八幡東区中央町地区 2002年12月13日開設[2005.9.11・2012.6.4一部更新・2012.7.1追加] ■ 色の線は、旧長崎街道 ■ 色の線は、旧九州鉄道大蔵線 |
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1 旧八幡市 | 12 高炉台公園 | |
2 五輪塔 | 13 熊本地蔵 | |
3 殉職弔魂碑 | 14 岡東小学校 | |
4 身代不動尊 | 15 八幡小学校 | |
5 菅原神社 | 16 八幡警察署 | |
6 祠 | 17 県内で二番目の信号機 | |
7 日開神社 | 18 防空壕 | |
8 九州鉄道橋梁跡 | 19 市民広場 | |
9 大谷会館 | 20 丸物百貨店 | |
10 河内送水路 | 21 北九州スペースタワー | |
11 貴船神社 |
1 旧八幡市(八幡東区中央一丁目1-1) | ||
八幡東区の歴史 明治22年 八幡村となる ※ それまでは、福岡県が公選の戸長を枝光村に設置した戸長役場に配置し、枝光・尾倉・大蔵・戸畑・中原の5ヶ村の行政事務を行っていました。そして、地方自治の始まりである町村制施行に際し、各村単独では資力が無かったため5ヶ村の内、地形及び民情も近い枝光・尾倉・大蔵の3ヶ村が合併することになりました。そこで、村名の話し合いが行われ尾倉村の「尾(び)」、大蔵村の「大(だい)」、枝光村の「光(こう)」と各村名から一字をとり「尾大光(びだいこう)村」に決定し所管の遠賀郡役所に届けましたが、こんな名前は聞いたことが無いと再検討を申し渡されました。そのため、再協議した結果、各村とも八幡(はちまん)神社を祀っていたため「八幡(やはた)村」に決定し再度郡役所に届けたところ、めでたい名前であると受理されました。 明治33年 八幡町となる 大正 6年 八幡市となる 昭和38年 北九州市発足により 八幡区となる 昭和49年 分区により 八幡東区となる 八幡市役所の庁舎 |
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市章碑 大正11年に、一般公募により作られたもので、八つの日の丸の旗がイメージとなっています。 |
旧庁舎に掲げられていた市章の実物。 | |
市歌碑 作詞者 八波則吉 作曲者 矢野勇雄 歌詞 天の時を得 地の利を占めつ 人の心の和さえ加わり たちまち開けし 文化の都 八幡八幡 われらの八幡市 市の発展は われらの任務 |
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以前、ここに掲載していた2階建て洋館は、製鐵所建設に伴う外国人宿舎であるとの示唆がありましたので、削除しました。引続き、石縄手にあった村役場を探していきますので、ご教示願います。(H24.6.4) | ||
明治43年に建設された町役場 | ||
大正10年頃の市役所 | 昭和3年頃の市役所 | |
道路等各所に今も残っている旧八幡市及び八幡町の標 | ||
2 西丸山町の五輪塔(八幡東区西丸山町10番5号付近) | ||
五輪塔の一部及び宝篋印塔の相輪 元々この地にあったものか、どこからか運ばれて来たものか、聞き取り等の調査が必要ですが、中央町地区では初めての資料です。 |
五輪塔の上に宝篋印塔の相輪が載せられています。 |
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五輪塔 「五輪卒塔婆」ともいいます。下から順に方形(立方体)・円形(球体)・三角形(笠型)・半円形(半球)・団形(宝珠)の形を石で造って積み上げます。方形は地を,円形は水を、三角形は火を、半円形は風を、団形は空の意味を持たせてあります。これは、密教が説く宇宙の生成要素である五大(五輪)を表し、大日如来のシンボルとして尊崇されました。多くの場合、五大の種子(しゅじ)すなわち梵字が刻まれています。 |
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3 殉職弔魂碑(八幡東区大谷一丁目) | ||
八幡製鐵所が、明治34年の創業以来殉職された方々を祭るため、大正10年に建立させた碑です。当時は、官営製鐵所であったため碑文には長官の名が入っています。 | ||
ここには、何があったのでしょうか。? | ||
4 丸山身代不動尊(八幡東区西丸山町17-7) | ||
御堂全景 |
境内の地蔵尊 |
安永4(1775)年建立の地蔵尊 |
