門司区門司港駅・広石周辺地区
2004年5月10日開設(2022.8.19追加・更新、2022.9.3追加)
1 門司港駅   24 旧三井銀行門司支店(消滅)
2 JR九州第一庁舎 25 バナナの叩き売り発祥の地
3 旧三井倶楽部 26 ホーム・リンガ商会
4 旧日本郵船 27 レトロ観光線と田野浦鉄道
5 旧大阪商船 28 ブルー・ウィングもじ
6 旧門司税関 29 北方電車
7 鎮西橋 30 大連友好記念館
8 旧日本銀行 31 出光美術館
9 門司電気通信館 32 東本願寺門司教会
10 福岡中央銀行 33 双葉見番(錦町公民館)
11 旧門司信用金庫 34 三宜楼 
12 大分銀行             35 山水園
13 明治屋 36 日本連合艦隊第七艦隊司令部跡
14 山口銀行 37 釣月山法音寺
15 九軌境界石 38 清年神社
16 九州鉄道記念館 39 墓地に残る五輪塔
17 門司区役所 40 門司倶楽部
18 旧大連航路 41 料亭ひろせ
19 出征軍馬水飲場 42 清滝貴布祢神社
20 門司新報社 43 清滝公園
21 馬場遊郭 44 レールの歩道橋
22 関門海峡ミュージアム 45 報時球
23 旧福岡銀行門司支店 46 白雲稲荷大明神 
1 門司港駅[旧門司駅を昭和17年4月に改称]
駅舎
 木造2階建で、大正3(1914)年二代目の門司駅舎として建設されました。この駅舎は九州で最も古く、昭和63(1988)年11月鉄道駅としては、初めて国の重要文化財に指定されました。ネオルネサンス様式の青銅の屋根が、特徴となっています。
 建物の老朽化に伴い、平成24 (2012)年9月から平成31(2019)年3月まで約7年間、大規模保存修理工事と併せて耐震補強が行われ、創建当時の姿に復元されました。この工事に伴い、正面のひさしは、取り除かれました。

幸運の手水鉢(右)
 この手水鉢(手洗い器)は、青銅製ですが、戦時中の貴金属供出から逃れて、建設時のままであることから、いつからかともなくこう呼ばれるようになりました。


創建時の駅舎に復元
 
復元工事前
 門司港駅は、明治24年4月に玉名駅 (旧高瀬駅) まで、九州鉄道が開通した時の起点となったとろです。このとき、門司港駅に0哩標が建設されましたが、昭和47年10月鉄道開業100周年を記念して、日本国有鉄道九州総局が建立しています。


 0哩(マイル)標
洗面所
 この洗面所は、大理石とタイル貼りで造られており、汽車の乗換時にすすけた顔や手を洗って見づくろいする所です。流し台が低いのは、足を洗いやすくするためとも言われております。

帰り水(右)
 この水栓は、建設時からあり特に戦前、海外へ向かう時、日本の名残に水を飲み、戦後、復員軍人や引揚者の人たちが、帰国できた喜びをかみしめながら水を飲んだということから、この名で呼ばれるようになりました。
 
復元された駅構内1

 復元された駅構内2

 復元された駅構内3

駅長室の入口

駅舎内2階の廊下

駅舎内の階段(右)
関門連絡通路跡
 関門連絡船への連絡通路の跡です。関門鉄道トンネル開通に伴い、関門連絡船は衰退し、昭和39年10月31日廃止となりました。
 ①通路跡
 ②現在封鎖されている通路跡部分(現在の道路下)
 ③通路の中央部に設置されている監視所
 ④監視所に設けられた監視窓
 ⑤⑥通路跡の上部に設置された側壁と侵入防
  止の鉄条網


