無人となったので昭和51年に今の祠に建直されました。今でも毎年1月14日と8月16日に、祠の前で村の女性10人位のみで般若真経を唱えながら数珠送りをに行い、その後梅の宮神社に場所を移し、直らいを行っています。
 また、境内に一石五輪塔が2基祀られています。昔は3~4基あったと云われています。
30 猪倉の集落
 猪倉では、山土が赤土で合馬と同様に良質の筍が採れたため昭和50年代まで缶詰用の筍を出荷していました。現在でも、1戸の農家が栽培されています。また、この地区には藁葺き屋根の民家が2軒残っています。内、1軒は築後約300年経つと云われ、棟には火災除けの水の字が書かれています。
土塀のある家

江戸時代に建築された民家
31 大蔵への通学路兼生活道路 
 猪倉は、江戸時代まで筑前の国で大蔵村の枝村でした。従って、昭和になっても猪倉の子供達は大蔵小学校に通わなければならないため、中尾3丁目から山越えの山道を通学していました。そして、戦後の昭和25年になってようやく、高槻小学校へ通学出来るようになりました。
切り通しの道

車は通れません
32 猪倉峠
 猪倉の人々は、同じく大蔵村の枝村であった河内との交流も盛んであったため、この猪倉峠を通っていました。また、峠の手前に猪倉の隠し田があったと言われています。なお、峠から河内貯水池までは新しく林道が整備されているため道幅が拡がり昔の面影はなくなっています。
峠への登り道

猪倉峠
33 猪倉金山及び石垣遺構
 明治11年頃に、小倉の石炭問屋であった中原屋は、山路等の鉱山経営に着手し、石炭販売の縁により生野鉱山から22人の鉱夫派遣を得たが鉱質硬く熟練の鉱夫が少なく掘る事が困難となり、また営業の見込みも立たなくなった為、明治13年撤退したと北九州市史に記載されています。また、昭和9年に刊行された八幡市舊蹟めぐりに、槻田川川上にその昔、かねを掘り出す事あれば、金山川と名付けられたとあります。現地には、坑口跡が2箇所見られますが、何れも内部は埋め戻されています。また、これらは戦前に軍が掘っていたとの話もあります。さらに、付近には石垣で整地された土地が数箇所残っていますが、昔ここに剣道場があったともいわれています。なお、現在同地は私有地の為、入山には許可が必要です。
34 堰跡
 高槻の東村では、水田耕作に必要な農業用水を清田一丁目にある不動寺前の金山川(現槻田川)に堰を設置し確保していました。現在も川底に赤煉瓦の基礎と用水路の一部が残っています。復元すると右の写真のようになります。なお、現在町名は「清田」と書いて「きよた」と呼んでいますが、昔は「せいた」と呼んでいました。
35 板碑と葛城城
 円通庵の西側、谷を挟んで荒神山と言われる小山の中腹に石灰岩製の板碑が一基祀られています。ここには、葛城城があったと地元では昔から云われていますが、山頂部や南側は都市高速道路建設によって削られており、城の遺構は確認されていません。
葛城城の遠景

板碑
36 山路峠
 山路は、江戸時代まで豊前国企救郡小熊野村の枝村であったため、本村との交流に使われていた当時の幹線道路が、昭和15年に設置された山田弾薬庫により山路峠を境にして通行出来なくなりました。なお、現在も同地は防衛庁の管理用地であるため、立入禁止となっています。
峠への登り道

