八幡東区尾倉地区
2003年5月17日開設[2010.9.9・2012.6.4更新]
■ 色の線は、旧長崎街道    色の線は、旧九州鉄道大蔵線
1 国境石 10 尾倉橋梁      
2 八幡図書館 11 華頂寺・大門ノ城
3 平和祈念像 12 地蔵堂跡
4 小伊藤山公園 13 公道に残された墓
5 旧百三十銀行 14 鬼ヶ原遺跡
6 元照寺 15 洞見橋
7 豊山八幡神社 16 鉄鋼彫刻
8 影見池 17 八幡駅
9 不老神社 18 東田高炉
1 国境石
 現在、八幡図書館の前庭にある国境石は、上部が欠けているが2基展示されています。その内@豊前国のものは八幡東区三条にあったとされていますが、A筑前国のものは場所が、はっきりしていません。

@豊前国
銘文筆者 木部市左衛門
大きさ   78cm×20×20
石 質   粗粒砂岩(折尾砂岩)
銘 文   ■■東豊前国■■

A筑前国
銘文筆者 二川相近
大きさ   50cm×18×18
石 質   粗粒砂岩(折尾砂岩)
銘文   ■■西筑前国
@豊前国

A筑前国

2 市立八幡図書館
 昭和30年(1955年)12月竣工した八幡図書館は、明治24年(1891年)佐賀県唐津に生まれ八幡育ちの建築家村野藤吾氏が設計したものです。外観は、柱と梁のコンクリート打放しで、その囲まれた部分は三角模様等を呈した煉瓦タイル張りとなっています。村野氏は、この他に昭和33年(1958年)竣工の八幡市民会館等の設計も行っています。
3 復興平和祈念像
 昭和28年5月3日、八幡の戦後復興と世界の平和を祈念して、彫刻家樽谷清太郎氏によるブロンズ像が設置されています。
4 小伊藤山公園内の碑
 戦前、この周辺は小伊藤山と呼ばれていた丘陵地帯でありました。
 中の写真は、昭和20年8月8日の八幡大空襲によって、小伊藤山の防空壕に避難していた300人近い方々が亡くなられ、その霊を慰めるため、昭和27年に建てられた慰霊塔です。

 右の写真は、昭和10年(1935年)八幡生まれの詩人「みずかみかずよ」(1988年没)の歌碑で、公園内にあります。
5 旧百三十銀行八幡支店(市指定有形文化財)
 大正4年(1915年)に竣工した旧百三十銀行の八幡支店で、唐津市出身の辰野金吾が主宰する設計事務所の設計による建物です。辰野氏は、東京駅・日本銀行・西日本工業倶楽部等近代日本の代表的な建築物を数多く設計しています。外観は、煉瓦タイル張りとなっていますが、鉄筋コンクリート造りです。なお、現在はギャラリーとして活用されています。昭和61年、市の有形文化財(建造物)に指定されています。
6 元照寺
浄土真宗本願寺派
本尊 阿弥陀仏
由緒 豊前国中津の城井城主宇都宮氏没落後、家臣門司左京の子浄心が天正19年(1591年)に開基する。その後、寛文2年(1662年)に寺号を許され、尾倉の徳廣(現在のかどもと眼科付近)にありました。明治43年1月に、現在の春の町保育園付近(右の写真中央)に移転しましたが、戦災に遭い、昭和28年現在地へ再度移転しました。なお、八幡製鐵所の創業にいたる間に、この寺を舞台にした一大事件がありました。それは、製鐵敷地面積が予定の倍必要になった所、それまで協力的であった住民が、反対を唱えてこの寺に立てこもったのです。また、旧尾倉小学校の前身である祇原小学校が明治7年に開校した場所でもあります。

平成7年焼失前の写真

明治43年移転前の位置図

戦災以前の建物

左の建物のあった場所
7 豊山八幡神社(八幡東区春の町四丁目4番)
祭神 誉田和気命、帯仲津日子命、息長帯比売命、宇遅和紀郎子命
由緒 神宮皇后、この地に来た時弓矢を山中に納め、天下が豊かになることを祈り、この山を豊山と名付けました。光孝天皇の時代(884〜887年)に創建されたとされています。
例祭:十月十日
また、八幡東区の原点である明治22年発足の「八幡町」の町名は、この八幡宮の八幡に由来します。

拝殿 昭和五年竣工

本殿 昭和五年竣工
灯篭一対
鳥居の前、左右にある石灯篭は、いつ造られたのでしょうか?
左右の側面灯篭の台石に彫られている文字を、読んで見ましょう

天保三(1882)年に造られたことが、わかります。
猿田彦の石碑が、境内にありますので探して見ましょう。また、いつ造られたのでしょうか?