※関門連絡船
 明治34年、本州と九州を結ぶ輸送機関として発足した関門連絡船は、明治39年12月には国有鉄道直営となり、桟橋施設も整備されたため、最盛期の昭和16年には1日平均53往復し、年間880万人を輸送していました。
  しかし、昭和17(1942)年11月の関門鉄道トンネル開通とともに、連絡船の利用者は減少の一途をたどり、昭和39(1964)年10月31日、午後10時10分、門司発の最終便によって、63年の歴史を閉じました。 






新旧の門司駅

 左は、九州鉄道記念館北側の駐車場付近にあった当初の門司駅舎で、写真には駅前広場の手前に電車線路が写っていることから、明治44年以降に撮られたものです。
 右は、二代目の駅舎と岸壁で、まだ関門連絡通路が未整備となっています。
 
 旧門司駅舎位置図と桟橋の図

 この図は、明治44年11月明治天皇が、桟橋から上陸し、門司停車場から乗車する際に、関係者が使用した図面です。なお、明治44年6月5日に開通した九州電気軌道は、まだ記載されていません。
 
2 旧JR九州第一庁舎
 旧JR九州第一庁舎は、鉄筋コンクリート6階建のアメリカ式のオフィスビルで、旧三井物産の門司支店として、昭和12(1937)年竣工しました。
 建設当時は、九州一の高層建築だったと云われています。一見、シンプルですが、玄関の装飾は黒御影石が使われ重厚さを表しているのが特徴となっています。設計は、直方市生まれの松田軍平で、福岡工業学校から名古屋高等工業学校卒業後、清水組に勤務。その後、アメリカのコーネル大学で建築学を学び、帰国後の昭和6(1931)
年、兄で建築家の松田昌平と松田事務所を開設しました。
 建物は、戦後の財閥解体によって、 昭和28年(1953)年に国鉄へ売却され九州総局となっていましたが、平成17(2005)年北九州市の所有となりました。その後、一部は関門海峡らいぶ館となっていましたが、現在は閉館されています。

レリーフ
 玄関の社名上に刻まれたレリーフ。このビルの唯一の装飾となっています。さて、何を表現しているのでしょうか。

消防隊用送水口
 道路側の壁に、siamese connectionと刻まれた青銅製の消防隊用送水口がありますが、現在は、別途横に送水口が設置されているため、警報装置の取出し口に改造されています。
 その送水口に、漢数字の三が入ったマークがあります。三井物産のマークと思いましたが、基本は井桁だと分かり、不明のままです。

玄関のレリーフ
 

 ビルの1階エントランス

エレベーター表示
3 旧門司三井倶楽部
 三井倶楽部は、三井物産の社交場として門司区谷町に、大正10(1921)年建築されたハーフティンバー様式と呼ばれるヨーロッパ伝統建築工法で作られた木造2階建の建物です。大正11年12月23日には、講演に招致されていたアインシュタイン博士夫妻が宿泊しています。また、建物はこのレトロ地区へ移築整備された後、平成2年に国の重要文化財に指定され、現在1階はレストランやイベントホール、2階はアインシュタインメモリアルルームと作家林芙美子の資料室として活用されています。
4 旧日本郵船門司支店
 旧日本郵船門司支店は、昭和2年に竣工した鉄筋コンクリート4階建です。門司における、最初のアメリカ式オフィスビルで、暖房、給湯、エレベーター等当時の最新設備が整えられていました。
 工事概要によると、設計は日本郵船の八島知で、地階89坪と中2階12坪があるようです。また、竣工当時は、アール・デコ的装飾が要所に施されていたと思われますが、幾度かの改修により装飾のない外観となっています。
 玄関ホールには、当時の建具周りの飾石、モザイクタイル、ドアと階数表示は改修されていますが周囲の鉄骨が見れるエレベーター等から、当時の華やかさが感じられます。
 日本郵船は、ライバルの大阪商船に1年遅れて、明治25(1892)年に赤間関支店の出張所として門司港に進出、明治36(1903)年門司支店に昇格するとともに、下関支店が出張所に格下げされています。 
 
