戸畑区中原地区
2004年12月6日開設
2004年12月13日更新
1 中原八幡宮 3 中原控石 新着      
2 九州工業大学
1 中原八幡宮
祭神 応神天皇
    神功皇后
    比売大神
    須佐之男命
    高レイ命
由緒 この地は、筑前国の鬼門に当たり、その鎮護のため、天正7年(1579年)枝光八幡宮を勧請し創建したとあります。本殿は、安政6年(1859年)に造営されたものです。




孝子森惣市の碑
惣市は、陰陽師森家の出身で中原の人です。元禄11年(1698年)その孝行を認められ、福岡藩主黒田綱政から新田を3反与えられました。この碑は、その孝行ぶりを称えて明治30年に建てられたものです。もともとは、九州工業大学の正門近くにありました。題字は、黒田家当主の黒田長成の書で、文は、初代福岡市長の山中立木が書かれています。


 その他、境内には、雨ごいの石等祀りの対象となっている自然石がたくさんあります。

 雨ごいの石として、以前は@の石が祀られていましたが、現在は、御手洗水鉢となって、Aの石が祀られていました。
安政6年に造営された本殿 孝子森惣市の碑
@雨ごいの石? A雨ごいの石


左の写真の右側の石に刻まれた文字
2 九州工業大学(旧明治専門学校)
 市民の間で今でも「メイセン」の名で親しまれている現九州工業大学の前身「財団和法人私立明治専門学校」が開校したのは、明治42年4月、入学志願者216人から選抜された57人が最初の入学者となりました。
 この学校は筑豊御三家といわれた地元実業家の一人「安川敬一郎」と二男の「松本健次郎」が、私財330百万円と26万平方bの敷地を投じて設立しました。
 学校名は、当初「安川工業専門学校」の案もありましたが、個人名をつけることや、将来の総合大学への発展も考えて、年号の「明治」をつけ「工業」をはずし名称が決定されました。
 また、学校の特徴は、専門学校の修業期間が3年であるのに対し、あえて4年制にしたことと、全寮制にありました。
 その後、大正10年に学校は国に寄付され、現在の九州工業大学への発展としました。
 開校当初の建物は、表門にある守衛所だけです。
表門 守衛所
開学に当たった諸氏の胸像
3 中原控石(ひかえいし)
 この控石は、現在中原公民館内に移されていますが、もともと中原八幡宮の北側、境川沿いにありました。控石とは、国境石が、どこに建っているかを表すもので、寛政9年(1797年)に建てられました。

 銘文では、この控石から、「江ノ口にある一番国境石の卯(東側)の面まで15間の場所にある。但し、1間は6尺5寸縄(約2メートル)。」という意味のことが書かれています。

 なお、1966年刊行の北九州文化財調査報告書によるとこの銘文は、
   従此控石江口壹番御境石
   東外面正半迄七十二
   分當但壹間六尺五寸縄
 となっており、下線の部分が違っている。また、北九州市史によると、この控石は歴史博物館に所蔵されていると記載されています。それでは、この控石は、複製品なのでしょうか?。それにしても、何故方位と距離を変えてしまったのでしょうか?。謎が、深まる資料です。


従此控石江ノ口壹番御境石
東外面正半迄十五間卯ノ
六分當但壹間六尺五寸縄
参考文献等
豊前・筑前の国境石 北九州市文化財調査委員会調査報告1 1966年北九州市教育委員会
北九州の歴史的建造物 平成元年9月30日発行 (財)北九州都市協会
北九州市史 近代・現代・教育文化 昭和61年12月10日発行 北九州市
北九州市史 近世 平成2年12月1日発行 北九州市
北九州の史跡探訪 昭和61年1月15日発行 北九州史跡同好会