右の猿田彦は、彫られた文字から天保二年(1881)に造られたことがわかります。
右端の猿田彦は、残念ながら読めませんでした。
鳥居
いつ、造られたのでしょうか



寶永二年(1705)に造られた
ことがわかります。
この石碑は、何でしょうか?
よく、読んで見ましょう

たぶん
神社の経営を支えるため
村の庄屋が、天保九年(1838)に田を
寄進したことを証拠として
残すため彫られた石碑
ではないかと思います
手水鉢

いつ造られたのでしょうか
裏側に彫られた文字を
読んで見ましょう

寶永三年(1706)に造られた
ことがわかります
8 影見池(八幡東区春の町四丁目5-19)
 菅原道真が、大宰府へ赴く途中、この池の水に映った自分の姿を見て、
 「海ならずたたへる水の底までも
         清き心は月ぞ照らさん」
と、無念の心情を詠んだと云われています。それから、この池を「影見池」または「姿見池」と呼ぶようになったと云われています。
 また、池の水は豊山八幡神社の飲料水として使われていました。

1986年の池の中
影見池の説明板の横にある石柱は、何でしょうか?
左右の側面に彫られている文字を、読んで見ましょう


たぶん
天保四(1883)年に造られた村祭りなどの時に使用する旗(はた)の竿を固定する石の台で昔は、道路を挟んでもうひとつあったと思います。
9 不老神社(八幡東区春の町三丁目6番地内)
祭神 大和亦三郎家煕霊
由緒 不詳
例祭 十月七日


御神体

灯篭

灯篭の台石に刻まれた文字

神社へ続く路地

路地の階段に転用されている旧町名の入った旗竿石柱
10 九州鉄道尾倉橋梁(八幡東区尾倉一丁目7-13下)
 九州鉄道は、鉄道建設にあたりドイツの鉄道局より顧問技師を招き、明治21年6月会社設立の認可後、門司から久留米までを第1区として、門司-遠賀、遠賀-博多、博多-久留米の三工区に分け明治21年12月に着工した。そして、2年後の明治24年(1891年)4月の門司-黒崎間の開通をもって第1区の工事は完了しました。この橋梁は、その最後の工事であった大蔵線で、旗生川の流れを阻害しないようにイギリス積の煉瓦で造られたアーチ橋です。しかし、大蔵線は、明治35年(1902年)、戸畑線(現鹿児島本線)の開通により、明治44年(1991年)9月廃線となりました。なお、旗生川は現在道路下に下水道として埋まっています。また、レンガの大きさは、23×11×6cmで茶屋町橋梁よりは若干大きめです。そして、使われたレンガが、国産かイギリスからの輸入品かの結論はまだ出ていません。
11 華頂寺・大門の城跡
浄土宗
本尊 阿弥陀如来
由緒 総本山知恩院が浄土宗の教会所を開設したのが始まりで、その後信徒の要望により知恩院内の眞葛庵を移転して、大正10年寺号を華頂寺と定めました。

大門の城跡

 現在、華頂寺が建っている場所には、城があったと伝える話があります。その話では、「上の山」と呼ばれていたこの場所は頂上が平らな山で、「大門の城」と言っていました。ある時、戦があり焼け落ち、お宮もお寺も、そして家々も焼かれ、人々は一斉に逃げてしまいました。やがて、戦も終わり、静から村になると、人々も戻り、城の跡は畑となりました。そして、大正5・6年頃、知恩院の九州御別院を建てる事になり、北側の谷を埋めて整地し南寄りに庫裏が建てられました。また、工事中に大雨で東側の土手が崩れ、五輪塔が4・5基出土しました。
 また、このことを裏付けるように、周辺に「大門」「木戸」「殿倉」馬屋の前」等城に関する地名が残っています。特に、大門は市場の名前として現在も使われています。

境内に残る一石五輪塔
12 地蔵堂跡
 現在は、済生会病院の敷地となっていますが、10数年前まで地蔵堂と境内に一石五輪塔や大乗妙典六十六部供養塔がありました。
 1月24日の初地蔵と8月24の地蔵盆には灯明がともり線香の煙がたちこめ、詣でる人が絶えなかったと云われて言います。
 都市化の波に、またひとつ尾倉村の歴史が消えてしまいました。
 なお、昭和2年に設置された済生会八幡総合病院の敷地には、貴船神社もありましたが、現在豊山八幡神社に合祀されています。
13 公道に残された墓
 車道に背を向けた一基の墓石が道路脇にあります。昔、虚無僧が行倒となり、その場所に弟子が墓を建立。墓碑には、徳広与左衛門と戒名が彫られていたと云われていますが、「釈○○信士霊」と読めます。
 また、昔は半間の道路に面して墓が建っていましたが、戦後墓の後ろにあった家々が買収され道路が拡幅されました。その際、墓の移転話がでて、祀る人に観てもらったところ、移りたくないとお告げがあったため、道路に背を向けたようになってしまった。と先代の地主の娘さんより聞いていると地元の方から聞き取りしました。
14 鬼ヶ原遺跡
 平成10年に発掘調査が行われた場所で、下記調査場所の東側隣接地です。調査の結果、16世紀末の土壙等が発見されたが、密度はあらく下記調査箇所が集落の中心で、あることが判明しました。また、この場所もマンションが建設され遺跡はなくなっています。また、新日本製鐵の送水ポンプ場跡であったため、径1.5mの鉄管が出土しました。
調査風景