 竣工当時の外観
 
5 旧大阪商船
 旧大阪商船は、大正6(1917)年に竣工した一部煉瓦型枠コンクリート造ですが、木造2階建で建物の角に、高さ約27mの八角形の塔屋があります。1階は、大陸航路の旅客待合室、税関の派出所として利用されていました。また、八角形の塔屋と、塔つなぎ目に鱗のような紋様が入るなど非常に凝った造りで、また上部が丸い縦長の大きな窓と、その窓に合わせカーブを描く庇も大きな特徴となっています。
 大阪商船は、明治24(1891)年に門司営業所を開設、明治30(1897)年には赤間関支店から独立して門司支店に昇格しています。現在、1階はギャラリーやカフェとして、2階は貸ホールとして活用されています。またこの建物は国の登録有形文化財に指定されています。設計は、東京帝国大学卒業後、大阪で活躍した建築士の河合幾次です。
     
     
6 旧門司税関
 旧門司税関は、煉瓦造2階建で、明治45(1912)年に竣工し、昭和2(1927)年まで税関庁舎として使用されました。
 明治22(1889)年、門司港が石炭、米、麦、麦粉、硫黄を扱う国の特別輸出港に指定されたことに伴い、長崎税関の出張所が設置されました。明治34(1901)年には、貿易額で長崎港を上回り、大阪に次いで全国第4位の貿易港へ発展したことから、明治42(1909)年11月長崎税関から独立し、日本で7番目の税関として発足しました。しかし、初代の建物は完成してすぐに火事で焼失したため、現存する建物が二代目になります。
 建物は、昭和20(1945)年の門司空襲によって大きな被害を受け、戦後は倉庫に転用されていました。その後、市が建物を取得し、平成3(1991)年から4年の歳月をかけて建物の復元工事が行われ、平成7(1995)年3月25日「門司港レトロ」の施設とともに、オープンしました。
 設計は、咲寿栄一で、明治建築界の三大巨匠の一人妻木頼黄が監修に当たったとされています。
 現在は、展望室、展示室、カフェがあり、市民の憩いの場としても提供されています。
 
7 鎮西橋
 旧門司税関前の第一船溜りから、老松公園の前を経由して、現在は埋立てられてしまった甲宗八幡神社下の第二船溜りまでを繋ぐ堀川と呼ばれていた運河があり、その運河に架かっていた鎮西橋の橋柱が残っています。運河は埋立てられ道路となっております。また、 橋の袂には、かつて日本銀行門司支店がありました。 
8 日本銀行門司支店跡
 日本銀行西部支店は、明治31(1898)年10月、大阪支店に次ぐ2番目の支店として開設され、その後、大正6年に熊本支店が開設されたのに伴い、門司支店に改称されました。
 設計は、辰野金吾で、建物は半球のドーム型屋根とスレート葺の屋根で、外壁は徳山産の花崗岩で飾られた煉瓦造でした。しかし、昭和20(1945)年6月29日の門司空襲で、金庫・公文庫を残して全焼したため、昭和24年11月の新店舗完成まで、他銀行を仮店舗にしていましたが、前年の23年2月大分支店が設置されたため、門司事務所に改組されています。そして、北九州市の誕生をきっかけに、昭和39年小倉北区に、北九州支店を新築移転し閉店となりました。
 初代支店長は、後に総理大臣となった高橋是清でした。
 当時の本館建物は、消滅していますが、運河沿いにあった赤煉瓦造の境界壁と思われるものが、門司生涯学習センター裏に残っています。
 
