若松区畠田・二島・藤木地区
2006年7月30日開設
1 狩屋の地蔵
2 水上観音寺
3 田神社
4 二児島      
5 芭蕉碑
6 日吉神社
7 猿田彦
8 紅影の池
9 六地蔵
10 徳雲寺
11 梵鐘
12 島郷24番札所
13 島郷23番札所
14 白山神社古宮
15 白山神社
16 石峰山
17 烽火台
18 花房山城
 
 
1 狩屋の地蔵
 応永27年(1420年)、花房山城主麻生上総介家見は、大内義弘の命を受けた畑城主香月備前守盛経に攻められ、攻防空しく落ち延びることになり、夜陰に紛れて姫や侍女等の一隊と二手に分かれて城を後にしました。しかし、か弱い姫の一行が、城の麓、畠田の狩屋に着いた時は夜明け前だったため、昼間の追っ手を避けるため、姫は一軒の農家にかくまわれることとなりました。姫は納屋の片隅に置かれた桶の中に身を隠していましたが、追っ手の探索によって桶の隙間から出ていた着物の裾が見つかり捕まってしまいました。そして、狩屋川の辺りで最期を遂げました。また、同行した侍女たちも、このことを知り自刃して姫と運命を共にしたといわれています。
 その後、里人たちは、死者を手厚く弔うと共に地蔵様を祀り霊を慰めました。


 地蔵堂に周囲には、五輪塔が2基と石像仏が置かれています。
 
五輪塔
製作年の所で破損した石仏 狩屋から花房山城を望む
2 水上観音寺
高野山真言宗

本尊 馬頭観音菩薩

由緒 不明

 島郷四国第38番礼所で、北九州西国第29番礼所にもなっています。
 境内に、一石五輪塔が2基大切に祀られていました。ただし、1基は、空輪が欠落したため、後で少し大きな別の空輪をセメントでつないで補修しているがバランスが取れていませんでした。
 その他、文久3年(1863年)銘の手水鉢や板碑がありました。
境内と本堂 五輪塔
手水鉢 板碑
3 田神社
祭神 御歳神
    
由緒 不詳

 鳥居のある新しい参道とは、別に石段の古い参道が残っていましたが、現在は通行不能の状態でした。この神社は農業の神様で、二島地区で盛んに農業が営まれていたことをしめしており、昔はこの社地のまわりの土を田畑に蒔くと虫が憑かない云われていました。
 境内には、天保13年(1842年)に建立された手水鉢がありました。

 
旧参道 現在の参道
本殿 天保13年建立の手水鉢
4 二児島
 現在は、埋め立てとその後の削平によって全く面影すらありませんが、昭和31年頃までは、中の写真のとおり二児島(本島と沖島) がありました。そして、昭和32年日炭高松二島鉱業の貯炭場建設に伴い姿を消しました。
 また、土地の伝承に二児島の由来が「昔、童子丸に鬼が荷物を天秤に担いでやって来たところ、その天秤棒が二つに折れて、前の荷物は洞海湾に落ちて二児島に、後の荷物は小石海岸に飛んで赤石になりました。」と云われています。
5 芭蕉碑
 払川の医者千々和由太が、安政3年(1856年)に建てた松尾芭蕉の句碑で、句は晩年の元禄6年(1693年)に詠んだ「一声の江に横たふやほととぎす」です。
6 日吉神社
祭神 大山昨神
    大物主神
    須佐之男命

例祭 10月18日    

由緒 詳細は不明ですが二島地区は、もと太宰府観世音寺の所領で、その鎮守である日吉山王権現の神事には、この二島庄から供料等を納めていたと云われています。このことから、山王権現をこの地に、勧請したのが始まりと考えられます。また、始めは、現在の社から西北、日吉尾(ヒエノオ)という所にあったと云われています。その後、麻生氏がこの地を所領としていた時、社領として田三町三反を寄付したため隆盛を極めていましたが、豊臣秀吉の九州平定の際、社領は全て没収され、一時衰退しました。その後、黒田長政が筑前国に入国したのを機会に再興され、島郷三大社の1つとして24ケ村の祈願所となり隆盛しましたが、明治維新後は、二島村だけの氏神となってしまいました。


