八幡東区河内及び田代地区
2003年3月3日開設(2003.4.19更新)
1 河内貯水池 10田代国境石境ヶ谷
2 貯水池完成記念 11田代国境石荒谷越西尾根
3 白山宮 12田代国境石荒谷口
4 沼田泰子記念碑 13稗田神社
5 めがね橋 -
6 観音堂 -
7 遭難五士遭難碑 -
8 山頭歌碑 -
9 南河内橋 -
1 河内貯水池
重力式含石コンクリート造
貯水能力700万立米
堰堤高さ44.1メーター
八幡製鐵所は、増加する工業用水の需要をまかなうため、大正7年(1918)に着工し、8年の歳月をかけて昭和2年(1927)3月に竣工。建設にあたっては、時の会計検査院から「公園でもあるまいし、いくらなんでも贅沢すぎる」と叱責を受けたように、ヨーロッパの古城風にデザインされた取水塔等は、見ものです。
2 貯水池完成記念碑
 堰堤を渡った所に、貯水池完成を詠んだ製鐵所長官白仁武の「乾坤日夜浮」の歌碑と、その横に英文で書かれて建設関係者の記念碑があります。それには、アメリカ土木学会の会員であった沼田氏によって、この貯水池はデザイン及び建設されたと刻まれています。
3 白山宮
祭神 白山比売命
由緒 不詳
 文化6年(1809年)銘の手水鉢等境内には、古くて不思議な石が多い。
4 沼田泰子記念碑(白山宮境内)
 河内貯水池の建設担当であった沼田尚徳は、住み慣れた土地を提供してくれた八幡村の人たちのために、できる限り堅牢で美しく、そして多くの人々に愛される貯水池づくりに励んでいました。そんな沼田を励まし続けたのが妻の泰子さんでしが、竣工間際に40歳の若さで亡くなれました。そんな妻への思いを込めて、沼田は和文と漢詩、さらに英文で「妻恋の碑」を昭和3年、境内に建てました。
5 中河内橋(めがね橋)
 3連からなる石造アーチ橋で、表面は自然石積み、主体部は鉱滓煉瓦積となっています。
6 観音堂(帆柱四国88ヶ所)
 帆柱四国88ヶ所の第30番札所で、本尊は阿弥陀如来です。
7 遭難五士慰霊碑(中河内観音堂境内)
 昭和7年(1932年)2月27日午後3時40分頃、大阪から福岡の名島へ向かっていた、日本航空の「白鳩号」が暴風雪にあい、南河内橋袂の旅館旧樋口軒の裏山に墜落しました。操縦士、通信士、機関士の4名は即死でしたが、機関士の一人は、八幡病院へ運ばれた後、亡くなられました。
8 山頭火句碑(中河内観音堂境内)
 昭和5年(1930年)11月24日、下関市から八幡市にやって来た種田山頭火は、俳句で知り合った星城子宅に宿泊し、翌日の25日河内貯水池に星城子、俊和尚と三人で訪れ、そのときに詠んだ句が歌碑となって境内に建っています。

    「水を前に墓一つ」
9 南河内橋
 大正15年11月に完成した径間60m、幅員4.1mのレンチキュラートラス2連からなる、形の整った鉄骨造の橋で、通称は魚形橋又は眼鏡橋と呼ばれています。橋脚と橋台は、ダムと同様に切石積みコンクリート造です。


建設当時の写真
10 田代国境石 境ヶ谷
 河内病院一番奥の病棟裏にあり、元禄古図に境石としるされている自然根石で、市内の自然根石に彫られたものでは最大のものです。

銘文筆者 二川相近
大きさ  150cm×190×80
石 質 石英斑岩
11 田代国境石 荒谷越西尾根
 河内病院北側の尾根上にあり、自然根石に刻まれています。

銘文筆者 二川相近
大きさ  80cm×50×12
石 質  斜長ひん岩
12 田代国境石 荒谷口
 河内病院から北東の荒谷にあり、以前は二つに割れていましたが、現在修復されている自然根石に刻まれています。

銘文筆者 二川相近
大きさ  110cm×75×26
石 質 石英斑岩
13 稗田神社
祭神 保食神 菅原神 大山津見神 大日霊命
由緒 不詳。伝承では、五穀豊穣を願って田川郡上野村より勧請したと云われています。

 三つの祠があり、その内の一つには享和3年(1803年)の製作銘があります。なお、現在は、八幡東区となっていますが、昭和29年までは小倉市、つまり豊前の地域に属していました。
 境内の燈籠は、文化5年(1808年)の製作銘が刻まれています。また、境内の猿田彦神は、文化2年(1805年)の製作銘が彫られています。
参考文献等
八幡市史 復刻版 昭和49年5月17日発行 名著出版
小倉市誌 補遺 昭和48年6月13日発行 名著出版
豊前・筑前の国境石 北九州市文化財調査委員会調査報告1 1966年北九州市教育委員会
福岡県の近代化遺産 1993年 財団法人西日本文化協会
北九州の史跡探訪 昭和61年1月15日発行 北九州史跡同好会
北九州市立河内小学校制作のホームページ