若松区宮前・深町周辺地区
2005年8月15日開設
1 小田山古墳群
2 朝鮮人遭難慰霊碑
3 島村ギンの墓
4 小石日吉神社
5 五輪塔
6 小石観音寺
7 東林寺
8 軍艦防波堤
1 小田山古墳群


 響灘を見下ろす標高35m〜55mの丘陵斜面に、造られた13基の横穴式石室古墳群で、大正時代までは50数基あったと言われていますが、周辺の宅地開発によって失われました。現在は、古墳公園として墳丘や散策路など整備されています。また、昭和46年に市の文化財に指定されています。

 この古墳群は、いずれも円墳で、石室は遺体を納めた玄室(玄室)とそれに通じる羨道(せんどう)からなっており、各古墳とも数回にわたって遺体が埋葬されております。また、出土品としては、須恵器、土師器、碧玉製管玉、金環、ガラス玉等が発見されています。これらのことから、この古墳群は6世紀後半に造られたと考えられています。






 また、この古墳群は、響灘を漁業の場所とし、古来海人とした活躍した人々が築いた「響灘海域文化圏」に位置づけられ、この地域には「城ノ崎古墳群」「こうしんのう古墳群」等の古墳群があります。
1号墳の外観と内部
2号墳の外観と石室入口
4号墳の外観と石室の構造石内部
5号墳の外観 6号墳の外観
7号墳の外観と内部
8号墳の外観と内部
9号墳の外観と石室入口
2 朝鮮人遭難者慰霊の碑
 明治43年(1910年)、日本は「韓国併合に関する条約」を発効させて、朝鮮半島を植民地にしました。この条約により、土地や生活基盤を奪われ、日本への移住を余儀なくさせられた多くの朝鮮の人々がいました。また、第二次大戦中は、日本へ強制的に連れて来られ、工場や炭坑などで過酷な労働を強いられた人も少なくありませんでした。このため、昭和20年8月15日の終戦により、解放され多くの朝鮮の人々は、先を争うようにして祖国へ帰郷していきました。そのようななか、昭和20年9月17日折りからの枕崎台風に遭遇し、若松沖で遭難した人々がいました。海岸に打ち上げられた遺体は、地元の住民によって小田山霊園の一角に埋葬されましたが、その場所はつい最近まで荒れたままで放置されていました。その後、1981年から取り組まれた市民運動によって、1990年12月北九州市によって慰霊碑が建てられました。
3 島村ギン(どてら婆さん)の墓
 火野葦平の小説「女侠一代」のモデルとなった、西村ノブさんの墓が、小田山霊園内にあります。ノブさんの生涯は、小説の中で多少のフィクションもまじえて「島村ギン」という名で描かれています。彼女は、夏冬通しの薄いどてらを着込んで、日本髪を結い、駒下駄を履き、いつも二三人の若い衆を連れて歩いていたと云われています。また、婆さんと呼ばれていますが、明治44年に50歳で亡くなっていることから、畏敬の念が込められた愛称だったのでしょう。それは、筑豊興業鉄道(現JR筑豊本線)開通工事などに作業員を入れた功績で、鉄道院総裁から表彰を受けていることからも伺えます。
4 小石日吉神社
祭神 大山昨神
    大物主神
  
由緒 小石総鎮の氏神として元文2年(1737年)、若松村の氏神日吉神社(恵比須神社)から勧請し、創建されました。その後、明治5年に村社に列格し、昭和15年には神饌幣帛供進神に指定されました。また、天保2年、庄屋高崎正三郎によって境内地が寄進されています。


5 五輪塔
 中畑町の延命地蔵尊脇に、祀られている五輪塔
6 小石観音寺と五輪塔群
真言宗醍醐派
創立は、寿永年間(1182〜1185年)平家一門の追福の為、一部将が現在地の西南、響灘に面する高台にお堂「聖徳庵」に開基するといわれています。
また、小石観音寺は海上安全の信仰を集め、舟人の要請により響灘を背にする現在地に移転し、「頼まれ観音」として多くの人々の崇敬を集めています。
 本堂へ通じる脇参道沿いに一石五輪塔など数基の五輪塔が集められています。
 また、本堂脇のお堂の中に板碑が大切に祀られています。
7 東林寺
高野山真言宗
創立は、江戸時代で、地蔵菩薩が安置され島郷四国霊場第54番札所にもなっています。
8 軍艦防波堤
 響灘埋立地の一角に「軍艦防波堤」と呼ばれている防波堤があります。旧日本海軍の艦艇を利用して作られたことから、こう呼ばれています。昭和23年、上部構造物を撤去され3隻の駆逐艦は、洞海湾を響灘の荒波から守る防波堤として沈設されました。
 沈設当初は、3隻とも喫水線から上の船体が見えていましたが、現在では「柳」の船体の一部しか見ることができません。これは、船体鋼材が泥棒によって持ち去られたことや、潮の腐食、台風によるもので、昭和37年には「冬月」「涼月」の2隻はコンクリートによって完全に被覆され護岸の中に埋没してしまいました。

「柳」は、大正6年(1917年)に佐世保工廠で進水した初代の船で、第一次世界大戦では、日英同盟に基づいて僚艦7隻とともに日本海軍で初めて、地中海でドイツの潜水艇と戦闘を行った歴史的な艦船です。昭和15年(1940年)に現役を退いた後、佐世保で係留され、旧制中学の軍事教練に利用されていました。
なお、「柳」の二代目は、昭和20年津軽海峡において攻撃を受け、大湊港外の海岸に擱座し終戦を迎え、大湊に於いて解体されたそうです。

「冬月」、「涼月」は、戦艦大和の沖縄特攻作戦に直衛艦として出撃し、奇跡的に生還した駆逐艦です。

「冬月」は、昭和19年(1944年)秋月型駆逐艦の同型の7番艦として、舞鶴工廠で建造された最新鋭防空駆逐艦で、排水量は3500dです。昭和20年4月6日、菊水一号作戦に戦艦「大和」の護衛で参加し、2発のロケット弾や、5本以上の魚雷攻撃を受けましたが、何れも不発や艦底通過と言う幸運により、無事佐世保に帰還しました。生還後は、門司港で対空砲台となり殆ど無傷で終戦を迎えましたが、港内で機雷に接触し航行不能になってしまいました。

「涼月」は、昭和17年(1942年)秋月型駆逐艦の同型の4番艦として三菱長崎造船所で建造されました。昭和20年4月菊水一号作戦では、大空襲によって艦体の前半分を破壊され操艦不能に陥るが、超低速で後進し続け佐世保に帰還を成し遂げ、佐世保にその身をおいていました。

 右の写真のとおり、現状は内部にコンクリートが充填されていますが、戦闘艦艇の船体構造がよく観察出来るようになっています。戦闘艦艇は、少々の攻撃を受けても持ちこたえる事が要求される為、厚い鉄板とか、隔壁数が多いとか、フレーム数が多いとかいったものです。こうした設計によって、弾や魚雷が当たっても、その部分だけの破損で、他への被害が食止められるようになっています。
参考文献等
北九州市史 近代・現代 教育文化 昭和61年12月10日発行 北九州市
北九州市史 総論・先史・原史 昭和60年12月10日発行 北九州市
北九州の史跡探訪 昭和61年1月15日発行 北九州史跡同好会
北九州の史跡探訪 平成2年9月1日発行 北九州史跡同好会