開設時の門司支店

門司支店と手前に鎮西橋
 当時の本館建物は、消滅していますが、運河に繋がる小河川沿いにあった、赤煉瓦造の境界壁と思われるものが、門司生涯学習センター裏に残っています。表面は、モルタルで塗られていますが、当時の河川側出入口に使用された思われる鉄扉が壁に組込まれています。
9 旧逓信省門司郵便局電話課庁舎(門司電気通信レトロ館)
 旧逓信省門司郵便局電話課庁舎は、鉄筋コンクリート3階建で、大正13年の建設です。この建物の完成で、門司の電話業務は本格化しました。
 設計は、東京帝国大学建築学科卒業後、逓信省営繕課に入った山田守で、放物線アーチと垂直線を基調とした外観デザインが特徴です。また、1階には大正から昭和に活躍した昔なつかしい電信・電話機等、約380点が展示されています。
  10 旧藤本ビルブローカー銀行門司支店(消滅)
  旧藤本ビルブローカー銀行門司支店は、鉄筋コンクリート2階建で大正13年に建設されました。設計者は、京都帝国大学の教授武田五一で、玄関脇の柱と庇、その上部2階の半円形の窓が特徴となっていました。
 建物は、その後、福岡中央銀行門司支店となりましたが、現在建物は解体され、駐車場となっています。
   
11 旧門司信用組合(消滅)  
 旧門司信用組合は、旧門司市の技師が設計した、鉄筋コンクリート2階建で、昭和5年の建設です。正面玄関の大きな庇が特徴となっていました。
 建物は、その後門司信用金庫、福岡ひびき信用金庫門司港支店となった後、統合移転され建物は解体となり、跡地には福岡中央銀行門司支店が新築されています。
  12 旧二十三銀行門司支店(消滅)
  旧二十三銀行門司支店は、鉄筋コンクリート3階建で、大正10年の建設です。玄関のギリシャ神殿の柱形式が特徴でした。
 建物は、その後大分銀行門司支店となり、戦後は焼失した日本銀行門司支店の仮店舗として、昭和24年まで使用されていました。
 現在、建物は解体され、マンションとなっています。

日本銀行門司支店の仮店舗時代
 
戦後の写真と比較すると、玄関の装飾はそのままですが、窓及び上部壁面の装飾が無くなっているなど、大幅に改修されていることが分かります。
 
13 明治屋門司出張所(消滅)

明治屋門司出張所(旧明治屋門司支店)

 煉瓦造2階建で、明治42年(1909年)の建設です。第二次大戦で戦火を受けたため、戦後正面の赤煉瓦壁にモルタルが塗られています。一階の左右大きなショーウインドウが設けられていますが、煉瓦造りでありながらこれ程大きい開口部をもつ建物は大変珍しいとされています。
 この建物は、現在解体され、マンションとなっています。
14 北九州門司支店
北九州銀行門司支店
(旧横浜正金銀行門司支店)

 横浜正金銀行は、外国為替の取り扱いを専門としていた特殊銀行で、外国為替システムが未確立だった当時、日本の不利益を軽減する為、現金(正金)で貿易決済を行なうことを主な業務としていた。門司支店設置は、発展する国際貿易のニーズに応えたものです。
 建物は、鉄筋コンクリート2階建で、昭和9年の建設です。玄関上の2階窓上に花綱装飾がありますが、全体の装飾は少なく重厚さを主体とした銀行建築の特徴がでています。
 設計は、英国で建築を学んだ桜井小太郎で、帰国後は海軍技師となり、退官後の大正2(1913)年に三菱合資会社に入社。大正12(1923)年に独立し、事務所を開設しました。この建物には彼の得意とする古典主義建築のモチーフが随所に生かされています。
 


15 九軌境界石柱
 西日本鉄道株式会社の前身である九州電気軌道株式会社は、明治41年に発足し、明治44年6月5日、現在の北九州市門司区東本町から八幡東区大蔵川まで18.3キロの運輸事業を開始しました。その際の敷地境界石が現在も道路わきに残っています。
 
