若松区渡し場周辺地区
2003年12月3日開設
1 洲口番所跡 7-2 旧三菱合資ビル
2 旧古河砿業ビル 7-3 石炭会館
3 恵比寿神社 7-4 杤木ビル
4 旧ごんぞう小屋 8 善念寺
5 厳島神 9 林芙美子住宅跡
6 吉祥禅寺 -
7-1 旧麻生鉱業ビル -
1 洲口番所跡
 洲口番所は、船着番所とか船改番所ともいい、洞海湾に出入りする船や、人物を監視する目的で正徳年間(1711〜1716年)に、設置されました。
 その後、寛延4年(1751年)に若松代官が廃止されてから、黒崎代官の管轄となり、明治4年(1871年)に廃止されました。
2 旧古河砿業若松支店
 旧古河砿業若松支店は、大正7年の建築で煉瓦造二階建の建物です。平面は、両横の道路と前面道路の交差角度に合わせて隅が鋭角で、その隅に三階部分まで伸びた塔が造られており、堂々とした風格が感じられます。建物の、海岸通り側ともう一方の道路側の中央部に玄関があります。
 デザインはレンガの柱型と、その間の窓を抱き込む石の部分が垂直の線を強調し、全体の形を作っています。細部もルネサンス様式を基調にしており、現在若松に残された近代建築の中では最も華やかな外観をもっています。
3 若松恵比寿神社
祭神 事代主命 大国主神 大山昨神
由緒 仲哀天皇が、神功皇后とこの地に入った時、武内宿禰が洞海の海底を漁師に調べさせたところ、光輝く石を抱いて上がってきたので、天皇はその霊石を手にとって「これは事代主神が、我が船旅を守り給う御心のしるしならん」と喜んだので、武内宿禰が近くの浜辺に祠を建ててまつったのが鎮座の由来となっています。

※また、その折「海原のそうめいたる、松の青々たる、我が心も若し」と祝言したのが、若松の地名の起源と伝えられています。

※右の写真は、元治元年(1864年)、若松の砲台建設に協力した力士隊が寄進した力石。
方位石(北九州市有形民俗文化財)

三段の台座の上に、東西南北と十二支を刻んだ方位石で、江戸時代後期奉納のものと推定され、当時の庶民生活を知る貴重な資料です。

※文久9年(1812年)7月24日、若松及び芦屋地区の沿岸を実測するにあたり、伊能忠敬が測量事業の成功を祈願して奉納したとも云われている。
石鳥居

 慶長12年(1607年)、三宅若狭ノ守家義が藩主の命によって奉納した鳥居は、天保初期の暴風により倒壊したため、天保5年(1834年)、藩命により福岡博多をはじめ遠賀、鞍手、嘉麻、穂波、宗像などの大庄屋が協力して再建した鳥居です。
石灯籠