 境内には、天保9年(1838年)銘と安政4年(1857年)銘が彫られた灯篭、そして元禄15年(1702年)の寄進年が彫られた神門(鳥居)があります。 
燈籠@ 燈籠A
神門と刻まれた鳥居 左の鳥居の銘文
7 猿田彦等
 日吉神社の境内に猿田彦大神等が集められ、大切に祀られていました。
@猿田彦大神
  嘉永4年(1851年)に建立されたものです。
A塩土老翁神
  天明3年(1783年)に建立されたものです。
 ※航海を守護する神であり、製塩技術を伝えた神さまとしても有名です。
B式日燈
  明治34年(1901年)に建立されたものです。
C猿田彦大神
  石面の一部が欠損しているため、建立年が不明。
祀られている5基の猿田彦大神等 @猿田彦大神
A塩土老翁神 B式日燈 C猿田彦大神
8 紅影の池
 仲哀天皇が熊襲征伐のため、神功皇后と共に筑紫の崗(おか)の水門(みなと)[現在の芦屋町]に向かった時、皇后は別の船で洞の海(洞海湾)に入り、途中二児島に立寄り休憩をとりました。この時、里人は皇后をこの池に案内したところ、手を洗おうとした皇后のほほ紅まで水面に映ったため、後に紅影の池と呼ぶようになったと云われています。以前は、日吉神社の神饌は、必ずこの清水で炊かれたと言われています。 また、安産祈願や病気治癒にも、この清水はご利益があったと言われています。 
9 六地蔵
 道路の辻脇に建つ、名も無きお堂ですが、中には石灰岩質の六角の石の六面に地蔵さんが、浮き彫りに刻まれた六地蔵と笠石が大切に祀られていました。
10 徳雲寺
浄土宗鎮西派

本尊 阿弥陀如来立像

由緒 創建は、慶長9年(1604年)で、道公(黒崎の麻生氏と云われている)が開山したと云われています。また、八幡西区穴生の弘善寺の末寺となっています。さらに、本尊は、昔この村に恵眼寺と言う寺がありましたが、廃寺となったおり、この寺に移されたと云われています。


 境内に、天保7年(1836年)建立の宝篋印塔、文政11年(1828年)製作の宝篋印塔、文久元年( 1861年建立の南無阿弥陀仏の石碑等がありました。
宝篋印塔 宝篋印塔
11 梵鐘
 この梵鐘は、永享2年(1430年)に麻生家見(麻生氏第11代)が、鋳工・道仙に造らせ二島庄・聯芳山総善禅寺に寄進したものです。総善禅寺は、この鐘に記されているだけで他に資料が無く由緒等まったく不明です。鐘は、その後宝永2年(1705年)に日吉神社に移り、明治維新の頃、現在の徳雲寺に移されたと云われています。
 鋳工・道仙の経歴が不明の為、何処で鋳造されたのかは明確ではありませんが、竜頭の作風等から小倉鋳物師の技法と特徴が似ている為、小倉かその系統で造られたと考えられています。
 なお、昭和53年3月に市の有形文化財(工芸品)に指定されています。
12 島郷四国24番札所と板碑
 島郷四国霊場の第242番札所となっている御堂。
 境内には、一石五輪塔が2基と板碑がありました。五輪塔のうち1基は、平面が楕円形や長方形を呈しており、今のところ市内では折尾地区に類例が1基あるのみです。
 板碑は、上部に梵字、下部に二体の地蔵尊、そして磨耗が著しく判読が困難ですが左右に「長禄四年□□□三月日」「□□□信」と刻まれています。長禄4年は、室町時代の1460年で、市内でも最古級の板碑です。なお、福岡藩士青柳種信が文化5年(1808年)に書いた文献の中に、「藤木村庄屋の西隣今光観音堂の前、老松の下に長禄四年庚辰年三月日と刻まれた石仏あり」とこの板碑のことが記載されています。

 また、境内入口には、御堂の場所を示す石造りの道標が建っています。
御堂の円形と道標の石柱 板碑と五輪塔
板碑 五輪塔
13 島郷四国23番札所
 島郷四国霊場の第23番札所となっている御堂。
 境内に宝篋印塔の笠と基礎と思われる石等がありました。
14 白山神社古宮
 下の15番白山神社を、加賀の国から勧請し、女体権現として祀っていた場所で古宮と言われています。説明板によると、「後に花房城主麻生氏の奉祀もあったが、室町時代の終わり頃社殿が荒果てていたのを憂いた村人が社殿を再建したが、寛永5年社を赤島に遷した。また、社の下に水田池があって水の涸れる事無く御手洗池と云っていたが、今は消滅した。」と書かれていました。
15 白山神社
祭神 伊邪那美神
    菊理姫命
    事解男命
    須佐之男神
例祭 7月10日〜11日 祇園祭
    10月17日〜18日 秋祭り
由緒 霊亀2年(716年)、加賀国石川郡から白山女体権現を藤木村の西、神元の地に勧請し、その後寛永5年(1628年)に松崎山の現在地へ遷したと云われています。また、神殿は正徳3年(1713年)に改築されたものと云われています。 なお、社伝には花房山城主麻生遠江守が白山大神を小竹邑、日吉大神を二島郷に勧請、また風土記には麻生兵部大輔、宇都宮の白山権現を勧請したとも記載されています。しかし、もともとこの二島郷は、山鹿麻生氏の領地でしたが、「遠江守」「兵部大輔」の名前は出てこないため、これらの記載は疑わしいものとされています。

