門司区大里柳・伊川・猿喰・平山周辺地区
2007年12月12日一部更新(2007年7月22日開設)
1 羽山神社 2 林芙美子生誕碑 3 小森江水源池 4 矢筈保塁
5 下関要塞地帯標 6 七つ石 7 猿喰城 8 柳田弥九郎墓
9 玉泉寺 10 豊前坊 11 貴船神社 12 宝篋印塔
13 集石墓 14 白山神社 15 庚申尊 16 平山観音
17 天疫神社 18 円楽寺と伊川城 19 明神様 20 石原宗祐碑
21 猿喰新田汐ぬき穴 22 厳島神社 23 石原宗祐の墓 24 軽子島
25 僧西入 26 宝篋印塔 27 五輪塔 28 柳城
29 大久保貯水池 30 猿田彦大神 31 戸ノ上神社上宮 32 淡島神社
1 羽山神社
祭神 淤縢山津見神(おどやまつみのかみ)
    大山津見神(オオヤマツミ)
    羽山津見神(はやまつみのかみ)
    正鹿山津見神(まさかやまつみのかみ)
    志藝山津見神(しぎやまつみのかみ)
例祭 9月18日
由緒 不明

 境内には、文化9年(1812年)に氏子より寄進された鳥居や猿田彦大神碑があります。
2 林芙美子生誕地記念文学碑
 林芙美子の生誕地は、代表作「放浪記」の記載から下関市とされていましたが、生前親交のあった門司の医師井上貞邦さんの研究によって、門司市小森江のブリキ屋板東忠嗣宅の二階で生まれたと発表されました。記念碑は、昭和49年に、生誕地から400m程離れた公園に建てられています。

 碑には「 いづくにか 吾古里はなきものか  葡萄の棚下に よりそひて よりそひて 一房の甘き実を食み 言葉少なの心安けさ 梢の風と共に よし朽ち葉とならうとも 哀傷の楽を聴きて いづくにか 吾古里を探しみむ」と刻まれています。
3 小森江水源地
 旧門司市は、明治42年福智貯水池(小倉南区)等水道設備の建設に着手し、明治44年に一部給水、翌45年には全面給水を開始しました。しかし、急速な人口増等に対し新たな水源地の確保を迫られましたが、財源問題等もあり次善の策として小森江浄水場東側の渓谷にあった無頭上・中・下池の農業用ため池の内、上池と中池を貯水池とするため、紆余曲折はありましたが、大正9年7月12日に築造工事の認可を受け、大正12年3月31日に竣工しました。なお、下池は埋められました。現在は、その役割も終え平成13年に小森江子供のもり公園として整備され市民の憩いの場となっております。
 また、貯水池時代に使用されていた赤煉瓦造の取水塔をまじかに見ることが出来ます。
4 矢筈保塁
 標高266mの矢筈山頂に、関門海峡を防御するための砲台と要塞である保塁跡がほぼ完全な姿で残っています。
 この保塁は、明治20年2月に着手され明治29年(一説には明治31年とも言われている)に完成し、15cm榴弾砲が6門、9cm臼砲が4門設置されていました。なお、戦争に一度も使われたことは無く、明治時代の末に廃止となっております。
 現在は、青少年のキャンプ場として活用されています。

[保塁設置の背景等]
 日本は、明治20年アジア最強の海軍である北洋艦隊を持つ清国からの攻撃に備えて、全国各地の沿岸の守りを必要としていました。その中でも、関門海峡を通って広島や大阪を攻撃されることを防ぐため、門司と下関は最重点箇所として門司の和布刈、古城山、矢筈山、笹尾山や小倉北区の手向山等に砲台の建設を始めました。
 明治27年(1894年)7月、日本と清国との間で、李氏朝鮮をめぐって日清戦争が勃発しましたが、翌年の4月には終戦となりこれらの砲台が使用されることはありませんでした。
 明治37年(1904年)2月、日本とロシア帝国との間で、朝鮮半島と中国満州をめぐって日露戦争が勃発、この戦争の中で乃木将軍は苦戦の末、中国旅順郊外の203高地を手中に入れましたが大型の大砲と弾薬が不足していました。そのため、笹尾砲台から28p榴弾砲を2門を送ったといわれています。また、太平洋上では世界最強といわれていたロシアのバルチック艦隊が日本に向かっており、関門海峡の各砲台は臨戦体制をとっていましたが、対馬沖で日本の連合艦隊と海戦となりロシア艦隊は降伏したため、使用されることはありませんでした。なお、戦争は、明治38年(1905年)9月に終戦となりました。

