八幡東区枝光地区 2003年5月15日開設 2005年11月30日更新 |
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地図1 明治31年測量の地図より当時の海の部分は青色で着色、島の部分はベージュ色で着色しています。なお、一部の島の名称は、資料による混乱があるようなので「筑前国続風土記拾遺」をベースに仮に付けています。従って名称の後に?を付けています。
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地図1 |
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地域の歴史 1 町の変遷 明治22年:枝光村、大蔵村、尾倉村の3村が合併して八幡村となる。 明治33年:八幡町となる。 大正 6年:八幡市となる。 2 埋立て及び区画整理事業 延宝(1673年〜1681年)、天和(1681年〜1684年)の頃より中冨(臣)の入海の潟を埋めて水田を開く 海辺に石堤を築いて潮水を防ぐ、長さ335間、中臣島は、この石堤に連なり [筑前国続風土記捨遺] 明和7年(1770年)、犬川を開作する。 石堤、長さ480間 [筑前国続風土記捨遺] 大正2年、枝光耕地整理着手し大正3年竣工 3 枝光の地名由来 仲哀天皇が神功皇后と共に、筑紫に向かわれたとき、崗県主(おかあがたぬし)の熊鰐が、五枝(いお)枝の賢木(さかき)をとって、船の舳先に立て、上枝に白銅鏡、中枝に十握剣(とつかのけん)、下枝に八尺瓊(やさかに)をかけて、迎えに出たと日本書紀は伝えています。この賢木の枝が三つに分かれていたことから枝三と呼ばれ、それが枝光になったと云われています。 |
1 枝光海岸の島々(松ヶ島・葛島) | ||
貝原益軒が、1703年(元禄16年)七十三歳のとき、藩主に献上した「筑前国続風土記」その後編纂された「筑前国続風土記附録」「筑前国続風土記拾遺」に、葛島、松が島(はだか島・はた島・中島)、俵子島、端の島、中臣島、裸島の事が書かれていますが、現在その姿は葛島と右の大正4年に建立された松ヶ島埋立て記念碑にその面影をたどることが出来ます。 | 葛島 |
松ヶ島埋立て記念碑 |
右2枚は、現在の葛島の海岸線で、左の浜では、古墳時代の須恵器等が散布していることから海に関する遺跡があったことが伺えます。また、このような場所は、市内では小倉北区の藍島にあります。 下の写真は、明治32年の撮影で、島の様子が伺えます。 |
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2 旧八幡製鐵所専用岸壁 | ||
八幡製鐵所の専用岸壁も現在、東田緑地遊歩道として整備され、枝光の松ヶ島漁港から東田地区の温泉シーサイドスパまで散策が楽しめます。また、途中には使い込まれた船の係留施設がそのまま残されています。 | ||
係留施設 |
係留施設 |
係留施設 |
3 荒手町の與玉神他 | ||
荒手町にあった、三つの碑が一箇所にまとめられ保存されています。 文化4年(1807年)の銘がある與玉神は、製塩に関する神で、この地の海岸で製塩が行われていたことを示すものです。 大正9年(1920年)の銘がある幸神は、五穀豊穣、子孫繁栄を願って祀られたものです。 無銘の碑は、猿田彦神で明治元年に造られたもので村の境界に建てられ、村に悪い霊が侵入するのを防いでいました。 |
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與玉神 |
幸神 |
猿田彦神 |
4 くろがね線 | ||
八幡製鐵所から出る大量のスラグ、炭滓等を戸畑、日明地区に埋立てるため建設された「炭滓運搬鉄道線」で、延長5.2キロの専用鉄道です。昭和2年建設に着手し、昭和5年2月に完成し、5月1日より運行を開始。また、蒸気機関車が一般的であった時代に、電気機関車が採用されていました。さらに、戦中戦後の一時期、一枝と鞘ヶ谷にホームが造られ、通勤電車としても活用されていました。また、昭和47年、社員からの公募により名称を「くろがね線」に変更。 @宮田山トンネル入口 花崗岩切石積み、裏込めコンクリート構造でルネッサンス建築様式のデザインとなっています。 A枝光タイドアーチ橋 スパン51.4m×2連と、くろがね線の中で一番長い鉄橋で、橋台にかかる荷重も801dにもなり、その基礎には径1.5〜1.8m、長さ10mの松杭が140本使われています。 |
@宮田山トンネル入口 |