 鳥居は、宝永3年(1706年)、藤木邑の産子が寄進したとあります。なお、鳥居は、神門と刻まれています。

 石灯篭は、天保3年(1832年)に寄進されたものです。

 その他、文化8年(1825年)に農長副田大八郎が寄付し、副田二三太が嘉永2年(1849年)に再興した絵が拝殿に掲げられていました。
参道 拝殿と本殿
神門と刻まれた鳥居 左の鳥居の銘文
燈籠@ 燈籠A
嘉永2年に再興した絵 石柱 庚申塔
16 石峰山頂と軍施設跡
 石峰山は、標高302mで若松区では一番高い山です。山頂からの展望はすばらしく、北側には日本海がひらけ、六連島、藍島、馬島、白島や若松北海岸が見渡せ、南側は、洞海湾や皿倉山系の山々などが眺められます。


 山頂から一段下の北側には、石峰神社の上宮があります。
祭神 宇賀魂神
例祭 10月12日
由緒 宝暦5年(1755年)清原氏が建立したと云われています。


 
 山頂は、第二次世界大戦中の昭和16年(1941年)八幡地区の防空陣地を設置するため、平坦に造成されています。特に北側は石垣が築かれ山頂の平坦地を確保しています。また、更に北側斜面の数箇所で平坦地を造り北側に高さ約1mの土塁を廻らせ中に兵舎等の建物を配していたようです。現在は、建物の基礎部分が残っています。なお、ここには高射第4連隊が配置されていました。また、実際の高射砲はここから南西側約600mの烽火台(下の16番)に設置されていたようです。それでは、山頂には何も無かったのでしょうか。今後の課題です。それから、山頂の東側から先ほどの烽火山頂まで、約700mの尾根の随所に軍施設の建物跡を見出すことができ、当時はかなりの規模で、この陣地が守備されていたことがうかがえられます。
山頂 石峰神社上宮
山頂北側の石垣@ 山頂北側の石垣A
山頂北側斜面の土塁@ 左の土塁内の建物基礎
山頂北側斜面の土塁A 左の土塁内の建物基礎
17 烽火台と高射砲陣地跡
烽火台
 長崎奉行は、文化5年(1808年)ロシア船の接近に備え、急報の手段として烽火台の準備を黒田、鍋島の両藩主に命じました。福岡藩では、佐賀藩からの烽火を、御笠郡の天山で受け、四王寺山からしょうけ越え、龍王岳から六が岳、そして石峰山の順に烽火を繋ぎ、豊前小倉藩の霧が岳に伝えることにしました。そして、翌文化6年1月実験に成功したため、この6箇所に烽火台設置を開始し10月に完成しました。当初は、藩士が輪番で6箇所の烽火台に勤務していましたが、文化9年(1812)になると、南端の天山と北端の石峰との2箇所に「烽火場定番」各1名常駐させました。石峰山の定番
には、長冨藤右衛門が、「烽火場小使」4人とともに配置されていました。しかし、この烽火は、結局何の役にも立たず文化13年5月に廃止されました。
 烽火台は、第二次世界大戦中の昭和16年(1941年)高射砲を設置するため平坦に造成され、跡形もなくなっています。




高射砲陣地
 弾薬置場と思われるコンクリート製の建物が4箇所残っています。これらは、半地下状に構築され、その上を土で覆っています。また、置場の前には、高射砲の台座と思われる円形のコンクリート基礎が顔をのぞかせています。
石峰山頂から烽火台を望む 烽火台があった山頂
弾薬置場1 弾薬置場2
弾薬置場3 弾薬置場4の遠景
弾薬置場4 弾薬置場4の前の台座
18 岩尾山頂と花房山城
 標高230mの岩尾山の頂にあり、南北に伸びる尾根を、堀切で区切り平坦な本郭を築き東南と北側に土塁を廻らしています。本郭の周りは横堀を廻らし、竪堀を築いています。
 詳細は、花房山城のコーナーへ。
城主については、諸説あり。
[続風土記]
 城主知れずとあり。
[福岡県地理全誌]
 麻生遠江守の居城とあり。
[増補改訂 遠賀郡誌]
 山鹿遠江守仲中の居城か、麻生上総介家見の居城ならむかとあり。
烽火台山頂から岩尾山を望む 本城海岸から岩尾山を望む
参考文献等
北九州の史跡探訪 昭和61年1月15日発行 北九州史跡同好会
北九州の史跡探訪 平成2年9月1日発行 北九州史跡同好会
北九州市史 近代・現代・教育文化 昭和61年12月10日発行 北九州市
増補改訂 遠賀郡誌 下巻 昭和37年9月10日発行 遠賀郡誌復刊刊行会
おもしろ地名 北九州事典 1991年7月10日発行 小倉タイムス
北九州の戦争遺跡 2006年4月24日発行 北九州平和資料館をつくる会編