[その他]
 この山の中腹に、小倉藩時代に殿様が猪狩を行った際の休憩所が設けられていたと云われています。
全景 登山路の途中にある境界石
保塁の入口 煉瓦造りの門柱
山頂広場への別れ道 山頂広場
地下へ通じる入口
トタン板で塞がれています
保塁より海峡を望む
倉庫群
南側に4其、北側に2其
の計6其
倉庫内部は通路で繋がっています 倉庫内部 倉庫内部から入口を望む
倉庫群への通路 砲台座跡1 砲台座跡2 砲台座跡3
地下倉庫への階段 地下倉庫の入口構造 地下倉庫の内部 地下倉庫入口脇の換気構造
中央トンネル西入口 左の入口上のプレート
「三月竣」の字のみ残っています
中央トンネル東入口 トンネル上の倉庫通気孔
トンネル内の倉庫 倉庫の内部 倉庫の入口部構造 入口左右ある換気窓
5 下関要塞地帯標及び陸軍境界石
 矢筈山から風師山への企救自然歩道沿いに、下関要塞地帯標や陸軍の境界石が数十m間隔で設置されています。



下関要塞第一地帯標
 要塞地帯法(明治32年7月15日公布法律第105号)に基づき設置されたもので、重要度順に「第一地帯」「第二地帯」「第三地帯」に区分し、写真撮影や立ち入りなどが厳しく制限されていました。
 正面に「下関要塞第一地帯標」、右側に「明治三十二年九月一日」、左側に「第七号」、裏に「陸軍省」と刻まれています。 
6 七つ石・峠・碑
 大里から猿喰へ抜ける峠を「七つ石峠」といい、この峠には「七将亡霊伝説」があります。それは、昔ここで戦さがあった時七人の武士が討死、それから夜ごとこの峠に馬上姿をした武士の幽霊が現れるようになったため、村人たちはすっかり怯えてしまいました。この話を、たまたま玉泉寺に来ていた大寧寺[長門の守護大名大内教弘が応永17年(1410年)に創建]の高僧が聞き、霊を慰めようと七つの石を建てて墓とし、お経を唱えたところ幽霊は現れなくなったと云われています。
 峠には、南北朝時代の山城「猿喰城」を見守るかのように道路を挟んで向かい側の斜面に現在も、「七つ石」が大切に祀られています。しかし、最近この石が全て倒されているのが発見されました。このままだと、幽霊が復活するかも知れませんね。夜間、ここを通行する際はご注意を。
 なお、七人の武将は、猿喰城の攻防で討死した南朝方の門司親頼らと云われています。

 また、「七つ石」の側には、正平18年(1363年)12月13日に落城した門司若狭守親房の家臣傳助と刻まれた最近の碑等もあります。 
以前の「七つ石」 現在の「七つ石」
 
七つ石峠
7 猿喰城
 北朝方の柳城城主門司親通は、正平18年(1363年)12月13日南朝方に組した猿喰城城主門司親頼を攻め落としました。この戦で、門司親頼以下一族73人は討死したと門司氏系図に書かれています。

 「猿喰城」のページ
七つ石峠側にある登り口 全景
8 柳田弥九郎墓
 猿喰城の東側の森の中に、11基の五輪塔が並んで祀られています。これらの五輪塔は、地名にちなんで柳田弥九郎の墓と云われています。柳田弥九郎は、畑城(陣山城)の武将で、落城の後この地に隠遁したと地元では云われています。
 
9 玉泉寺
曹洞宗
本尊 釈迦牟尼仏
由緒 能山禅師聚芸が、文明年間(1469〜1487年)に創建したと云われています。その後、大友氏の兵によって焼かれましたが、永正2年(1505年)丸山城主大積隆鎮の擁護を受けた恕心和尚が再興しました。昔は、寺内に五院(東光寺、玉堆軒、東蔵軒、正法院、枕流庵)があるなど隆盛を極めており、近くのバス停山門は、昔の山門があった所と云われています。また、小倉に赴任していた森鴎外もここを訪れています。
 また、この寺は現在茨城県猿島郡五霞町にある東昌寺の末寺となっています。この東昌寺は、永享元年(1429年)下野国野渡りの里(栃木県野木町野渡)に関東管領の家臣である梁田河内守平満助の子である梁田持助が創建し、即庵宗覚を開山としています。なお、能山禅師聚芸は、即庵宗覚の高弟であったと云われています。
 旧五院のうち、東光寺のみが戦前まで存続していました。
 なお、玉泉寺の末寺として門司区の観音寺・薬僊寺・観音堂・護?寺・桃源寺や小倉北区の安国寺・安全寺があります。
 境内には、多くの五輪塔や一石五輪塔が大切に祀られています。
丸山城主の墓