山路峠
37 山田弾薬庫

 日本陸軍は、昭和14年(1939年)弾薬庫を建設するため、小熊野村等の住民を移転させ小倉兵器支廠山田分廠(通称:山田弾薬庫)として昭和16年( 1941年)より使用開始 、戦後米軍によって接収されましたが、昭和47年(1972年)返還され一部は自衛隊の訓練用地となっています。
 また、この弾薬庫は昭和21年5月21日午後7時15分頃、一の谷第四号倉庫が大爆発し、蕨採りやマキの材料として弾薬の箱を取りに行っていた住民等百余名の死傷者が出ました。しかし、占領軍が現場検証もさせなかったため、原因等は不明のままです。
 現在、自衛隊の訓練地には、鉄条網と防火帯が昔のまま維持されており、境界には陸軍と防衛庁の銘が刻まれた境界石が設置されています。米軍が接収していた時は、この防火帯をMPがシェパード犬を連れて巡視していました。
 なお、弾薬庫の爆発で犠牲になった高槻小学校の児童の両親が寄贈した銀杏の木が、旧校舎のあった槻田中学校の校庭にあります。

銀杏並木
38 板櫃町役場の門柱
 板櫃町は、大正14年4月27日に小倉市と合併しましたが、当時の町役場にあった門柱が山路の民家に移築され、現在も現役として使用されています。門柱は、花崗岩で名板が掛けられていた穴が残されています。
39 薬師堂
本尊 薬師如来
由緒 不明
 現在、北九州新四国霊場の札所にもなっています。
40 槻田区画整理組合境界杭

 昭和9年に竣工した槻田区画整理組合の境界杭で、現存はこの1箇所のみです。

41 六地蔵と一石五輪塔
 高槻墓地の入口に、他界への旅立ちを見守るように六地蔵が祀られています。この墓地に、仏様が刻まれた珍しい一石五輪塔が以前ありました。
42 日限地蔵
本尊 日限地蔵尊
由緒 大正末期に、豊前と筑前の争いを鎮めるために建立されたと云われています。以前は、荒生田三丁目3番18号付近にありましたが、槻田区画整理の際に現在地へ移転しました。
43 高見倶楽部
 八幡製鐵所発足当時に、迎賓や社交の場として構内に設置されたのが始まりで、最初は、公餘倶楽部と呼ばれていました。明治40年、工場の拡張に伴い、高見に移っていたドイツ人技師宿舎が2代目となり、昭和3年に建築された現在の建物は3代目で、高見倶楽部に改称されました。また設計に際し、辰野金吾が設計した奈良ホテルを参考に木造平屋、一部2階建てとなっています。戦後、宿泊棟等が鉄筋コンクリート2階建てに改築されています。
44 高見遺跡

旧八幡製鐵所の六条社宅敷地の再開発に伴う発掘調査によって、弥生時代から古墳時代前期の自然流路3条が検出されました。自然流路の北東側肩部では高杯、壺、甕などの古式土師器の集中する地点が確認され、水辺での祭祀跡の可能性があります。また、奈良時代から平安時代の遺物包含層も検出されています。八幡東区板櫃川北岸での本格的な調査は初めてで、遺跡地周辺は奈良・平安時代には安定した地形となっていて、中世以降には水田が営まれていたことが判明されました。

45 谷口古墳群
 昭和35年宅地開発によって発見された古墳で3基の円墳からなる古墳群です。石室の床面には、敷石が敷き詰められていました。何れも単室の横穴式石室古墳で、出土した須恵器から6世紀後半から末に造られたものと考えられています。その他、金環、銀環、鉄製の刀子、鉄刀、ガラス小玉が出土しています。
1号墳の石室実測図
参考文献等
八幡市史 復刻版 昭和49年5月17日発行 名著出版
豊前・筑前の国境石 北九州市文化財調査委員会調査報告1 1966年北九州市教育委員会
北九州市の埋蔵文化財-遺跡分布調査報告書- 1976年発行 北九州市教育委員会
北九州市史 (先史・原始) 昭和60年12月10日発行 北九州市
高槻遺跡群 北九州市埋蔵文化財調査報告書第273集 (財)北九州市芸術文化振興財団
北九州の史跡探訪 昭和61年1月15日発行 北九州史跡同好会
北九州の史跡探訪 平成2年9月1日発行 北九州史跡同好会
槻田の歴史 平成16年3月31日発行 槻田まちづくり協議会・槻田市民福祉センター
小倉市誌 補遺 昭和48年6月13日発行 小倉市役所