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A枝光タイドアーチ橋 |
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5 善光寺五輪塔 | ||
筑前国続風土記拾遺に「枝光村 観音堂北山に在り。竹葉山善光寺と云う梵刹の廃址也。五輪の塔所々に残れリ。」と記載されている寺址で、現在の善光寺は、大正時代の初期に再興になったものです。また、境内には八幡ロイヤルホテルから市立枝光市民センター近くにかけて、大正時代に開発が行われた際、多数の五輪塔や一石五輪塔が発見され、地元有志によりその一部が集められています。 | ||
6 枝光八幡神社 | ||
祭神 神功皇后 応神天皇 比売大神 武御名方命 須佐之男命 高レイ命 由緒 建久五年(1194年)下之国麻生上野介重業が、花尾城の城主となり領内の守護神として宇都宮八幡大神を勧請し、宮田山に創建しました。その後、寛永四年(1627年)現在地に、社殿を移転。 |
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文政九年(1812年)、芳賀氏によって造られた鳥居。 |
境内入口に、設置されている明治8年に造られた 猿田彦大神 |
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境内にある明治36年、戦後記念として造られた狛犬です。戦後とは、どの戦争を指しているのでしょうか? 日清戦争:明治27年(1894年)から翌年にかけての日本と清(中国)との戦争。 日露戦争:明治37年(1904年)から翌年にかけての日本とロシアとの戦争。 |
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境内に、「大正七八年戦後記念之碑」と記された碑文がありますが、どの戦争を指しているのでしょうか? 大正8年に終結した第1次世界大戦を指すのであれば、この地とどのような関わりがあったのでしょうか? 右の石碑は、大正15年県社に昇格したときに関わった委員会の記念碑で旧八幡村村長芳賀種義の名も刻まれています。 |
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貴船神社 祭神 高レイ神 大歳神 由緒 麻生氏により祭られていましたが、明治39年八幡製鐵所の拡張により熊本山(現高炉台公園)[右の写真中央]に移転。その後、戦火により社殿を焼失したため、昭和51年この地に再度移転したものです。高炉台公園には当時の石段等が今も残っています。 |
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7 猿田彦大神 | ||
現在も諏訪一丁目の路上で信仰されている猿田彦大神。 |
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8 竹久夢二碑等 | ||
大正ロマンあふれる画風により、多くの人々を魅了している竹久夢二は、明治33年2月、岡山から当時の遠賀郡八幡村大字枝光931番地(現在の八幡東区山王一丁目)へ家族とともに移住し、創業時の八幡製鐵所で図工として働いていたといわれていますが、明治34年夏単身上京しました。なお、家族はその後、大正13年頃までこの地に住んでいました。 中の写真は、諏訪一丁目公園内にある「宵待草のやるせなさ。」と刻まれた文学碑で、毎年9月にこの地で夢二祭りが開催されています。右の写真は居住跡に建てられた碑文。 下2枚の写真は、スペースワールド横の公園内に設置された記念碑。 |
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9 戦争犠牲者の碑 | ||
昭和19年8月20日16時頃、八幡空襲のため来襲した米軍爆撃機との戦闘により、被弾した日本軍戦闘機がこの地にあった民家に墜落し、住民4〜5人が犠牲となりました。このため、この地を公園とし、慰霊碑を建て永く犠牲者の霊を弔うこととなりました。 | ||
参考文献等 | ||
八幡市史 復刻版 昭和49年5月17日発行 名著出版 ふるさと4号 昭和36年2月25日発行 郷土史クラブ 北九州の史跡探訪 昭和61年1月15日発行 北九州史跡同好会 福岡県の近代化遺産 平成5年6月15日発行 財団法人西日本文化協会 北九州の史跡探訪(増補・改定版) 平成2年9月1日発行 北九州史跡同好会 八幡製鐵所の百年 世紀をこえて 平成13年11月18日発行 新日本製鉄株式会社 八幡製鐵所 |