 大積隆鎮(おおつみたかしげ)は、永正年間(1504〜1521年)大積郷を治め丸山城主となり、そして玉泉寺の恕心和尚を擁護し、山林田畑を寄付しています。その後、大友氏との戦いに敗れ逃れる途中、畑村番屋峠で殺されました。墓は、無銘ですがこの玉泉寺にあります。
 法号は、大積院殿雪厳宗白大禅定門と記されています。
また、墓は牛馬の守護神として、昔は墓についたコケを持ち帰って牛馬に食べさせていました。

※恕心和尚は、玉泉寺再興の僧で、また永正12年(1518年)片野郷三本松に安国寺を中興したと云われます。
友石暢堂(てきどう)先生の碑
 幕末から明治にかけて、畑地区に私塾「晩翠校」を開校し多くの人材を育成しました。その功績を称え、村民によって碑が建てられています。

阿南哲朗の碑
 童話作家であり到津遊園園長であった阿南哲朗が、昭和7年に作った小笠原音頭の一節を刻んだ碑で昭和46年11月に小倉北区の足立山麓に建てられていました。その後、氏の墓があるこの寺の境内に移されました。なお、この碑には企救の高浜が眺められるよう窓があけられていますが、現在地で眺められません。
 「企救の高浜 根上がり松よ 馬もおかごもゆるりとな 海辺眺めて ゆるりとな」
10 豊前坊(下宮)
祭神 不詳
例祭 不詳
由緒 明暦3年(1657年)、江戸の大半を焼失した明暦の大火で江戸屋敷の延焼を逃れた小笠原藩は、英彦山権現を分霊し祀ったのが始まりと云われています。このお宮は、火焼[(ほやけ)とは、あざのこと]の治療にご利益があり、治った時にはホコが納められたと云われています。また、牛馬の神様として、11月の初丑の日にはお祭りがあり近在の人々が牛を連れて参拝していたと言われます。
 境内には、文化五辰(1808年)八月に建立された鳥居があります。
11 貴船神社
祭神 高淤加美神(たかおかみのかみ)
    闇淤加美神(くらおかみのかみ)
    彌都波能売神(みつはのめのかみ)
例祭 土用中撰吉日
由緒 不詳


 境内に、文化年間に建立された鳥居、文化7年(1810年)に造られた石祠や一石五輪塔があります。
12 宝篋印塔
 猿喰公民館の敷地内に、相輪の内、頂上の宝珠とその下の請花(うけばな)そして隅飾りのある笠のみになった宝篋印塔が大切に祀られています。
 宝篋印塔は、五輪塔と同様密教系の供養塔・墓碑塔で、鎌倉時代以降に宗派に関係なく造立されるようになりました。
13 集石墓と一石五輪塔等
 白山神社の山裾に、中世を彷彿とさせるお墓の原風景が残っていました。それは、拳大からその倍程度の角礫を集めてつくった集石墓で、今でも大切に祀られています。また、その奥には五輪塔の空輪・火輪や一石五輪塔が集められています。 
 さらに、造立年は不明ですが、三面に梵字が刻まれた自然石の板碑も祀られています。一面には、大日如来を意味するアーンクが刻まれています。これで、市内の梵字が刻まれた板碑は4例目です。
全景1 全景2
集石墓 五輪塔
梵字が刻まれた石碑 刻まれた梵字
14 白山神社
祭神 伊邪那岐神(いざなぎのかみ)
    伊邪那美神(いざなみのかみ)
    大山津見神(おおやまづみのかみ)
    瀬織津昆売神(せおりつひめのかみ)
    菊理比売命(くくりひめのみこと)
例祭 9月8日9日
由緒 明暦年間(1655〜1658年)より、権現平と云われる山頂に鎮座し、宝永4年(1707年)に再建されたと云われています。

