八幡東区皿倉山及び周辺地区
2003年6月1日開設[2010年9月9日更新]
1 守田元市長像 7 帆柱権現神社
2 帆柱ケーブル 8 皇后杉
3 野口雨情 9 権現山頂
4 皿倉山頂   10 鷹見神社
5 国見岩 -
6 馬塚 -
1 守田道隆元八幡市長像と帆柱稲荷神社
 中の写真は、昭和22年初の公選による旧八幡市長として就任した守田道隆氏の銅像で、帆柱ケーブル山麓駅の公園内に昭和47年建立されました。守田市長は、明治31年に鳥取市で生れ、京都大学で土木工学を専攻し、関東大震災復興中の東京市に奉職。その後、昭和4年八幡市に招かれ10年間、新都市づくりや、建築物の不燃化に単価の安い製鐵所高炉から排出される鉱滓を利用した鉱滓セメントを使用して、防火建築の学校建設に功績を残す等卓越した手腕を発揮。市長になってからは、戦災復興や青少年活動に尽力され日本で初の公民館を設置された方でもあります。昭和40年には社団法人に移行した全国公民館連合会の初代会長に就任している。
 右の写真は、昭和35年に設置された帆柱稲荷神社で、京都伏見稲荷の分霊を祀っています。
2 帆柱ケーブルカー
 昭和32年(1957年)11月12日、旧八幡市の観光目玉として開設された九州最長のケーブルカーで、山麓駅から終点の山頂駅までは1,191m、標高差は441mりを約10分で一気に登り切ります。平成13年(2001年)6月30日、スイス製の新型車両「はるか」と「かなた」号(左の写真)に替わりました。中と右の写真は、旧ケーブルカーで右が最初の車体カラーです。
3 野口雨情碑
 昭和7年、八幡市を訪れた野口雨情が、門下生で北九州市出身の童話作家阿南哲朗氏と皿倉山に登った時に作った詩で、昭和32年11月に歌碑が建立されました。毎年、雨情の命日である1月27日に近い日曜日に、碑の前で雨情忌が行われています。
4 山頂と碑文等
昆虫碑:昆虫の供養と自然に感謝するため昭和54年に建立されました。
北原白秋詩碑:白秋と八幡との深いえにしを偲び、昭和49年に建立されました。なお、碑文は昭和5年、八幡を訪れたときに作詞した「鉄の都」の一節です。
石祠:大正9年から昭和16年まで皿倉登山を行っていた八幡製鐵所山岳部の有志等で昭和7年山の守護神を祀った。しかし、昭和16年高射砲陣地構築のため撤去されていたが、戦後になって復活したものです。

昆虫碑

北原白秋詩碑

石祠
5 国見岩
 神功皇后が、この岩の上に立ち新羅までの航路を決めたとされて云われています。広さ約30坪、高さ約5丈あり、昭和30年代はロッククライミングの練習場ともなっていました。国見岩の下には、国見稲荷大神が祀られています。
6 馬塚
 第二次世界大戦中、山頂に設けられていた高射砲陣地で使役に使われていた軍馬の墓で、昭和19年9月15日戦死と云われています。
7 帆柱権現神社
祭神 いざなみ尊 速玉男命 事解男命
由緒 慶雲2年(705年)、役小角が熊野三山の神を勧請し鷹見大権現を創祀したが、兵火のため市瀬へ移す。昭和35年、社殿を建てて、奥宮上宮をはじめ山中諸社の分霊を合祀する。
8 皇后杉
 権現山から皿倉山山頂付近の樹齢150年から200年に達する老杉を総称して、皇后杉といいます。これは、神功皇后が新羅渡航のおり、軍船の帆柱をこの地から伐り出したという言伝えによります。また、これらの杉は旧藩時代に植林されたと云われていますが、いつの頃か定かではありません。
9 権現山山頂
 熊野三山の神を祀る鷹見神社の奥の院があることから、権現山と呼ばれています。かつては、鷹見山とも呼ばれ、その由来は役行者が熊野で三山権現の勧請を祈願したとき、神殿から飛び立った多くの鷹が当山に飛来していたので山頂に石祠を祀り鷹見大権現と号したことによります。また、別に坊主山、杉山、矢筈山の呼び名があります。山頂には、祭祀遺構と思われる跡がありましたが、第二次世界大戦中に高射砲陣地の設営により消滅しました。
10 鷹見神社
祭神 須佐之男命 速玉男命 事解之男命
由緒 慶雲2年(705年)、役小角が熊野三山の神を勧請し鷹見大権現を創祀しましたが、兵火のため市瀬へ移す。中及び右の写真は、奥の院の祠。下の3枚の写真は、上宮で天保13年(1842年)再建銘の祠があります。
参考文献等
北九州市史 近代・現代(教育・文化) 昭和61年12月10日発行 北九州市
北九州の史跡探訪 昭和61年1月15日発行 北九州史跡同好会