5 菅原神社(八幡東区大谷一丁目2番) | ||
祭神 菅原道真 由緒 不詳 例祭 九月十二日 |
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大正3年頃の写真で、まるで古墳のように周囲 より一段高く鎮守の森となっていました。 |
天保12年(1841年)に寄進された手洗鉢 |
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6 祠(八幡東区大谷一丁目3番地内) | ||
祭神 不詳 由緒 不詳 なお、この地区には伊能忠敬によって作られた「大図」に尾倉村神願地と言う村がありましたので、その集落で祀られていたものかと推測されます。 |
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7 日開神社(八幡東区中央二丁目8-1) | ||
祭神 天之手力雄之命(アメノタジカラオノミコト)、天之児屋之命(アメノコヤネノミコト)、大玉之命(フトタマノミコト) 由緒 宮司家古文書には、文政三年(1820年)「先達山に鎮まります日開権現」と記載されており、江戸時代より崇敬されていました。 例祭:十月十二日 |
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明治中期頃の日開神社のあった丘陵 |
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本殿裏にある祠 |
祠に刻まれた製作銘[慶応元年(1865)] |
何を意味する文字又は記号なのか |
8 九州鉄道大蔵線橋梁跡(3ヶ所) | ||
明治24年(1891年)に開通した九州鉄道大蔵線の橋梁跡が中央町には3ヶ所ありました。一つは、八幡東区役所の横で、数年前までアーチ橋の赤煉瓦基礎が残っていましたが、マンション建設によってなくなりました。この部分の線路は、大蔵側の旧線路の高さから考えると、現道路から約7m程の高さにあったと推測されます。なお、明治44年(1991年)9月の廃線により、この付近は谷であったため、丸山地区の高さに合わせるため、削られました。 大蔵方面から旧線路を望む、中央のマンション部分にアーチ橋がありました。 二番目は、八幡東警察署東側で今も暗渠で丸山川が流れています。明治37年の地図には、大蔵線の土手を利用して南側に下大谷貯水池が築かれています。従って貯水を行うためこの橋と3番目の橋のアーチ部内に煉瓦を詰め閉塞していました。また、汽車が走っていたため、洪水時の流水を放流する洪水吐けを警察署南側に設置し、一番目の橋梁から流していました。しかし、大正5年4月28日午前8時頃貯水池東北隅旧大蔵線ガードの閉塞部分が決壊し、中央町に流れ込んだ大量の水によって5名の死亡者の他多数の負傷者や家屋倒壊が起こりました。なお、警察署の建替え時に、ここから大量の赤煉瓦が出ていたとの話があります。 三番目の橋は、公園南側の石積みにその名残を見ることが出来ます。なお、ここには東田川が流れていました。 |
左側の壁と右側道路際に赤煉瓦が残っていました。 |
右側のマンション建設によって削られてしまいました。 |
1番目 八幡東区役所横 | ||
明治32年頃 |
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大正3年頃の下大谷貯水池 |
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2番目 八幡東警察署横 | 3番目 中央二丁目公園横 | |
9 大谷会館と周辺スポーツ施設 | ||
大谷会館 鉄筋コンクリート造 地上2階 地下1階 八幡製鐵所職員の交流、親睦、趣味、娯楽の会合の場所として、大正15年に着工し昭和2年5月に完成。 左右対称の外観、アール・デコ調のデザインなど当時最先端の建物で、外壁には製鐵所の鉱滓レンガが使われています。 |
昭和2年完成時の写真 |
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大谷会館の周辺には、製鐵所が所有する多くのスポーツ施設があり、数々のオリンピック選手等を輩出しました。まず、決壊した下大谷貯水池を整備して大谷球場を昭和3年に完成させたのを初め、昭和5年には大谷武道場が完成し、昭和9年には大谷プールが完成。そして、戦後の昭和30年大谷体育館が完成。また、この周辺では、毎年起業祭が開催され、多くの市民で賑わっています。 しかし、都市高速道路大谷・枝光線の建設によって体育館・武道場・プールは姿を消し、平成12年新体育館がプール跡地に完成しました。 |