 伊川天疫神社から平山観音へ向かう途中、旧伊川村と平山村の境となっていた標高120mの山頂にある神社で、境内には文政12年(1829年)に造られた手水鉢があります。
麓の鳥居 山頂にある本殿
本殿  手水鉢
15 庚申尊
 旧伊川村と平山村の境にある庚申尊で、文化12年(1815年)に建立されたものです。
 庚申塔は、江戸時代初期から庚申信仰の普及とともに全国各地に建てられるようになりましたが、明治以降、政府は迷信であるとして、道路沿いにある塔の撤去や移転を勧めました。そのため、この庚申尊のように設置当時の位置にあるものは、極めて珍しいものです。
16 平山観音
高野山真言宗
本尊 十一面観音菩薩
由緒 寿永3年(1184年)壇ノ浦合戦で敗れた平家の落人は、平山の地に隠棲し一族の菩提を弔うため回向堂を造りました。そして、天明の頃小倉藩小笠原家の一人の姫君が継母にいじめられ、行場ともなっていた境内の小滝の傍らに捨てられました。そして姫君は、哀れにも蚊の群れに刺され息途絶えてしまいました。後日、亡骸は里人によって発見され、鄭重に葬られましたが、この話を聞いた姫の乳母は、冥福を祈ろうと小滝の傍らに庵を建てました。しかし、悲嘆のあまり体も衰弱した乳母は「わらわの乳房の一つを可愛い姫に捧げ、他の一つを乳の乏しきに悩む母達に捧げん」と言い残して息を引きとりました。その後、姫にゆかりの家臣や、長門・周防からも多くの参詣人が訪れていましたが、明治になると寂びれてしまいました。しかし、大正時代には再び参詣者も増え、浄財にて観音堂が建立されました。終戦後、高野山真言宗に属し、本山直轄の寺院となりました。また、観音堂脇の岩清水を飲むと不思議と乳の出が良くなったことから、この岩清水を「お乳水」と呼ぶようになったと云われています。なお、この乳水の話しは、壇ノ浦の合戦で敗れた平氏一門の乳母が源氏の追っ手に発見され自害したもう一つの逸話が地元に伝わっています。
本堂 宝篋印塔の相輪と五輪塔
お乳水 一石五輪塔
17 天疫神社
祭神 須佐之男神(すさのおのかみ)
    天忍穂耳神(あめのおしほみみのかみ)
    天菩卑命(あめのほひのみこと)
    天津日子根命(あまつひこねのみこと)
    活津日子根命(いくつひこねのみこと)
    熊野久須昆命(くまのくすびのみこと)
    多岐理毘売命(たきりひめのみこと)
    市寸島比売命(いちきしまひめのみこと)
    多岐都比売命(たきつひめのみこと)
例祭 9月13日14日
由緒 応永年間(1394〜1428年)から鎮座し、慶応2年(1866年)に再建されたと伝えています。また、伊川城主聖護院入道が、保元年間(1156〜1159年)に建立したとも云われています。
 境内には、安永9年庚子(1780年)に氏子より寄進された鳥居と 文化10年酉(1813年)に若者中より寄進された水盤があります。
18 円楽寺と伊川城主碑
浄土真宗本願寺派
本尊 阿弥陀如来
由緒 保元年間(1156〜1159年)に、聖護院入道明俊が伊川村に建立した天台宗の延命寺が始まりで、その後大友氏の家臣であった西直行が出家して秀性と号し、住んでいましたが、後に本願寺准如上人に帰依し、文禄2年(1593年)3月に一宇を建立して円楽寺と称しました。また、九世慶応の頃、移転して本堂及び庫裏を建立しました。そして、明治23年十二世大円の時に現在地へ移転しました。

 境内裏の墓地には、一石五輪塔等が多数集約され、大切に祀られています。
 境内裏の丘陵は、伊川城の城跡で、墓地には建久6年(1195年)に解城されしと謂う伊川城主平明俊の聖護院入道碑が祀られています。
 門司氏系図によると、聖護院入道明俊は、保元年間(1156年から1159年)に長野氏の命により伊川城を治めるとあります。また、建長7年(1255年)には伊川に陣屋を設け、門司親用を住まわせたともあります。
 また、東側の谷には、殿屋敷、馬場、隠居条等の地名が残っています。