16 九州鉄道記念館
九州鉄道記念館(旧九州鉄道本社JR→九州第二庁舎)
 煉瓦造り2階建で、門司港最古の明治24年(1891年)の建設です。設計は、ドイツ人技術者によるものです。門司港駅の開業にあわせて、新築された九州鉄道の本社屋で、煉瓦を化粧積みにして、2階の床近くの外壁や玄関上部の切妻部には、色違いの煉瓦を使用するなどして、装飾的効果を高めた洒落た造りとなっています。
 ② ①の窓枠花崗岩の壁際に彫られた雨水切りの溝
 ③ 床下の換気口(現在は塞がれている)


17 門司区役所
門司区役所(旧門司市役所)
 鉄筋コンクリート3階建で、昭和5年の建設です。門司港を見下ろす丘の上に建てられています。外観は、クリーム色と茶色のツ-トンカラーです。装飾のないシンプルなデザインですが、内部には欄間 にステンドグラスがはめ込まれ、当時のままの扉や枠が保存されています。また平成11年4月に国の登録有形文化財に指定されています。
 設計は、東京帝国大学工科大学建築学科卒業後、明治44(1911)年九州帝国大学技師となり箱崎キャンパスの校舎を数多く設計した倉田謙といわれています。倉田は、技師のかたわら、講師として学生たちに建築構造を教えていました。
 大正7(1918)年建築課新設時、倉田は初代課長に就任しています
 門司区役所は、倉田が手がけた九州大学の旧工学部本館(下の写真)との類似性があります。 


ステンドグラス

天井の漆喰で造られた装飾
   
 門司市の前身は、明治22(1889)年の町村制施行に伴い、田野浦村、門司村、小森江村の3村が合併した文字ヶ関村です。 明治27年6月、本町一丁目で役場新築工事に着手し、同年7月には門司町に改称しています。
 この後、赤間関市との合併論も出たが、明治32(1899)年門司市となる。庁舎は、明治41(1908)年には、清滝に移転、昭和5(1930)年現在の庁舎となる。
 町役場が移転した跡に、門司新報社が役場庁舎に、新町二丁目の旧坂本病院の建物から移転しています。当時の役場庁舎は、二階建で1階が役場、2階が小学校の分校となっていました。
 

最初の役場は、門司停車場の向かいにありました。


役場移転後の地図

明治41年の庁舎


昭和5年の庁舎
18 旧大連航路上屋
旧大連航路上屋(門司税関1号上屋)

 鉄筋コンクリート2階建で、昭和4年の建設です。北側の妻に玄関があり、1階は検査場で、2階は乗船広間や待合室がありました。
 玄関を入ると、すぐ右側に大階段があり、アール・デコ風の階段親柱や採光の工夫が、旅行者へ期待感を盛り上げる構造となっています。2階は、天井の高い待合室、回廊状の外部空間が続いています。回廊には、ゲート状の形跡が残っており、船に乗り込む桟橋と直結していたことが分かります。
 設計は、大熊喜邦で、東京帝国大学工科大学建築学科卒業後大学院に籍を置き、明治40(1907)年大蔵省臨時建築部技師に就任、国会議事堂等一貫して官庁営繕に従事する。

 建物は、昭和25(1950)年朝鮮戦争勃発に伴い、米軍に接収された後、昭和47(1972)年に返還されました。昭和51(1976)年からは、門司税関仮庁舎(門司税関一号上屋)、公共倉庫としての利用されていました。

   [接収時の上屋/U.S.ARMYの看板]
 その後、国際貿易港門司の繁栄を象徴する旧大連航路上屋を保存し活用する為、平成18(2006)年度から平成25(2013)年度にかけて整備されました。

 戦前、中国満洲の玄関口であった大連と日本を結ぶ航路は、「日満連絡船」と呼ばれ、日露戦争以降、大阪商船が主体となって運航していました。
 神戸を昼に出港した船は翌日、門司に寄ったのち、4日目の早朝、大連に入港していました。