新大谷体育館 プールと相撲場の跡地に建設されています。なお、プールの観客席の一部が体育館左手の斜面に当時のまま保存されています。 |
「鉄の里」記念碑 昭和40年3月24日、新日鉄八幡製鉄所の出鋼1億トンの達成を記念して、昭和11年に碑が旧武道場横に設置されています。中央の鋼塊は第五製鋼工場で生産された耐候性高張力鋼で、重量は23dあります。全体は、「鉄の滝」をイメージされて作られています。 |
スポーツ施設が出来る前の貯水池が上・下の2池あった頃の写真で上大谷貯水池には取水塔と制御点検用の鉄橋が架かっていました。製鐵所では鉄1t造るのに水100tが必要であったため水の確保に追われ、明治37年頃には、鉄道が走っていた土手までも活用して貯水池を造っていました。 | ||
上大谷貯水池の洪水吐けと、昭和30年完成の大谷体育館と手前に貯水池の堤体を利用した大谷プールの観覧席です。 | 大谷体育館と観覧席 |
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上大谷貯水池の取水塔に架かっていた制御点検用鉄橋の基礎と大谷プールの観覧席が当時のまま今も残っています。 | 鉄橋の基礎 |
プールの観覧席 |
起業祭は、明治34年11月18日官営八幡製鐵所の作業開始式を記念して行なわれたのが始まりで、毎年11月17・18・19日の3日間開催されていましたが、昭和60年からは市民の祭りとして11月上旬に開催されています。 | ||
10 河内貯水池からの送水路 | ||
河内貯水池の水は、この水路を通って、貯水池下の亜字池から天神町の鬼ヶ原へ自然流下で送られました。当初、この水路はトンネルで計画されましたが、工費がかさむ為、開水路として建設されました。その後、昭和28年の水害によって、この水路も大きな被害を受けた為、応急処置として破損箇所に鋼管を仮設しましたが、将来に向け安定供給を検討した結果、1.4Kmのトンネルを建設することとなりました。河内隧道は、皿倉山を貫くように昭和39年6月に着手、昭和40年8月に完成し、通水が行われました。このため、送水路は本復旧されないまま、廃止され現在自転車道として活用されています。 | ||
西只越橋[大正14年(1925年)竣工・鉄筋コンクリート桁橋] 英文で書かれた銘板が2ヶ所あります、それには設計者の沼田尚徳さんらの名前や構造などが書かれています。 |
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内ヶ畑歩道橋[大正14年(1925年)竣工・鉄筋コンクリートスラブアーチ橋] 送水路の終点で、内ヶ畑停塵池の上に巡察路がアーチ状に架けられています。池内の水路出口の壁は河内貯水池の提体と同様、自然石が装飾的にはめ込まれています。また、放水口は、自然石と人造的な曲線で造られています。 |
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11 貴船神社跡 | ||
祭神 高レイ神 大歳神 由緒 麻生氏により祀られていましたが、明治39年八幡製鐵所の拡張により熊本山(現高炉台公園)[右の写真中央]に移転。その後、戦火により社殿を焼失したため、昭和51年枝光八幡神社境内に再度移転。高炉台公園に当時の石段等が残っています。 |
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12 高炉台公園 | ||
仲哀天皇が神功皇后と共に、筑紫に向かわれたとき、崗県主(おかのあがたぬし)の熊鰐が、五枝(いお)枝の賢木(さかき)をとって、船の舳先に立て、上枝に白銅鏡、中枝に十握剣(とつかのけん)、下枝に八尺瓊(やさかに)をかけて、迎えに出たと日本書紀は伝えています。この時、この高炉台公園の山から賢木を採ったため、古来より熊本山と呼ばれています。 高炉台公園は、昭和26年に開園、映画「この天の虹」のロケ地にもなるなど、旧八幡市時代は多くの市民で賑わっていましたが、最近は訪れる人もまばらです。園内には旧八幡市の繁栄振りを顕す彫刻等モニュメントが沢山設置されています。 ※「日本書紀」仲哀天皇八年正月壬午(4日)条 八年春正月己卯朔壬午、幸筑紫。時岡縣主祖熊鰐、聞天皇之車駕、豫拔取五百枝賢木、以立九尋船之舳、而上枝掛白銅鏡、中枝掛十握劒、下枝掛八尺瓊、參迎于周芳沙麼之浦。 |