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19 明神様 厳島神社
祭神 底津綿津美神(そこつわたつみのかみ)
    中津綿津身神(なかつわたつみのかみ)
    上津綿津身神(うわつわたつみのかみ)
    市寸島比売神(いきちしまひめのかみ)
例祭 9月16日17日
由緒 不詳。ただし、猿喰新田の開作に当たって、石原宗祐の実弟柳井賢達が新田の門司側に厳島神社を創建したと伝えています。

 境内脇に天保15年辰(1844年)と寛政11年未(1799年)に建てられて墓石が祀られていました。
20 石原宗祐碑
宝永7年(1710年)、大里に生まれる。
元文2年(1737年)、大里村庄屋になる。
宝暦7年(1757年)、開作に専念するため、庄屋役を辞任し、猿喰新田の開作に着手する。
宝暦9年(1759年)、猿喰新田の開作が竣功する。
寛政6年(1794年)、曽根新田の開作に着手するが、享和3年(1803年)辞して大里村本宅に帰る。
文化3年(1806年)、97歳で没する。葬儀は、猿喰屋敷にて行なわれる。
21 猿喰新田汐ぬき穴
 汐ぬき穴は、猿喰新田の開作(干拓)に伴って、川や用水路の水を海に流すため穿たれた排水用戸樋門で、潮の干満によって招き戸が開閉する構造になっています。
 つまり、干潮の時には、新田側から排水が行われ、満潮時には扉が閉じて海側からの進水を防ぐ構造となっています。
 もともとは、堤防の両側に2基ずつ計4基ありましたが、現在は東側の2基のみが残っています。
 平成15年3月31日、市の指定文化財に指定されました。


 新田開作に伴う田畑の灌漑用水は、既存の川には水利権があって使用できないため、新たに水源を確保しなければなりませんでした。そのため、新田開作が竣功した宝暦9年(1759年)に折谷池、宝暦12年(1762年)に八ケ坪池、明和5年(1768年)に鳥越池と両国免池の四池を築造しました。また、これらに要する費用は、全て石原宗祐が自費で負担しました。
新田側の排水口2門 岩盤を穿っている
海側から見た堤防と樋門 戸樋門の上部
海側の排水口 戸樋門から海側の排水路
22 厳島神社
祭神 底津綿津美神(そこつわたつみのかみ)
    中津綿津身神(なかつわたつみのかみ)
    上津綿津身神(うわつわたつみのかみ)
    市寸島比売神(いきちしまひめのかみ)
例祭 9月16日17日
由緒 安永2年(1773年)に、開作鎮守社として厳島神社を勧請したとされています。なお、この場所は開作されるまで裸島又は波多加島(はだかじま)と呼ばれていた島でした。

 本殿の石祠は、安永5年(1776年)に建立されたものです。その他、境内にある延命地蔵菩薩も、また安永5年(1776年)に建立されたものです。

 猿喰新田の開作に当たって、石原宗祐は実弟の柳井賢達の協力を得て行ったため、両家の所有を区切るため中央の灌漑溝を境として門司側、大里側と呼びそれぞれ厳島神社を創建しています。
23 石原宗祐墓
 石原氏は、信州上田の出身で後に備後国石原城に在していましたが、宗祐を遡る六代広道の時に、大里に来て郷士になったと云われています。また、宗祐が23歳の時、享保の大飢饉に遭遇し大里村からも126名の餓死者を出したことが、後の新田開作に向かわしたとも言われています。
 墓は、五輪塔で正面には「空 風 火 水 地」そして「地」の字の両側に「開田院宗祐居士」「石原小左衛門宗祐」、右側に文化三丙寅歳六月初九日終」と刻まれています。
24 軽子島
 この島は、伊川区民の公有で、干潮になると歩いて渡ることが出来ます。また、従来は不毛の地でしたが、伊川区民によって松が植林されています。その他、昭和10年代頃この島にオットセイが漂着したとの話があります。さらに、文化7年1月15日、伊能忠敬が測量したと日記に記載されています。
25 僧西入
 江戸時代まで戸ノ上山麓一体は、鬱蒼たる森林地帯で、小倉藩主による鹿狩が行われていました。享保年間、この森のクヌギベラと云われていた場所に大蛇が棲みついており、家畜への被害がでていました。当時、カシラナシノ池の東側、松林の中に庵を結んでいた僧西入(萩の浪士で法入とも云われています)は、豪力無双の僧で、その大蛇を原町の五助を助っ人として退治し村民の難を救ったと伝えられています。しかし、庄屋の妻と密通する等大胆不敵の悪僧とされ、長浜根上り松の場所で処刑されました。碑は、現在寺内にある地神社の境内にあります。また、境内には、子供の百日咳等にご利益があると云われている地蔵様が祭られています。このお地蔵さんは、もともと東源寺にありましたが、大友氏の兵火に遭い、東源寺池畔の地蔵堂に移されていましたが、宅地造成により現在地へ再度移転させられています。

