門司区大積周辺地区
2004年10月30日開設
1 特攻兵器基地跡 6 貴船神社
2 天役神社 7 薬王寺跡
3 水天宮・海御前 8 殿墓
4 証文石 9 金山川の谷
5 証文石  
1 特攻兵器四式連絡艇基地跡・蕪島
 大積の東端の岬、及び干潮時には陸続きになってしまう蕪(かぶら)島には、太平洋戦争の末期本土決戦時の米軍襲来に備えて、陸軍の海上特別攻撃兵器「四式連絡艇」通称「レ艇」を、格納するための横穴が掘られています。 しかし、この基地にレ艇が配備されたことはなかったようです。
 右の2枚の写真は、東端の岬部分でNo1からNo4までの横穴などがあり、右側にはNo4の横穴が見られます。
 横穴は、岬から島に向かってNo1から順に掘られていました。

 No1は、水面より上に掘られた横穴で、入れ口部分にコンクリートの残骸がありました。






 No2は、横穴ではありませんが、波打ち際から細長く続く砂浜で格納するにはもってこいの場所です。また、波打ち際にコンクリートの残骸がありました。
No1 No2


 No3は、水面から高い場所にあり、また、入り口部分は積み石をセメントで固めており、そのため内部は、プール状態となっていました。








 No4は、波打ち際から続く砂浜と、その奥に横穴が掘られていました。
No3 No4


 左の写真は、岬の東端と蕪島を北側の海岸から望んだ写真で、この岬の左側半分から横穴が掘られています。


 右の写真は、岬の南側海岸から蕪島を望んだ写真でNo5の横穴がみられます。
 島に入るとまずNo5の横穴があります。この横穴は、島を貫いており、両端の入口部分は、コンクリートの壁が設けられており、そのため、内部には海水が溜まっていました。









 No6は、水面からかなり上に掘られた横穴です。
No5 No6


 No7は、No6よりさらに上に掘られた横穴です。










 No8は、No7より下に彫られた横穴で、内部は、海水が溜まっていました。
No7 No8


No9 柱基礎
 No9の横穴は、今までの中で一番高い所に掘られていましたが、内部の奥は水が溜まっていました。



 右のコンクリートの柱基礎と下の鉄柱は、レ艇を海から横穴に収納するときに用いる引き上げウインチを設置した時の基礎跡そうです。

鉄柱基礎


 蕪島を望む、岬の南側海岸にコンクリートの円形状をした残骸が残っていました。基地を造る際に造られた波止場跡か、何らかの施設跡ではないかと推察されます。
2 天疫神社
祭神 櫛名田比売命、須佐之男命
    
由緒 創建等は不明ですが、「丸山城主、大積上聰介隆鎮の鎮守で、世に大積殿と云われていました。落城後、大積の村人の尊崇厚く、正保3年(1646年)現在地に移転し、大積村の鎮守社とした」と大積村志に書かれています。
 境内には、一石五輪塔等が大切に祀られていました。
3 水天宮・海御前の碑
祭神 平家の将、能登守教経の奥方海御前

天役神社の境内にあります。
 源平合戦の時、平家の将能登守教経(のとのかみ のりつね)の奥方「海御前(あまごぜん)」は、安徳帝の最後を見届けたのち入水しました。村人は、大積の乙女山の浜辺に流れ着いた遺体を老松の下に葬り、碑を建立したと伝えられています。
 壇ノ浦の合戦で破れた平家は、海底に身を投じ武士は平家蟹に、女官はカッパに化身し、海御前はそのカッパの総大将になったと云われています。
4 証文石
 文明年間(1469年〜1487年)、丸山城主大積親秀が領内を巡視中、一匹のカッパが現れその馬を川の底に引き込もうとしました。驚いた馬は暴れ、親秀はカッパを斬ろうとすると、川原の石を指さしてこの石が朽ちるまで領地内ではいたずらはしませんと誓ったので石を証文としてカッパを許しました。
 水天宮の境内に、河童の像とともにあります。
5 証文石
 上の証文石と同じいわれの証文石が奥畑川の堰の横にあります。
 こちらも、最近作られた河童の像が傍に建っていました。


奥畑川の堰横を通る農道の上にあります
6 貴船神社
祭神 高淤加美神、闇淤加美神、
    弥都波能売神、仁徳天皇
    
由緒 創建等不詳
7 薬王寺跡
 貴船神社の隣接地にある寺院で、小倉北区にある広寿山の隠居寺でしたが、火災にあって現在は、本堂の基礎のみが残っていました。焼失以前は、鎌倉時代の作と言われていた、等身大の薬師如来像が祀られていました。
8 殿墓
 19基の五輪墓が並んだ墓「殿墓」が、竹林のなかにあります。
 寿永4年(1185年)平家の武将平休意(たいらのやすとき)は源氏との戦に備え、宇佐八幡宮に戦勝祈願に行きました。その帰途、平家一門が壇ノ浦の合戦で滅亡したことを知り、黒川の山中に隠れ棲み平家一門の菩提を弔っていました。そして平家残党の探索が緩やかになってから、この地に出てきて田畑を耕し、その一方で討死した一族の墓を集めて供養しました。それを殿墓といいます。その後、休意らは源氏の目をはばかり「八木田」と改姓しました。この姓は、居の八方に樹木を植えて風を防いだことにちなんだものと言われています。
No1 No2 No3
No4 No5 No6
No7 No8 No9
No10 No11 No12
No13 No14 No15
No16 No17 No18
No19 隣接する江戸時代の墓 硯石の原石を使用した江戸時代の墓石
9 金山川の谷
 金山川を遡って行くと、JR新幹線関門トンネルの斜坑やため池などがあり、舗装道路の突き当たりに金山不動院が祀られていました。
参考文献等
北九州市神社誌 昭和54年11月1日発行 北九州史跡同好会
北九州市史 近代・現代・教育文化 昭和61年12月10日発行 北九州市
北九州の史跡探訪 昭和61年1月15日発行 北九州史跡同好会
北九州の史跡探訪 平成2年9月1日発行 北九州史跡同好会