中の写真は、天明7年(1787年)、飯塚屋幾次らによって寄進されたものです。

右の写真は、享和3年(1803年)、万屋万次郎らによって寄進されたものです。
                           狛犬

 弘化3年(1846年)、庄屋松井一内らによって寄進されたものです。
石鳥居

 安永9年(1780年)、船手支配安川慶治が寄進したものです。(貝原益軒撰禎、亀井昭陽書の銘文が刻まれている。)
常夜燈

 天保8年(1837年)、御登米積廻船中より海上安全祈願のため、寄進されたものです。
4 旧ごんぞう小屋と弁財天上陸場
 かつて日本一の石炭積出基地として隆盛を極めた若松、その石炭荷役には、陸仲士と沖仲士の2種類ありました。貯炭場の石炭を艀に積みおろすまでの海岸荷役をおこなったのが陸仲士。艀船から本船に積み込む、海上労働をおこなったのが沖仲士。北九州では、沖仲士のことを、「ごんぞう」あるいは「ごんぞ」と呼びました。「ごんぞう」の語源は、昔、布で編んだ草鞋のことを「ごんず」といい、それを履いていたことから転化したという説、「ごんぞう」という腕力の強い人気者の名前からでた説などがありはっきりしていません。『旧ごんぞう小屋』は、かつて当地にあった彼らの詰所を模して、北九州における産業の近代化を底辺で支えた人々の足跡を、後世に語り継ぐため整備されました。
 下の写真は、荷揚場の一つであった「弁財天上陸場」を、復元整備したものです。  
5 厳島神社
祭神 市杵島姫命
由緒 貞享2年(1685年)、洞海湾の守護神に宗像郡玄海村に鎮座する市杵島姫命の分霊を祀ったのが起源とされ、交通の神として漁師や船乗り達の参詣で賑わっていました。
6 吉祥禅寺、恵比寿の神の祠
曹洞宗
創立は、黒田長政の家臣梶原景次で、開山は浦雲と云われています。


 右の写真は、麻生一族が支配していた頃、小次郎と云う漁師が、海底より取り上げた石を、恵比寿の神として祀った祠と云われ境内にあります。
7 レトロなビル
1 旧麻生鑛業は、大正末か昭和初期に建設されたもので、象徴性を高めるため3本の櫛のような飾りが空にそびえています。

2 三菱合資若松支店は、大正2年の建設。現在は玄関部の増築と最上階部の改造が行われ左右同じ形をしていますが、当時は兜型の庇のついた玄関で、正面右側の塔屋がアクセントを付けていました。また、材料はドイツから輸入された煉瓦を使用したといわれています。

3 石炭会館は、石炭積み出し港若松の歴史を象徴する木造二階建ての建物で、明治38年に建設されました。外装はモルタル塗りで、様式建築の規範に従って、左右対称の造りとなっており、一対の円柱がこの効果を高めています。

4 杤木ビルは、幅より高さが高い建物で大正九年、造船と船舶代理業を行う杤木商事の本社として建設されました。当時では珍しい鉄筋コンクリート造。埋め立て地でありながら半地下室に事務室があり、完成当初から自家用浄化槽を備え、水洗便所を設備。外観は一階が石張り、二〜三階が小口タイル張り、最上部のパラペットがモルタル塗り。装飾的な部分は、三つの菱形をアレンジした壁面と円形の玄関回り、最上階の庇状のところに付けられたライオンの彫刻等が、特徴でした。
1 旧麻生鉱業ビル 2 旧三菱合資若松支店ビル
3 石炭会館 4 杤木ビル
8 善念寺、地蔵尊、三宅若狭家義の墓
浄土宗
 鎮西上人の弟子で浄土宗三世良忠が、四十八願になぞらえて四十八か寺建立の誓願をたて、嘉禎3年(1237年)この地を、仏縁の地として念仏草庵を結んだことに由来しています。

 右の地蔵尊は、享保4年(1719年)、石井正五郎重勝によって寄進されたもので、境内でもひと際大きく威容を誇っています。
 右2枚の写真は、 黒田二十四騎の一人で、若松城主であった三宅若狭家義の墓で、境内にあります。
 三宅若狭家義は、播州三宅村の出身で元和9年(1623年)に72歳で亡くなりました。
9 林芙美子住宅跡
 林芙美子は、明治40年から3年若松で過ごしていますが、その住居があったのが「オーモリ時計店」と云われています。芙美子4歳から6歳の幼少期、まだ砂浜のあった海岸で貝拾いなどをして遊んだと云われています。
参考文献等
北九州市史 近代・現代 教育文化 昭和61年12月10日発行 北九州市
北九州の史跡探訪 昭和61年1月15日発行 北九州史跡同好会
北九州の史跡探訪 平成2年9月1日発行 北九州史跡同好会
北九州市の建築 平成元年9月30日発行 北九州市
若松恵比寿神社一千年史 
林芙美子 実説「放浪記」