八幡東区大蔵地区 2003年3月12日開設(2012年8月15日一部更新) |
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1 乳山神社 | |
2 勝田神社 | |
3 高見神社 | |
4 長崎街道跡 | |
5 三条の国境石 | |
6 九州鉄道大蔵川鉄橋跡 | |
7 九州鉄道大蔵駅跡 | |
8 両国橋 | |
9 笹原城跡 |
1 乳山(ちやま)八幡神社 | ||
祭神 譽田別命 帯中津日子命 息長帯此売命 由緒 寛文三年(1663年)、豊山八幡宮を勧請し大蔵村の産土神として創建する。乳山の由来は、神功皇后が、この地で皇子(応神天皇)に乳を与えた事によると云われています。 |
創建時の鳥居(寛文三年の銘) |
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文化十一年(1814年)銘の手水鉢 |
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2 勝田神社 | ||
祭神 大山津見神 武御雷神 賦都主神 由緒 神功皇后は、大倉彦神が治めていたこの大蔵谷から、御旗竿の竹を伐りだしたことから勝山と名づけ、社を祀ったといわれています。また、黒田藩主も代々この地から旗竿を取っていました。なお、安永七年(1779年)社殿建立の際、古代の瓦である布目瓦が出たことが記録されています。 |
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3 高見神社 | ||
祭神 天之御中主神 高御産巣日神 神産巣日神 可美葦芽彦遅神 天之常立神 国之常立神 豊雲野神 天照大御神 天忍穂耳命 皇孫邇々杵命 彦穂々手見命 鵜萓葦不合命 由緒 神功皇后が、祀った神社と伝えられ近郷高見神社の本宮である。はじめ、現スペースワールドの西側にありました高見山にありましたが、製鉄所建設により豊山八幡境内地を経て、昭和10年現在地に遷座しました。 |
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文久二年(1862年)の銘の入った鳥居と文化四年(1807年)銘の手水鉢が境内西側に祀ってあります。 | ||
4 長崎街道の跡 | ||
江戸時代、徳川幕府は江戸中心の街道を幹線道路として、全国に整備しました。街道には五街道と脇街道があり、豊前小倉と長崎を結ぶ長崎街道は、九州で唯一の脇街道で全長57里(約240km)あります。この内、大蔵地区では、この清水の坂がよく当時の面影を残しています。 | ||
5 三条の国境石 | ||
古くから北九州市は、そのほぼ中央から東西に豊前国と筑前国に分かれていました。そして国境には、江戸時代に小倉藩と福岡藩によって建てられた国境石が多数あり、そのうち現在14基が残っています。その中で、三条の国境石は、高さ3mを越え、県下最大の大きさを誇っています。 銘文筆者 二川相近 大きさ 329cm×51×43 石 質 花崗閃緑岩 |
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江戸幕府は、各藩の国境等を明確にするため、正保元年(1644年)絵地図の作成を命じます。それに伴い、今まで国境が曖昧であった箇所について各藩で交渉を行ない、確定した国境には目印として木杭を建てたり、松の木を植えたりしましたが、次第に耐久性のある石材となり、それに文字を彫るようになりました。石には「従是西筑前國」と彫り込まれており、福岡藩士で儒学者であった二川相近(ふたがわすけちか)の筆によるもので、天保5年(1834)に建て替えられたものです。また、吉田松陰が、嘉永3年(1850年)肥前平戸に遊学した時に書いた「西遊日記」の小倉から黒崎までに到る項に「豊筑の境に至れば、道右に一石柱あり、是れより東、豊前國小倉領の由刻す。道左に大石柱あり、是れより西、筑前國の由刻す。」とあり、この国境石と長崎街道を挟んで対面に小倉藩の国境石があったことが分かります。現在地に、この小倉藩の国境石はありませんが、八幡図書館敷地に展示されている2基の内「■■東豊前国」が、それではないかと言われています。 |
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6 九州鉄道大蔵川鉄橋跡 | ||
明治24年(1891年)に開通した九州鉄道大蔵線の橋台で、煉瓦と切石で造られています。しかし、大蔵線は、明治35年(1902年)の戸畑線(:現鹿児島本線)開通により、明治44年(1991年)9月に廃線となりました。 現在橋台の遺構は右岸のみ残っており、赤煉瓦をイギリス積で造った煉瓦製の橋台と鋼板桁を載せる花崗岩製の支承部が4箇所あることから、開通当初から複線構造で造られていたことがわかります。 |
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花崗岩製の支承部は、橋台に対し直交ではなく、上流に向け斜めに加工されていることから、同様に桁も、川に直交してではなく、斜めに架けられていたことが分かります。また、支承部の裏側がどうなっているのか不明でしたが、今回の仮設橋の工事によって桁端の橋台は再度赤煉瓦で補強されていることが判明しました。 | 斜めに加工された支承部 |
支承部裏側の赤煉瓦積 |
川の中に、かろうじて橋脚の土台が残っています。赤煉瓦積の橋脚先端には、鋭角な水切りが設けられ花崗岩で補強されています。 | ||
花崗岩製の水切1 |
花崗岩製の水切2 |
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左岸の橋台は、河原の残る赤煉瓦の塊から右岸同様の橋台があったことが伺えます。また、左岸側には、使用されていない大口径の水道管が埋設されていましたが、橋台部があったと推定される部分は川の中心部に向かって迂回して敷設されています。従って、この水道管が埋設されるまでは、橋台は残っていた可能性があります。 | 左岸に残る水道管 |
赤煉瓦の塊 |
7 九州鉄道大蔵駅跡 | ||
明治24年(1891年)に開通した九州鉄道大蔵線は、当初小倉〜黒崎間に駅がなかったが、明治31年8月現在の大蔵公園の地に大蔵駅が設置され、一時は八幡の表玄関としてにぎわいました。しかし、明治44年(1911年)9月の廃線により、駅舎は大正元年9月萬田駅(現荒尾駅)に移築されました。 | 昭和十年代の萬田駅舎1 |
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昭和十年代の萬田駅舎2 |
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8 両国橋 | ||
豊前国と筑前国の両国をつなぐ橋との意味から両国橋と名づけられ、架け替えに伴い大正十四年竣工の旧橋柱が橋のたもとに保存されています。 | ||
9 笹原城跡 | ||
北九州市史には、篠山城として掲載されていますが、江戸時代に書かれた筑前国続風土記等には「笹原城」「篠谷城」の名称で、麻生氏の砦として記載されています。現在は、大蔵中学校の校舎敷地となり当時の遺構等は何も残っていません。右の航空写真は、学校用地造成中の写真です。 | ||
参考文献等 | ||
八幡市史 復刻版 昭和49年5月17日発行 名著出版 豊前・筑前の国境石 北九州市文化財調査委員会調査報告1 1966年北九州市教育委員会 福岡県の城 1995年 廣崎篤夫 北九州の史跡探訪 昭和61年1月15日発行 北九州史跡同好会 |