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鉄都誕生記念碑[昭和32年5月1日設置] 旧八幡製鐵所の溶鉱炉を形どった高さ17メートルのモニュメントで周りには彫刻家樽谷清太郎氏製作のブロンズ像が配置されていました。 高炉塔モニュメント[平成7年7月設置] 鉄都誕生記念碑の老朽化に伴い、公園整備の際に現在のモニュメントに建て替わりました。 |
鉄都誕生記念碑 1963年の写真 |
高炉塔モニュメン |
鉄都誕生記念碑に配置されていた自由・平和・労働・青春を象徴する男女4体のブロンズ像が右の写真です。今は、どうなっているのでしょうか。 | ||
芳賀種義翁之碑 八幡製鐵所の誘致に尽力した八幡村長芳賀種義の功績を顕彰して、昭和47年に建立されました。 第ニ代村長 芳賀種義 文久元年、枝光の大庄屋芳賀與八郎の長男として生まれ、若松町戸長、八幡村村会議員、遠賀郡議会議員を歴任し 明治26年4月、第二代八幡村村長となる 明治31年8月、八幡村村長を退任 その後、福岡県議会議員、八幡消防組合初代組頭等を歴任 |
北原白秋(八幡小唄)碑 昭和5年、北原白秋が作詞した八幡小唄の一節を、昭和36年北九州白秋会が建立したものです。 「山へ山へと八幡はのぼる はがねつむように家がたつ」 また、この唄を作成のため滞在していた高見倶楽部に、まだ校歌のなかった平原校の先生方が直談判にお願いして出来たのが平原小学校の校歌です。 平原小学校での白秋 |
横山白虹・山口誓子歌碑 [昭和48年7月設置] 横山白虹は、明治32年生まれ、九州大学在学中に、 「雪霏々と舷梯のぼる眸ぬれたり」 山口誓子は、明治34年京都市生まれ、東大法学部在学中に東大俳句会に参加し、高浜虚子に指導を受ける。戦前は、ホトトギス派の新鋭として活躍、昭和23年「天狼」を創刊、戦後の俳句復活に寄与しました。 「七月の青嶺まぢかく熔鉱炉」 |
岩下俊作文学碑 無法松の一生で知られている作家岩下俊作は、八幡製鐵所に35年間勤務し、毎日小倉から通勤していました。平成2年4月、彼が勤務した八幡製鐵所を臨む高炉台公園に文学碑が設置されました。 |
上野十七八(さかり)句碑 [昭和37年6月設置] 北九州川柳育ての親として知られる上野十七八氏は、八幡に生まれ育ち、昭和17年から30年まで、「川柳くろがね吟社」の会長を務めました。 「夜の眺めも昼の眺めも大八幡」 |
石橋陸朗句碑 [昭和50年5月設置] 石橋陸朗は、明治44年柳川に生まれ、昭和30年から41年まで、「川柳くろがね吟社」の会長を務めました。 「巣立つ子の夢へ 八幡の空は炎へ」 ※八幡は、九州川柳発祥の地と言われています。 |
「兎と蛙の乗ったケンタウルス鉄鋼モーターサイクル」 鉄鋼彫刻 6.6×3.7×6.7m 26トン [平成6年設置] 世界で挑戦するカリスマ・アーティスト篠原有司男氏は、昭和7年東京に生まれ、絵画や彫刻の既成概念を越える作品を次々に発表、また絵具を含ませたボクシング・グローブで描く「ボクシング・ペインティング」は、テレビCMにもなりました。 |
八幡西区の工場で製作中の同作品 |
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13 熊本地蔵(八幡東区山王一丁目1-7付近) | ||
戸畑バイパスの下にひっそりと佇むお地蔵さん、しかし、今でも毎日のお供え等地元の方々のお祈りの場となっております。 ※ 熊本山 現在、高炉台公園として市民の憩いや、スポーツの場として親しまれておりますが、以前は熊本山と呼ばれておりました。 |
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お堂の横に祀られた墓碑 左側は、通称折尾石と呼ばれている軟質の砂岩で造られているため、風化が激しく判別不能ですが、右側は子供の墓碑で、寛政二年(1790)に造られたことが判ります。 |
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14 岡東小学校 | ||
明治11年、尾倉・大蔵・枝光の村が各々の小学校を併せて長崎街道沿いの東田六本松に校舎を設置しました。 尾倉村は、明治7年祇園原校を設立 大蔵村は、明治7年大蔵校を設立 枝光村は、明治7年枝光校を設立 明治35年、八幡小学校の現在地に校舎を移転するまで使われていました。その後、この建物は八幡警察署として使用されていました。 |
