門司区西新町周辺地区 2004年1月16日開設(2010年2月10日更新) |
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1 笹尾砲台跡 | 4 猿田彦 | |
2 小笠原お茶屋跡 | 5 長倉戦手向・藤松古戦場跡 | |
3 石碑 | - |
1 笹尾砲台跡 | ||
関門海峡を通過する敵艦を想定して造られた下関要塞の一つとで、明治20年10月に着工し、明治22年9月に竣工しました。 28p榴弾砲を10門(5砲座)設置していました。右の写真は、砲台跡から関門海峡を見たところですが、手前陸部の真ん中に鹿児島本線の線路が横切っています。戦後までは、線路から上が海でした。 |
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貯水施設 階段を下っていくと小さな部屋になっており、中に半円形の井戸があります。深さは、2メートル以上あり、水面から下約50センチからは円形状の井戸となっている可能性があります。何分、灯りを持っていっていなかったため、確認が取れませんでした。 |
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第二号倉庫?入口の額石 倉庫?そのものは、跡形もありませんが入口上部の額石のみが民家の一角に残されていました。手向砲台の倉庫額石の二は、「弐」の字を使っていました。 |
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第四倉庫? 小さな広場の北側に第四号と刻まれた額石を持つ倉庫?が残っていました。下の写真にあるとおりこの倉庫の換気口は、現在開放されている「矢筈」「高蔵」には、例の無い奥壁にスリット状に造られています。また、入口横の窓には、当時の木枠が残されていました。 |
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倉庫の内部 |
窓に残る木枠 |
倉庫内部から入口を見る |
第五倉庫? 小さな広場の南西側に第五号と刻まれた額石を持つ倉庫?が残っていました。また、ここの入口横の窓にも、当時の木枠が残されていました。 |
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倉庫の内部 |
左側に木枠が残る窓 |
倉庫奥のスリット上の換気口 |
砲台への軍用道路と道路脇の煉瓦建物跡 右の写真は、南側に下る軍用道路の跡で、中の写真は煉瓦造りの建物の跡、またその前に、基礎のみが残っている建物の跡もありました。 |
道路脇の煉瓦建物跡 |
軍用道路跡 |
中の写真は、山上の観測所?へ通ずる通路跡で、右の写真は観測所?土台地下の倉庫?跡ですが、砲台破壊時の土砂で埋まっていました。 | 観測所への通路跡 |
観測所土台地下の倉庫? |
観測所? 円形のコンクリート製の土台が残っていました。 |
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2 小笠原お茶屋跡 | ||
小笠原藩時代に、お茶屋屋敷があった所で、当時の井戸が今も残っていました。現在は、住宅地の中の公園となっています。 |
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3 石碑 | ||
鳥越峠を門司方面へ下って行くと右側の道路脇に、元禄2年?(1689年) 銘のある石碑がありますが、風化が著しく読むことが出来ませんでした。 | ||
4 猿田彦 | ||
藤松から手向へ向って右側の道路脇に、文化4年(1807年) に造られた猿田彦が今も大切に祀られていました。 | ||
5 長倉戦手向・藤松古戦場跡 | ||
慶応2年(1866年)7月27日、幕府の第二次長州征討戦に対する長州藩の第三次奇襲攻撃における激戦の場となったところで、村中川に架かる橋には、幕府軍の各隊長であった小笠原藩御中老の中野一學(千石)と島村志津摩(千二百石)の名前が付けられています。 ※石高は、慶応二年の知行帳による。 |
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参考文献等 | ||
北九州市史 近世 平成2年12月1日発行 北九州市 北九州の史跡探訪 昭和61年1月15日発行 北九州史跡同好会 北九州の史跡探訪 平成2年9月1日発行 北九州史跡同好会 小倉市誌 上巻 昭和50年7月10日発行 名著出版 |