地蔵様
26 宝篋印塔と五輪塔
 寺内2丁目の萩ケ丘公園に隣接する、御幸山大権現の境内地に一石五輪塔が祀られています。
 柳町にある大里柳共同墓地内に、バラバラに組み立てられた宝篋印塔や五輪塔、また一石五輪塔が祀られています。
27 五輪塔
 柳城の東裾野に、3基の五輪塔と猿田彦大神が並んで祀られています。説明碑には、柳城郎党の墓と刻まれています。
28 柳城
 貞治3年(1364年)2月17日付けの将軍義詮の感状に、去年[正平18年(1363年)]12月13日豊前国柳城兇徒退治と記載されています。なお、この日は猿喰城が落城した日でもあります。

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29 大久保貯水池
 鈴木商店は、明治37年(1904年)門司に大里精糖所を開業しましたが、明治40年(1907)大日本製糖(株)に買収され門司工場となりました。工場では、工業用水を確保するため、農業用溜池であった大久保池を買収し、貯水池に改築し大正14年に竣工しました。取水口の入口上には、倒産寸前であった大日本製糖を再建するため、明治42年(1909年)47歳で社長に就任し、僅か5年で業績を回復させた藤山雷太の筆による「甘泉」の文字が刻まれています。なお、元外務大臣藤山 愛一郎氏は、雷太氏の長男です。


 貯水量は、約15万トンで、約3.2kmの送水管で現在も工場へ給水されています。
30 猿田彦大神
 大久保貯水池堰堤の西側山中に、天保7年申(1836年)に建立された猿田彦大神があります。この塔も、地元の方に今でも大切に祀られています。
31 戸ノ上神社上宮
 戸ノ上山の山頂517mにある戸ノ上神社の上宮で、元和3年(1617年)小倉藩主細川忠利によって再建されています。また、この山は山伏修行の行場となっており、9合目付近の平坦部では土師器等を採取することが出来ます。
 また境内には、文久2年(1862年)に建立された鳥居が建っています。
 さらに、山頂からの眺めはよく、巌流島等関門海峡を一望することが出来ます。その他、山頂は老杉に覆われており、企救山系では一番高い山となっています。
32 淡島神社
祭神 少彦名命(すくなひこなのかみ)
例祭 9月21日
由緒 昔は奥田神社と呼ばれ、紀の国粟島社より勧請したと云われていますが時期は不明。なお、明治時代に今の淡島社に改名されました。現在は、安産の神として多くの参拝者で賑わっています。

 境内に天明7年(1787年)に建立された鳥居がありますが、戸ノ上神社より移築されたものです。
三界万霊
 この塔は、この世の中の万霊を供養するため、天保7年(1836年)個人によって奉納されたものです。

六地蔵
 六角形の石の六面に、地蔵さんが二段に12体浮き彫りで刻まれた六地蔵で笠石等が載せられていますが、それぞれ材質が全く違うことから後世に組合されたものと考えられます。 なお、この六地蔵の類例は、市内では小倉北区木町の西安寺及び愛宕の不動明王堂等の3例が知られています。
 鳥居前の道路脇に、天保5年(1834年)に建立された猿田彦大神が祀られています。
参考文献等
北九州市史 近世 平成2年12月1日発行 北九州市
北九州市史 近代・現代 昭和61年12月10日発行 北九州市
北九州市史 古代・中世 平成4年1月25日発行 北九州市
復刻 企救郡誌 昭和52年2月11日発行 防長史料出版社
北九州の史跡探訪 昭和61年1月15日発行 北九州史跡同好会
北九州の史跡探訪 平成2年9月1日発行 北九州史跡同好会
門司郷土叢書 昭和56年9月30日発行 国書刊行会
門司の歴史 平成16年3月 門司区役所