門司区田野浦・周辺(清見・谷町・吉野町・白野江)地区
2007年12月31日開設
1 食糧倉庫 2 春日神社 3 真楽寺 4 薗辺社
5 天神社 6 聖山公園 7 田野浦町並み 8 田野浦旧海岸
9 住吉神社 10 貴布禰神社 11 太刀の池 12 佐夜姫の墓
13 佐夜峠のお堂 14 佐夜峠 15 五輪塔1 16 五輪塔2 
17 五輪塔2 18 正蓮寺 19 殉職消防組員碑 20 抱え地蔵
21 東明寺城 22 本正寺 23 白鑑寺跡 24 鉱口跡?
25 地蔵の森 26 大久保住吉神社 27 桜峠 28 桜トンネル
田野浦の歴史
 田野浦は、関門海峡での風待ち、潮待ち、日和待ちや船たで(船底に付着した牡蠣の修理のこと)の必要から古代から重要視しされていたようです。江戸時代初期には、小さな漁村でしたが北前船の入港により繁栄し、港町に発展しました。
主な出来事等
・日本書紀に記載されている「曲浦(わたのうら)」が、田野浦のはじまりと伝えられています。
・文治元年(1185年)の源平合戦に「田ノ浦」が名前が出てきます。なお、この合戦の時、蒲ノ冠者範頼がこの田野浦に陣を置いていたと云われています。
・応永27年(1420年)3月23日から30日まで朝鮮通信使の一行が寄港。(老松堂日本行録)
・永禄4年(1561年)大友義鎮が、駐屯していたと伝えています。
寛文12年(1672年)伊勢出身の材木商人河村瑞軒が、幕命を受け西廻り航路を開発しました。
・文化6年12月13日、伊能忠敬の一行が測量する。
・天保7年、田野浦新開所へ小倉藩の上納米保管の御用蔵3軒上棟する。
  各蔵とも横三間半で、長さ十二間の大きさで上納米を保管しており、一番蔵は国産蔵、二番蔵は企救郡蔵、三番蔵は田川郡蔵と呼んでいたと伝えられています。

酒造家は、3軒あり、そのうち三原屋の生産高は540石で、企救郡最大の石高でした。このことから、遊郭等の酒の需要が多かったことが伺えます。
遊女屋は、聖山山麓の永文字屋(又は栄門司屋)、蛭子屋、勇力(新開所にあった)の3軒がありました。
鍛冶屋は、住吉神社のあって幕末には広島以西きっての船釘の製造を行っていたと伝えられています。
お茶屋は、領主の巡検時等の休息・宿泊の為設置されていました。広さは、凡そ千坪あったと伝えられています。
「明治8年の居船運上帳」に記載されている全国各地から田野浦への寄港船
船問屋名 船数 船籍地
関谷善兵衛 50 松前・江刺・南部・越後・越中・能登・加賀・阿波・秋月
三原屋為左衛門 20 越後・越中・加賀・出雲・因幡
柴屋庄三郎 34 能登・越前・周防・小倉・伊予・淡路・神戸・大阪・和泉
油屋忠兵衛 33 松前・函館・佐渡・越中・能登・加賀・若狭・但馬・石見・若松・周防・安芸・備中・伊予・阿波・大阪・尾張・伊豆
和泉屋三九郎 61 佐渡・越中・越前・丹後・石見・唐津・薩摩・日向・豊後・若松・津屋崎・秋月・福浦・大島郡・伊予・讃岐・大阪
淡路屋吉右衛門 39 越後・越前・加賀・丹後・筑前・周防・大阪
関谷幸作 40 江刺・松前・越後・越中・能登・加賀・若狭・石見・宇之島・大橋・下関・仙崎
豊後屋伊三郎 10 薩摩・周防・安芸・讃岐・伊予・遠江
長浜屋久七 12 長浜
伊倉屋四郎兵衛 2 加賀・摂津
岡田屋仁左衛門 2 門司・三田尻
柴屋源蔵 8 薩摩・苅田・下関・淡路・和泉
岡田屋八蔵 18 越前・石見・出雲・肥後・安芸・淡路・御影・大阪・駿河
1 食糧倉庫
 田野浦の岸壁に面して建ち並ぶ切妻屋根の倉庫群は、昭和2年に着工し昭和3年(1928年)に完成した旧福岡食糧事務所の門司政府倉庫ですが、現在は使用されていません。この倉庫は、大正7年(1918年)に起こった米騒動を契機に大正10年(1921年)に制定された米穀法に基づき、政府が購入した米を備蓄するために建設されました。倉庫は、約6.3メートルの間隔で計10棟あり、その総床面積は、約1万平方メートルの広大なものです。また、専用の岸壁と鉄道の引込線を備えています。
 事務所は、倉庫群の向かい側にあり昭和2年に建設された鉄筋コンクリートの建物です。玄関ポーチを備え、屋内外に数々の装飾を見ることが出来ます。
 現在この倉庫と建物は、「精霊流し」等映画撮影のロケ地として活用されています。
専用岸壁と倉庫群 専用鉄道引込線と倉庫群
大きな庇をもつ積み出し口 門司米穀倉庫事務所
2 春日神社
祭神 経津主神(ふつぬしのかみ)
    建御雷之男神(たけみかづちおのかみ)
    天児屋根命(あめのこやねのみこと)
    袴幡千々比売命
        (たくはたちぢひめ のみこと)
祭礼 九月二日
由緒 不明
 田野浦は、北前船の寄港地として栄えていたため、境内には大坂の商人から寄進された鳥居等があります。また、明治11年に千年祭りを行ったと云う話が、伝わっています。
旧海岸から 正徳3年(1713年)に
建立された鳥居
石灯篭(左中)
 文久4年(1864年)に、田野浦村在住の長田久右衛門親子によって奉献されています。
石灯篭(右)
 文化14年(1817年)に、丹後屋新四郎が奉献しています。
狛犬(中)
 天保9年(1838年)に。益田四郎誉光によって奉献されています。