明治32年頃の校舎 |
学校配置図 |
15 八幡小学校 | ||
明治11年、岡東小学校として開校 明治19年、尾倉小学校簡易科と改称 明治34年、八幡尋常小学校と改称 明治35年、現在地に校舎を移転 昭和10年、 鉄筋コンクリート造3階建の新校舎落成 昭和16年、八幡国民第一学校と改称 昭和20年、八幡大空襲により煉瓦建1棟、講堂など焼失 昭和22年、八幡市立八幡小学校と改称し給食を開始 |
大正3年頃の校舎 |
大正2年の卒業写真 |
16 八幡警察署 | ||
明治39年9月、八幡警察分署設置(町役場の一部を庁舎に充てる) 明治39年12月、八幡警察署に昇格 明治44年2月、新庁舎竣工(通町六丁目) 大正6年1月、火災により焼失 大正7年12月、庁舎新築 昭和10年1月、 白仁町に新築着手昭和11年1月、庁舎竣工により移転 |
大正7年新築の庁舎 |
昭和11年新築の庁舎 |
17 福岡県内で二番目に設置された信号機 | ||
福岡県で最初に交通信号機が設置されたのは、昭和9年5月23日、福岡市の天神交差点です。そして、翌10年6月1日に、八幡市の中央区交差点に二番目となる信号機が設置されました。その証が、同交差点に設置されている信号機制御ボックスに書かれたS-0002の記号です。ちなみに、日本最初の信号機は、昭和5年3月東京の日比谷交差点に設置されました。 | ||
18 防空壕(八幡市役所)の跡 | ||
八月八日大空襲手記(八幡信用金庫専務理事M氏) 水曜日晴天午前8時頃、警戒警報が発令、午前10時頃突如として敵弾の炸裂する音が耳に強く響いて来た。女子職員を市役所の防空壕へ待避させる。壕は幾条にも分かれて広く、深く、出入口は四箇所もあった。壕内本部に市長であり信用組合長であった内田隆も居た。午後5時半頃、枝光方面の煙はまだ収まっていなかったが、空は本来の快晴に戻っていた。 手記にある防空壕は全長約150mで、幅及び高さは2.4mあったと言われています。入口4箇所の内、現在残っているのは入口1と入口4の2箇所です。なお、両方とも入口は塞がれています。 |
入口1 |
入口4 |
防空壕の平面図 |
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19 市民広場 | ||
現在レインボープラザが建っている場所には、野外ステージ等の市民広場がありました。そして、戦前には演劇や講演会等幅広く使われていた「旭座」がありました。旭座は、明治42年頃に設置され、若き日の田中絹代、滝沢修、水の江滝子等も出演していました。その後、東宝直営館として買収され、映画館に建替えられました。 | 市民広場の様子 |
旭座の平面図 |
20 丸物百貨店 | ||
昭和7年10月、株式会社九州百貨店(通称:マルキュウ)が中央区の交差点に面して開業しました。小倉の井筒屋は、4年後の昭和11年10月に開業しており、当時の八幡の繁栄振りを伺い知ることが出来ます。 戦災で焼失後、昭和29年「八幡丸物」として開業、昭和38年建物を移転したものの昭和46年に閉店しました。 |
昭和3年頃のマルキュウ |
昭和37年頃のマルブツ |
21 北九州スペースタワー | ||
平成4年、官営八幡製鐵所創業100年と北九州市制30周年を記念するモニュメントを、東田地区の拠点施設として建設することが検討 された。高さは、世界一にするため政令指定都市にな
った1963年4月を記念して634m、基礎の平面形は隣接するスペ ースワールド等から宇宙都市としてのイメージの五角形の星型とし、基本構想が作成された。しかし、建設・運営費の捻出や
皿倉山からの眺望と変わらないため、夢のタワーになりまし たが、20年後の平成24年5月22日東京スカイツリーとして634mの世界一のタワーは、同じ設計会社によって実現されました。 |
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参考文献等 | ||
八幡市史 復刻版 昭和49年5月17日発行 名著出版 北九州市概要 1963年発行 北九州市 北九州の史跡探訪 昭和61年1月15日発行 北九州史跡同好会 北九州の史跡探訪 平成2年9月1日発行 北九州史跡同好会 八幡製鐵所の百年 世紀をこえて 平成13年11月18日発行 新日本製鉄株式会社八幡製鐵所 九州鐵道小誌-赤れんがで築かれた鉄道の話- 昭和51年12月10日発行 出口隆 八幡商工会議所全史 昭和40年10月1日発行 八幡商工会議所 |