土壙
 平成4年に発掘調査が行われ場所で、15世紀後半から16世紀末にかけての室町時代の集落跡が発見されました。なお、現在はマンションが建設され遺跡はなくなっています。

※ なお、遺跡名の「鬼ヶ原」は、この場所の昔の地名で、神功皇后伝説に登場する「崗県主(おかあがたぬし)の熊鰐」が、住んで居たことに由来しています。しかし、今回の発掘調査では伝説を裏付ける古代の遺構は発見されませんでした。

全体写真

白い線で示されている溝

中央に、掘立柱の建物跡、周辺に土壙があります。
15 洞見橋と江戸墓
 洞見橋は、洞海湾が見える橋として名付けられていますが、戦前この橋は木製で昭和20年8月8日の大空襲によって焼け落ちました。当日、現尾倉中学校の地にあった八幡市立商業学校[県立折尾高等学校の前身]の生徒は、授業中に空襲に遭いこの橋を渡って皿倉山方面に逃げましたが、逃げ遅れた3人が橋にかかった時には火に包まれており、渡ることは出来ませんでした。翌日、この三人は尾倉町の銭湯の浴槽から遺体で見つかったといわれています。復旧は、昭和30年鉄筋コンクリートアーチ橋として整備されました。
 洞見橋を望む山手線道路脇に江戸墓が一基、お花が絶えることなく、大切に祀られています。謂れは不明ですが、以前この付近には墓地があったことが古図に記載されています。

洞見橋

江戸墓
16 鉄鋼彫刻
 国際村交流センターの完成に合わせて、アメリカ人の彫刻家ダン・ガマー氏の作品が、2体設置されています。なお、ダン・ガマー氏の夫人は、アカデミー主演女優賞等を受賞した大女優メリル・ストリープさんです。
 なお、平成5年7月30日の除幕式には、夫妻そろって参加されていました。

ハウス・オブ・ミュージック」

「 リユニオン」
17 八幡駅とホーム上屋等
 八幡駅は、昭和30年8月戦後復興の要として東側約1kmの場所より移転新築されました。駅舎は、民衆駅としてビル形式で、建設されました。駅前広場の下には国道3号線が、通っています。


 駅前広場の中心に、町の再建と今一度の活力を願って、昭和62年高橋秀のタイトル名「浮上計画」という鉄鋼彫刻が、設置されています。

「浮上計画」
 1934年2月、官営八幡製鉄所から民営化になった日本製鐵の「(丸Sマーク」と1939年の製造年が刻まれた古レールを利用したホーム上屋があり、昭和29年3月30日取得の財産標がつけられています。
18 東田第一高炉
 東田第一高炉は、明治34年(1901年)、日本初の本格的製鐵所として建設された「官営製鐵所」で、最初に火入れされた溶鉱炉です。その後10回にわたり改修が行われ昭和37年(1962年)に現在の姿となりました。しかし、昭和47年(1972年)その役割を終え、現在市指定文化財として保存されています。

原点標

 昭和4年、八幡製鐵所内の位置をきめるため、6基並んでいた東田高炉群の中心を東西に貫いた直線と、旧本事務所からこれと直角に交わる点を測量原点と決め、施設の位置や高さが決まりました。


 溶鉱炉出銑口前の、作業風景が復元展示されています。

原点標

作業風景
 昭和4年3月、芝浦製作所製造の電気機関車
転炉
 昭和32年9月、日本で最初に導入された純酸素上吹き転炉で、重さは300トンあります。

ノロ(スラッグ)の塊
 ノロとは、溶鉱炉の中で質のよい鉄(銑鉄)と製品に出来ないもの(鉱滓)が交じり合ったもので、出銑口のまわりに詰まると作業が中断していました。

転炉

ノロ(スラッグ)の塊
参考文献等
八幡戦災復興誌 昭和35年4月1日発行 八幡市
八幡製鐵所 写真集 昭和41年11月18日発行 八幡製鐵株式会社八幡製鐵所
豊前・筑前の国境石 北九州市文化財調査委員会調査報告1 1966年北九州市教育委員会
八幡市史 復刻版 昭和49年5月17日発行 名著出版
郷土八幡 創刊号 昭和48年7月1日 八幡郷土史会
九州鐵道小誌-赤れんがで築かれた鉄道の話- 昭和51年12月10日発行 出口隆
北九州市史 近代・現代(教育・文化) 昭和61年12月10日発行 北九州市
北九州の史跡探訪 昭和61年1月15日発行 北九州史跡同好会
北九州の史跡探訪 平成2年9月1日発行 北九州史跡同好会
北九州市の建築 平成元年9月30日発行 北九州市
福岡県の近代化遺産 平成5年6月15日発行 財団法人西日本文化協会
鬼ヶ原遺跡 北九州市埋蔵文化財調査報告書第177集 1995年3月31日発行 (財)北九州市教育文化事業団
鬼ヶ原遺跡 北九州市文化財調査委員会調査報告書第90集 2000年北九州市教育委員会
八幡製鐵所の百年 世紀をこえて 平成13年11月18日発行 新日本製鉄株式会社八幡製鐵所