八幡東区前田地区
2003年3月22日開設(2005.10.1・2011.5.21・2012.6.4更新)
■ 色の線は、旧長崎街道    色の線は、旧九州鉄道大蔵線
1仲宿八幡 12龍の尾橋
2前田観音堂 12-2笹尾橋
3明善寺 12-3花ノ尾橋
4前田一里塚 13祇園原公園
5前田橋 14蒸気機関車
6八束髪神社 15桃園アパート
7鳥野神社 16西八幡駅
8龍潜寺 17前田祇園
9大正寺 18平野小学校
10鉄鋼彫刻 19皿倉橋
11平野川 20平野橋梁
1 仲宿八幡神社
祭神 足中津日子命
    品陀和気命
    息長足比売命
由緒 慶安四年(1648年)、豊山八幡宮を勧請し前田村の産土神として創建。仲宿の由来は、神功皇后が、この地で中宿りし、豊山の宮を造営した事によると云われています。
御手洗石

 宝永四年(1707年)、日光東照宮の鳥居の額石として河頭山から前田海岸へ運び船積みする時、ひびが入ったため、奉献を取りやめ仲宿八幡神社の御手洗石としたと云われています。
江戸時代に造営された鳥居

 鳥居ではなく、神門と記されたものなど銘文には、興味深いものがあります。
牛守神社(和井田権現)
祭神 お小夜狭吾七命
由緒 江戸時代、豊前の跡田村から筑前の藤田村に移り住んだ狭吾七は、観音堂のお小夜と恋仲になり、それをねたんだ組頭の息子は、仲宿八幡の祭礼の夜に無頼の仲間とともに、狭吾七を海岸の松ノ木にくくりつけ、火をつけて焼き殺してしまいました。そのため、お小夜は後を追って井戸に身を投げたと云われています。その後、村に怪火があって組頭一家は焼死し、また村中の牛が不明の疫病に死んだため、村人は二人の怨霊を慰めるため、牛守神社を建てました。なお、昭和28年、和井田より移設。祠には、明治後半、八幡製鐵所従業員により製作された、鋳鉄造りの観音様が祭られています。
操の松(中の写真)

牛守神社の御神木

胎石(はらみいし)神社(右の写真)

由緒 神功皇后がこの地に留まっていた時、御神体の石を見て「吾が皇子を、はらみし腹に似たり」と言われた事から村人の信仰篤く、その後万治一年(1658年)祇園原に社殿を建てたといわれています。
境内の猿田彦

 天保十年(1839年)に造られたもので、元々は県立八幡中央高校のグランド付近にあったものが、移設されております。
津島神社(中の写真)

祭神 奥津島比売命
由緒 宗像三神の中の一神で、海上交通の守り神として漁師等の信仰篤く嘉永五年(1852年)前田の海岸近くに建てられましたが、製鐵所の建設により前田小学校校庭に移設された。その後、校舎改築に伴い昭和46年12月、再度この地に移設されました。

旗竿柱(右の写真)
安政七年(1860年)の銘が刻まれています。
2 前田観音堂
 中世の城、花尾城主麻生氏が信仰していた観世音菩薩を祭ったのが、前田観音堂のはじまりとされている。また、毎年8月24日の地蔵盆の日に、大内氏に攻められた花尾城の戦死者を供養するため、その子孫や村人によって始められた盆踊りが、毎年観音堂の前で踊られています。この盆踊りは、昭和55年に市の無形民俗文化財に指定されています。
狭吾七の墓(中の写真)