石灯篭(右)
 安政元年(1854年)に、城井彦右衛門によって寄進されています。
石灯篭の脚
 安政元年(1854年)に、寄進されています。

本殿
 参詣者も少ないためか、殆ど損壊しています。
石灯篭
 寛政元年(1789年)に、三原屋久四郎が寄進しています。

鳥居
 天保2年(1831年)に、大阪の船主等によって寄進されています。
3 真楽寺
浄土真宗西山派
本尊 
由緒 不明
 小倉南区にある護念寺記録や村誌によると、大里にある西生寺の末寺で創建年号等は不詳です。初めは、聖山に草庵としてありましたが、延宝3年(1675年)西生寺によって中興されました。しかし、慶応2年(1866年)に兵火によって焼失しました。なお、光明寺の末寺との説もあります。
溺死海会塔
 宝暦12年(1762年)8月8日、肥前佐賀藩の船11艘が田ノ浦沖で大風による大波によって難破し肥前の船員32人、また操船に従事していた長門の船員21人が溺死し、この寺に葬られました。そのため、佐賀藩主が冥福を祈るため、翌年の宝暦13年に供養塔を建立しました。表には、亡くなられた方々の名前が刻まれています。
4 薗辺社と猿田彦大神
祭神 猿田毘古神
祭礼 6月27日
由緒 不明
 境内には、文化8年(1811年)に建立された猿田彦大神が一緒に祀られています。
5 天神社大明神
祭神 菅原道真
祭礼 不明
由緒 不明
 聖山の山麓に、天神社の跡があります。現在は、文政5年(1822年)に栄門司屋内真砂が寄進した鳥居や玉垣がその名残として残っています。なお、寄進銘にある栄門司屋(永文字屋)は、田野浦にあった遊女屋で境内には遊女の墓が15基ありましたが、現在は庄司町の高野山地蔵寺に移されています。また、田野浦には菅原道真が寄港したという伝説もあります。
 以前あった神殿には、文化14年(1817年)遷宮の棟札があったと記録に残っています。
 なお、この神社は栄門司屋が建てたとも云われています。
山麓の森の中にあります 文政5年寄進の鳥居
高野山地蔵寺の墓 遊女の墓
6 聖山公園
 田野浦の背後にある山で、「日尻山」とも云い山頂には 草庵の名残か石仏が現在も大切に祀られています。
 なお、山頂は、現在公園として整備されており、ここからは壇ノ浦を一目で眺めることが出来ます。 
 また、遊女たちは北前船の入港予定日になると、毎日この聖山に登り、船を見つけると鐘や太鼓で出迎え、客の争奪戦を行っていたと云われています。
7 田野浦の町並み
 田野浦は、北前船の寄港地として栄えていた港町でしたが、慶応2年(1866年)6月17日小倉藩と長州藩の戦いでは戦場になりました。奇兵隊員が、床柱などに刀傷をつけた家が残っているといわれます。

 現在でも町並みに、往時の港町の雰囲気が残っています。
8 田野浦旧海岸通り

 海岸の土堤には、櫨の木が沢山植えられていたと云われていますが、堤防が造られそして内側には道路も新設されました。現在は、その堤防も埋め立てら、海岸側に片道2車線の道路が造られとともに、工場が進出している。

