戸畑区戸畑駅北側地区
2003年9月2日開設
2004年12月22日更新
1 若山牧水の歌碑 8 中の島跡
2 御乗船地碑 9 若戸大橋
3 恵比寿神社 10 お汐井汲み場
4 東光寺の地蔵堂 11 身代地蔵尊新着
5 照養寺・小学校碑 12 築地地蔵尊新着
6 大野伴睦碑 13 明治製菓戸畑工場新着
7 日本水産ビル -
1 若山牧水の歌碑
 歌人若山牧水の弟子であった、「毛利雨一楼」が居住していた場所に、昭和2年に創られた牧水の歌碑があります。

「われみたび此処に来たりつ家のあるじ、寂び定まりて静かなるかも」

※ 若山牧水は、明治18年(1885年)、宮崎県東臼杵郡東郷村に生まれ、文学を志し早稲田大学に入学。在学中から作歌、執筆活動に入り歌集『別離』、『山桜の花』などを発表しています。
 
2 御乗船地碑
 明治33年(1900年)10月、当時の皇太子殿下(後の大正天皇)が、中原で行われた小倉十二師団の演習をご覧の後、船で八幡方面を視察された時の「乗船地」を記念して建てられた碑です。題字は、黒田13代の黒田長成の書によるものです。
3 恵比寿神社
祭神 事代主命 
由緒 創立は不明。中の島(別名かわとじま)に城があった時代、この付近は城下町として繁盛し、豪商の人達が出雲の国より勧請したと伝わっています。
4 東光寺の地蔵堂
 名護屋岬の河代浜にあった地蔵堂を、この地に移したもので、延命地蔵、お抱え地蔵などが祀られています。地蔵堂は、中の島の城主森氏によって創られたと伝えられている。
5 照養寺と戸畑小学校碑
浄土真宗本願寺派
本尊 阿弥陀仏
由緒 永正12年(1515年)、竹内治冶部という者、剃髪し了正と号しこの寺を開基しました。また、この寺は、小倉の永照寺に属しています。また、明治7年に開校した戸畑尋常小学校は、明治9年から明治23年までこの寺の門付近に校舎がありました。
6 大野伴睦碑とブロンズ像
中の写真は、若戸大橋の建設に尽力した大野伴睦氏を顕彰して、戸畑の有志が、昭和37年9月に建立した句碑です。

右の写真は、彫刻家中野素昴作のブロンズ像「大気」です。
 共に、大橋公園内にあります。
7 日本水産ビル
 この建物は、下関市から移転してきた日本水産が、遠洋漁業の基地として昭和11年に建設した鉄筋コンクリート4階建のビルです。デザインの特徴は、規則的に配列された大きなガラス窓と単純なタイル外装の壁面にあると言われています。
8 中の島跡
 中の島は、昭和14年、洞海湾を出入する船舶の大型化に伴う航路拡大の為、切除され、消滅しました。島は、周囲450メートルあり、永正年間(1504〜1520年)の頃竹内治部が城を築いた後、 慶長5年(1600年)黒田長政の時代に改築され家臣三宅若狭が城主となりましたが、元和元年(1615年)の一国一城令により廃城となりました。幕末期には、外国船に対抗する為砲台が設けられたこともありましたが、明治に入り陸軍用地から民間に払下げられ、造船所等が出来民家も60軒程あったと伝えています。
 中の写真の手前の橋脚辺りが、中の島(左の写真)があったところです。
9 若戸大橋
 3年半の歳月をかけ昭和37年(1962年)9月28日に完成した、総延長2,067メートル、吊橋部680メートルの吊橋で、完成時は東洋一とうたわれていました。
10 お汐井汲み場
 戸畑祇園の東、西、天籟寺の山笠は、この場所でお汐井汲みを行っています。お汐井汲みとは、海水で山笠台の四本柱を清め、関係者も手を清めこれから始まる祭り全般の安全を祈願する大事な行事です。
11 身代地蔵尊
 昭和29年5月、JR鹿児島本線の上に架かる幸町交差点陸橋から、多くの鉄道横死者が出ていた為、その霊を弔い今後そのような事がないようにとの願いから、地元有志によって建てられた地蔵尊です。
12 築地地蔵尊(帆柱新四国20番札所)
 昭和7年、石材商をしていた田中さんが自ら花崗岩で不動明王坐像や地蔵尊を彫って祀ったのが始まりで、今でも線香が絶えることなくお参りが続いています。
13 明治製菓戸畑工場
 昭和11年に、建てられた鉄筋コンクリート造4階建ての建物でしたが、惜しくも昨年壊されました。昭和初期は、様式建築の模倣から抜け出し、現代建築にも通じる意匠によって建てられており、唯一昭和初期を感じさせるのが塔屋部に設置された丸窓です。設計は、アメリカで建築を学び、戦後は戦災復興院の総裁を務めた阿部美樹志です。
参考文献等
戸畑市史 復刻版 昭和47年7月30日発行 名著出版
北九州の史跡探訪 昭和61年1月15日発行 北九州史跡同好会
北九州の史跡探訪 平成2年9月1日発行 北九州史跡同好会
北九州市の建築 平成元年9月30日発行 北九州市