松永文庫(北九州市立映画・芸能資料館「松永文庫」)
 門司市出身の故松永武が、私財を投じて収集した映画資料等約5万点を所蔵する資料館です。 松永さんは、平成9(1997)年自宅を改修して、私設図書館として開館。その後、高齢により全ての資料を北九州市へ寄贈。市では、平成21(2009)年、門司市民会館内に資料館「松永文庫」を開設し一般公開をしていましたが、平成25(2013)年7月、この建物内へ移転させました。

海事資料展示コーナー
 門司港の繁栄を示す、外国航路の状況や客船の模型等を展示しています。
 門司港で、戦争に関する展示として、太平洋戦争末期の昭和20年3月27日、中国大陸や朝鮮半島との輸送航路を、海上封鎖する為、関門海峡への機雷投下が始まりました。その投下された機雷の位置図が、展示されています。
   

妻側の玄関入口

上屋前の岸壁・石畳より右側が海

玄関両サイドの案内窓口

二階へ上がる大階段

二階の回廊
 
1階の松永文庫入口

世界を結ぶ門司港

機雷投下の位置図
 
整備前の妻側の玄関入口
 
整備前
 
整備前
 
整備前
19 出征軍馬の水飲み場&門司港出征の碑
軍馬水飲み場
 昭和6年の満州事変勃発から第二次世界大戦にかけて、全国から多くの農耕馬が軍馬として徴発され、門司港から戦地へ運ばれました。それらの馬が水を飲んだところが、この水飲み場で以前は数箇所ありましたが、現在はこの一箇所だけとなってしまいました。
 


出征の碑
 門司港からは、大戦中に200万人を超える将兵が出征したが、半数は帰還することが叶いませんでした。恒久平和を願って、この碑が建てられています。

軍馬水飲み場

出征の碑
 
以前の水飲み場
 
飲み場の表示板
「門司市畜産組合馬水飲場」
と刻まれています。
 20 門司新報社  
 門司新報は、明治25年4月10日初代企救郡長を務めた津田維寧(これやす)が、田圃のなかにあった古民家に造作を加えて仮社屋として創業、同時に新町二丁目に社屋を新築していました。また、門司村には印刷所もなかったため、門司郷土叢書によると、新社屋の竣工に合わせて、宇和島印刷の職工を呼び、明治25年5月21日に創刊号を発刊したといます。社屋は、明治41年門司市役所の清滝移転に伴い、役場庁舎へ移転しています。建物は、2階建てで、1階が役場、2階は小学校の分校となっていましたので、1階に社屋を構えています。また、新町の社屋には、坂本病院が入ったとあります。  
赤枠内が、新町二丁目に新築した社屋。
 
旧門司市役所役場跡の1階へ移転。
21 馬場遊郭  
 馬場遊郭は、明治33年頃、岸卯之助が建設したもので、当時は建設功労者として記念碑が遊郭内に建てられていました。碑文は、門司新報の編輯長二階堂行文が書いたものです。
 遊郭入口のアーチ門には、門司「遊郭」とあり、その下には、贈「キリンビール」とあります。

入口のアーチ門
 
 22 関門海峡ミュージアム  
 ミュージアムは、平成15(2003)年福岡県と北九州市によって開設された屋内型観光施設です。その後、平成30年度から改修工事を行い、令和元(2019)年9月リニューアルオープンしています。
 1階には、国際貿易港として栄えた、港町「門司港」の町並みを再現した「海峡レトロ通り」があります。

 建物のメインは、海峡の歴史ドラマを精巧な人形で再現した「海峡歴史回廊」や国内最大級(
18m×9m)の巨大なセイル(帆)スクリーン等で構成されたミュージアムです。只、残念なことに、明治期の下関要塞から、第二次世界大戦に於ける機雷封鎖に係る戦争の歴史が、一言も触れられていません。
 旧JR九州第一庁舎から、引っ越しして来た「思ひ出ステーション門司」は、2階の一角にこじんまりとあります。