9 住吉神社
祭神 底筒之男命(そこつつのをのかみ)
    中筒之男命(なかつつのをのかみ)
    上筒之男命(うわつつのをのかみ)
    息長帯毘売命
        (おきながたらしひめのみこと)
祭礼 6月29日
由緒 天保9年(1838年)、楠原村より住吉大神を勧請して創建されました。
参道の石段 本堂
石灯篭1
 天保10年(1839年)8月に、田川郡の上野助右衛門則勝、金田四郎兵衛安次、猪膝平四郎武□、伊田清兵衛蔵□、添田七左衛門政明が寄進しています。
石灯篭2
 天保10年(1839年)11月に、大庭屋次郎右衛門、高池三郎兵衛、天王寺屋太郎、高池八左衛門、餝屋六兵衛、播磨屋仁兵衛が寄進しています。
石灯篭1 石灯篭2
石灯篭3
 天保10年(1839年)仲夏に、五穀成就・武運長久・国家安寧・万民快楽を願って亀屋利兵衛満慎、綿屋勝兵衛茂行が寄進しています。

鳥居
 天保9年(1838年)に、五穀成就と武運長久を願って建立されています。
石灯篭3 天保9年
石灯篭4
 天保9年(1838年)11月に、富野次郎左衛門富享、規久田徳左衛門茂高、加藤三兵衛信大が寄進しています。

旧海岸である通りからみた神社の森。なお、社の裏山は「めばる山」と云われ、この山頂よりいわしの群れを見張っていたと云われています。
石灯篭4 神社の森
10 貴布禰神社
祭神 不明
祭礼 不明
由緒 不明
 境内に、嘉永2年(1849年)に寄進された手水鉢と、太刀浦の住民が下関の宮から持ち帰った一石・八斗・六斗等五個の力石があったと伝えられています。
11 太刀の池
 太刀浦に今でも、清水がこんこんと湧き出ている井戸(池)があります。この井戸の底は岩盤で、源平合戦の時、安徳天皇の御太刀を沈めて戦勝祈願を祈ったと言う伝説があり、これから太刀浦と云うようになったと伝えられています。また、平家の侍大将が血太刀をこの池の水で洗ったという伝説から名付けられたとも云われています。この井戸は、どんな旱魃でも枯渇することが無いことから現在も大切に使われています。 
12 佐夜姫の墓
 峠の清見側に佐夜姫の墓と云われている一石五輪塔が今でも大切に祀られています。
 佐夜姫にまつわる物語は、全国にあり九州では肥前国松浦の佐用姫が有名です。ここの佐夜姫には、どんな伝説があるのでしょうか。
13 佐夜峠お堂
 佐夜峠と名前の由来となった、さやの神が現在も大切に祀られています。
 さやの神は、さいの神とも呼ばれ金、恋、縁談等なんでも欲しいものを祈ればかなえられると云われ、大きなわらじや小旗等を供えています。また、願いが成就した時は、奉納したわらじより大きなものや、沢山のわらじを奉納しなければなりません。