 狭吾七は、天明四年(1784年)8月20日に、亡くなり当初製鐵桃園アパートの南西の低地に葬られていましたが、大正の頃、お小夜が籠っていた観音堂に改葬されました。


お小夜と狭吾七の地蔵尊(右の写真)
3 明善寺前庭の宝篋印塔
 自害した麻生氏の姫と腰元を供養した塚と伝えられています。
 宝篋印塔の特徴である笠石の外方に反り返った隅飾突起(すみかざりとっき)は、破損している。紀年銘もなく造塔年次は明らかではありません。
4 前田の一里塚
 長崎街道の前田にあった一里塚の記念碑で、実際は若干東側の場所に在りました。  遠賀郡往還古図に「前田川の西に小川ありて、その土橋を渡りたる所に第一の塚あり」と記載されています。また、塚には松が植えられていました。
5 前田橋
 平野川は、現在旧平野小学校の横から下流は、全線蓋を架けられ道路となっており見ることは出来ませんが、当時の橋柱が花尾小学校の校庭に保存されています。
6 八束髪神社
祭神 建速須佐之男命 奇名田比売命
由緒 元久二年(1205年)花尾城主麻生氏が、社殿を造営したと云われています。天正十五年(1587年)三月麻生氏落城、その後慶長五年(1600年)黒崎城主となった井上道伯もまた丁重に祀りました。また、後世この社を諸所に勧請したため、祇園本宮と称しています。なお、明治維新までは祇園神社といっていましたが、維新後旧号の八束髪神社に戻しました。
7 鳥野神社
祭神 天種子命 高麗神 古海氏祖 大山祇神
由緒 旧号を種子神社といい、鳥野の神を祭る。後世に高麗の神を合祀して貴船神社といっていましたが、大正時代に黒崎の春日神社があったこの地に移転し鳥野神社と改称する。
8 龍潜寺
本尊 釈迦仏日蓮大菩薩
由緒 明治7年開祖山本日諦氏は、寺を建立しようと国に許可を求めましたが認められず、千葉県安房郡市川村に慶長11年創建され慶応2年に焼失後荒廃したままとなっていた「龍潜寺」を移転することで、明治11年許可を得て現在地に新築しました。
独逸人技師の墓(中の写真)

 八幡製鉄所建設の技術指導員だった、ドイツ人カールキヨラーのお墓があります。明治34年4月来日、明治36年9月5日に亡くなりました。


花尾城戦死者霊魂供養塔(右の写真)

 明治34年12月8日に建立された、花尾城の戦死者の供養塔。

9 大正寺
本尊 釈迦如来観世音菩薩
由緒 小倉の古船場町にあった、天正20年(1592年)創立の大隆寺と、馬借町にあった正保2年(1645年)創立の圓照院を合併し、大正5年現在地へ移転。名称は、両寺の「大」と「照」をとり、また時代が「大正」であったことから大正寺としました。 
 現在地に再興するに当たり、福岡城の祈念櫓の払下げを受け、観音堂(中の写真)として使用していましたが、福岡城の復元整備に当り昭和59年返還されました。右の写真は、福岡城に復元整備された祈念櫓。
 境内には、元和6年(1620年)銘の古墓を始め多くの江戸期の墓の他、嘉永5年(1852年)製作銘の一石一字塔、五輪塔があります。また、古くは寛永6年(1629年)銘を始め多くの地蔵尊もあります。
10 在りし日の平野社宅と鉄鋼彫刻
 現在スピナ桜通り店や八幡医師会がある場所には、八幡製鐵所の平野社宅が建っていました。平野社宅は、八幡製鐵所の社宅発祥の場所でもありました。この写真は、1979年取壊し中の、鉱滓煉瓦2階建ての社宅です。この建物は、戦前に建設されたもので、八幡大空襲の時には外観の煉瓦を除いて全て焼け落ちましたが、戦後修理して使用されていました。

 社宅撤去後は、医師会館・税務署・スピナ等が建設され、通りも緑道として整備され、その一角には、昭和62年東田高炉記念広場で開催された「国際鉄鋼彫刻シンポジウム」で、イギリス人彫刻家フィリップ・キングが制作した「牡牛座の月」が設置されています。
11 平野川
 桜通りの愛称で親しまれているこの道路の下には、右の写真のとおり平野川が、流れています。この写真から、石垣護岸の上にコンクリートの蓋を架けている状況がよく分かります。
12 龍の尾橋
 平野川の上流、花尾バス停付近に架かっている「龍の尾橋」は、石造アーチ橋で、表面は自然石積み、主体部は鉱滓煉瓦積となっており、昭和6年3月に竣工しています。この橋の外観、構造から河内貯水池や中河内橋等を設計・施工した技術者集団が深く関与しているものと考えられます。なお、この橋は昭和28年の大水害にも耐え、今なお現役で使用されています。

 この橋が架かっている道路は、北原白秋が昭和5年に作詞した八幡小唄の一節に「山へ山へと八幡はのぼる、はがねつむように家がたつ」と唄れたように枝光から皿倉山の麓まで住宅が立ち並んだため、交通の利便性向上と失業対策事業として旧戸畑市の大谷から日の出町、大蔵、西丸山町、天神町、花尾町を経て国道200号線までの幹線道路として、昭和5年に着手され昭和11年3月完成しました。完成当時、この道路は、眼下に近代工業の粋である製鐵所等の工場群や対岸の若松市街地や遠く響灘を眺めることができた為、景勝の「山ノ手道路」と呼ばれていました。また、平野川には、この橋と全く同じ構造の「笹尾橋」と「花ノ尾橋」が架けられ三尾橋と呼ばれ、花尾城と併せ当時の市勢要覧には休憩散策地として好適の遊園地であると記載されています。