庚申 塚大神
14 佐夜峠
 清見より大積へ越す峠で、さやの神を祀っていたことから佐夜峠と名付けられています。なお、この峠道から大積へ抜けると出口の谷を守るように、丸山城が築かれています。
15 五輪塔1
 清見地区には、多くの五輪塔が多く残っており、また今でも大切に祀られています。こちらは、バス停横にある小さなお堂の中に一石五輪塔が数基あります。
16 五輪塔2
 清見二丁目交差点に面する民家の塀の中に一石五輪塔等が数基祀られています。
17 五輪塔3
 清見の西隣、畑田町の墓地内にある五輪塔、こちらは水輪と火輪がバラバラになっています。
18 正蓮寺と軍馬碑
浄土真宗本願寺派
本尊 阿弥陀仏
由緒 開基明寂師は、壇ノ浦の合戦で忠死した平松勘解由判官平宗行の末裔で、楠原村にあった天台宗起福寺の仏門に入り名を慈雲と称しました。その後諸国を行脚し、名を明寂と改め、天正3年(1575年)故郷の起福寺に戻りましたが、寺は大友氏によって門司城とともに焼かれ、法師庵に仮住まいしていました。明寂は、宗旨を真宗、寺号を正蓮寺に改め復興を願いましたが、天正18年68歳で没しました。その後、六代目の時に現在地の移しました。
 境内には、文化15年に建立された石灯篭があります。
※法師庵の地名は、起福寺が仮住まいしていたことによります。
全景 石灯篭
殉難軍馬之碑
 明治27年日清戦争の時、旅順口より門司港へ凱旋した門司丸が、操船を誤り東洋丸に衝突し、57頭の軍馬が遭難してしまいました。この碑は、その菩提を弔うため、明治29年に熊本野戦砲兵第六連隊第二中隊長、砲兵少佐樋口匡直氏らが寄付金を募り建立したものです。
19 門司市殉職消防組員之碑
殉職消防員之碑(左)
 昭和11年1月30日に発生した門司市港町三丁目の大火の消火活動中に殉職した佐藤武志さんと、昭和12年4月9日に発生した門司市二松町の火災により殉職した大谷三郎さんを悼み、昭和13年に門司市消防義会によって建てられました。
門司市殉職消防組員之碑(右)
 大正12年6月20日発生の豪雨によって崩壊した土砂に巻き込まれ殉職した水害警戒出動中の安藤吉五郎・工藤幾太郎・小松甚三郎・井本益太郎・安藤右五さん5名を悼み、昭和2年に建てられました。
20 抱え地蔵と五輪塔
 もともとこの地蔵尊は南側の山、東明寺にありましたが大正10年この地に移設し、お堂を建て現在に至っています。
 この地蔵尊は、願い事を胸に思い抱えあげ、軽々と持ち上がればその願いがかなうと言われています。しかし、持ち上がらない時は、日を限って願懸けをしていたことから日切地蔵とも云われています。
 また、この土地は老木が多くあった広い藪で、もと正蓮寺の墓地であったといわれています。明治41年、この地を開作した時、東明寺城の時代の頃と考えられている五輪塔が多数出土しました。このため、現在お堂の横に大切に祀られています。
21 東明寺城
 大内氏が、大友氏の侵攻に対抗する為、永禄2年(1559年)門司城主仁保帯刀の端城として築いた云われています。
 門司小学校の林間学園として整備される前は、山頂に妙見堂がありましたが戦時中に荒廃してしまいました。

 東明寺城のページへ
門司城から望む 麓から望む
22 本正寺
日蓮宗
本尊 十界曼荼羅
由緒 明治38年小倉真浄寺住職本田正達を招いて、日蓮宗祈祷結社教会を開創したのが始まりで、明治45年に現在地へ移りました。その後大正5年に、山梨県南巨摩郡本建村本正寺の寺号を移しました。


 境内に、地神白龍大神が祀られている祠や一石五輪塔があります。
23 白鑑寺跡

本尊 不明
由緒 不明

 境内には、昭和24年に建てられて新四国八十八ケ所建立記念碑や薬師如来像等が残っています。
24 鉱口跡?
 白鑑寺境内裏山の崖に、縦・横ともに1m 弱の方形の穴が掘りかけのまま残されています。防空壕にしては、あまりにも小さすぎます。何のために、掘られたのでしょうか。
 上記の部分を1988年に撮影したもので、左側には坑木と思われる木が写っています。
25 地蔵の森
 地蔵が彫り込まれた一石五輪塔や五輪の塔があるため、「地蔵の森」と呼ばれています。また、壇ノ浦の合戦で滅亡した平家の落人の墓といわれ、墓や小石に触れると腹が痛くなると伝えられています。

 また、一緒に猿田彦大神も祀られています。
26 大久保住吉神社
祭神 不明
祭礼 不明
由緒 不明
 境内に、猿田彦大神も祀られています。
27 桜峠
 桜峠の名前の由来は、山桜が多かった為と云われています。なお、その前は門司峠と言っていたようです。また、麓の吉野町も桜の名勝吉野山から付けられたと云われています。
 右の2枚は、吉野町側の坂道で三角山城が望めます。
 峠には猿田彦大明神の鳥居とお堂があり、中には沢山の「わらじ」が奉納されていました。このことから、さいの神も祀られていることが分かります。なお、夜鳴きや眼病にご利益があったと云われています。
 また、鳥居の脇に猿田彦大神が祀られていました。
 右の2枚は、峠から春日町側の坂道です。
28 桜トンネル
 桜峠の下には、桜トンネルが造られており内部は素掘りで、コンクリートが吹付られています。
 
 現在は、さらにこの下に片側2車線の新桜トンネルが造られています。なお、初代桜トンネルは、現在も生活道路として利用されています。
桜トンネル吉野町側入口 桜トンネル内部
新桜トンネル吉野町側入口1 新桜トンネル吉野町側入口2
参考文献等
北九州の史跡探訪 昭和61年1月15日発行 北九州史跡同好会
北九州の史跡探訪 平成2年9月1日発行 北九州史跡同好会
門司郷土叢書 昭和56年9月30日発行 国書刊行会