 橋には図師八幡市長が命名した「たつの越はし」の銘が刻まれています。なお、越は「オ」とも読まれ、地図には「尾」の字が当てられています。
12-2 笹尾橋
 平野川の支流、西台良バス停付近に架かっている笹尾橋で、「龍の尾橋」より一回り小さいものの外観・構造は全く同じです。なお、欄干や橋柱は、無くなっているため橋名や竣工年を見ることは出来ません。
12-3 花ノ尾橋
 平野川の上流、花尾バス停から皿倉霊園に通じる道に架かる「花ノ尾橋」は、昭和28年6月の大水害で流されてしまいました。現在は、橋名も無くなっていますが、以前と同様のコンクリート橋が架かっています。従って、石造アーチ橋は山ノ手道路建設時に平野川のみに架けたことになります。  
13 祇園原公園
 祇園原公園は、昭和10年10月開園した公園で旧八幡市では、昭和6年開園の宮田公園、昭和9年開園の豊山公園に次いで3番目に古い公園です。入口の門柱には、当時の銘板が今でも残っています。
14 D51蒸気機関車
 桃園公園の一角、児童文化科学館の前にデコイチの愛称で知られている、D51蒸気機関車が展示されています。この蒸気機関車は、昭和14年12月17日国鉄大宮工場で製造されたもので、これまで216万4776Km走っています。この距離は、地球54周分にあたります。そして、昭和47年3月鹿児島本線の北九州市内を走ったのを最後に33年間の走りを止め、ここに展示されています。
 総重量125.77d 最大速度 85Km/h
 最大長 19.73m 最大幅 2.9m 最大高3.95m
15 桃園アパート
 旧八幡市では、住宅建設を戦災復興の重要施策の一つとして、財団法人八幡市住宅協会(昭和25年8月)を設立するとともに同年より復興事業に着手しました。ここ、桃園地区に於いては、土地区画整理と併せて都市の不燃化を図るため鉄筋コンクリートによる高層アパートが、八幡市住宅協会と八幡製鐵所によって建設されました。なお、当時の高層アパートは、4階建でした。
    46棟 1、336戸
16 西八幡駅
 旧八幡市の貨物の取扱いは、旧八幡駅で行っていましたが、製鐵所も含め全貨物を集積するため、昭和2年(1927年)9月11日に西八幡停車場が開業しました。当時は、北九州唯一の貨物専用停車場でした。なお、 昭和61年(1986年)10月31日に、廃止となりました。また、この付近で九州鉄道大蔵線と鹿児島本線が合流していました。
17 前田祇園
 元久二年(1205年)花尾城主麻生氏が、八束髪神社を造営し祇園会を行ったことに由来すると云われています。山笠は、八色の手長旗を立てた旗笹山笠で巡幸が始まり、その後人形飾山笠に衣替えします。平成13年3月30日、北九州市無形民俗文化財に指定され、平成17年には、八百年祭を迎えました。
18 平野小学校
 平野小学校は、大正10年4月1日前田尋常高等小学校の一部を仮校舎として開校し、大正10年4月20日建築中の新校舎完成に伴い移転。昭和28年6月の大水害では、平野川の氾濫によって校舎も被害を受けました。平成16年、児童数の減少により前田小学校と統合され花尾小学校となりました。校舎は、花尾小学校の仮校舎として使用され、平成21年解体されました。
19 皿倉橋
 平野川の上流、皿倉霊園に通じる道に架かる皿倉橋は、大正12年1月の竣工で、八幡東区内で現存する橋としては一番古い橋です。
20 九州鉄道平野橋梁
 明治24年(1891年)に開通した九州鉄道大蔵線の平野橋梁で、写真から鋼製橋と判断されます。明治31年の地図では、長崎街道の南側、ほぼ平行して建設されています。類似の鋼製橋は、大蔵川に架かっていた大蔵橋梁があります。金山川を跨ぐ茶屋町橋梁は、煉瓦のアーチ橋となっていますが、同河川より規模が小さい平野川で、何故鋼製橋となっているのでしょうか。
参考文献等
八幡市史 復刻版 昭和49年5月17日発行 名著出版
八幡市史 続編 昭和34年3月30日発行 八幡市役所
北九州市史 近代・現代(教育・文化) 昭和61年12月10日発行 北九州市
筑前の長崎街道 1992年3月31日発行 松尾昌英
北九州の史跡探訪 昭和61年1月15日発行 北九州史跡同好会
市勢要覧 昭和32年5月1日発行 八幡市役所