 ライオン像
 元々は、昭和5(1930)年竣工の門司区役所の屋上四角の飾り瓦として設置されていましたが、改修工事の際取り払われ、関門橋近くにあった宿泊温泉施設「めかり会館」の大浴場の湯口に転用されていましだ、平成20年閉館により再度取り除かれ、旧JR九州第一庁舎1階の思ひ出ステーション門司に展示されていましたが、令和2年5月ここへ移動しています。

 ミュージアム外観
 
外観を一部復元した
日本銀行門司支店
 
外観を一部復元した
三井銀行門司支店
 
外観を一部復元した
手塚商店

海峡歴史回廊の北前船
 ライオン像 
23 旧福岡銀行門司支店 
 旧福岡銀行門司支店は、昭和25(1950)年の建築ですが、外観はギリシャ神殿のドーリア式オーダーを模した柱が正面と側面に4本づつ配されています。建物は、後に旧日本船舶通信ビルとなり、現在は結婚式場兼レストランとして活用されています。
 24 旧三井銀行門司支店(消滅)  
 旧三井銀行門司支店は、鉄筋コンクリート造2階建で、昭和26(1951)年の建設です。
 建物は、その後福岡相互銀行門司支店となり、福岡シティ銀行門司支店へ行名変更、さらに西日本銀行との合併により解散する。
 現在建物は解体され、クリニックとなっています。
 右の写真は、明治31(1898)年開業時の建物です。 
   
 25 バナナの叩き売り発祥の地  
 バナナの叩き売りは、競り売りでバナナを売る手法で、売り手の軽妙な口上に引き寄せられた客との駆け引きで徐々に値を下げていきます。
 客を笑わせる節回しと、「サァ買うた!」「まだ高い!」「もっと負けて」などの掛け合いで、売り場が盛り上げますよ。
 バナナが日本に輸入されたのは、明治36年頃で、台湾・基隆の商人が、神戸に持ち込んだのが始まりとされています。門司港は、産地の台湾から最も地理的に近い為、大量荷揚げされていました。バナナは、青いままで輸入され、販売前に蒸され黄色のバナナとなって、市場に売り出されていました。しかし、輸送中に蒸れたものや、加工中に生じた一部不良品等で、配送困難なものは、出来るだけ早く換金する手段として、露天商等の手を経て、売りさばかれたのが「バナナの叩き売り」の始まりです。


 門司港駅前広場へ移設された記念碑
 
以前は、旧門司市青果市場跡の桟橋通りに設置されていた記念碑
 26 ホーム・リンガ商会  
 ホーム・リンガ商会は、昭和37(1962)年に建てられた鉄筋コンクリート造り2階建ての建物です。建物正面の上にある半円形の窓と、左右の窓をシンプルにしたことで、建物のシンメトリーを強調しています。また、外壁の淡い色使いと、英語の表示が、異国色を醸し出しています。

商会は、慶応4(1868)年、イギリス人の貿易商フレデリック・リンガーによって長崎に設立されたが、昭和15(1940)年10月閉鎖するよう命じられました。その後、かつての日本人従業員が門司の地で再開した会社が、現在のホーム・リンガ商会です。現在は、外国船舶の代理店業を営んでいます。
 
   
 27 平成筑豊鉄道門司港レトロ観光線とJR貨物・田野浦公共臨港鉄道
旧外浜駅
  門司築港㈱が、昭和4年2月に門司駅から 門築大久保駅間の1.5kmを開業したのが始まりで、昭和5(1930)年国鉄の外浜駅が開業すると、門司駅から外浜駅間は国鉄の鹿児島本線貨物支線となりました。そして、駅から北側は、門司築港線となり、その後昭和18(1943)年門築土地鉄道㈱に社名変更、昭和35(1960)年門司市が譲り受け市営田野浦公共臨港鉄道となりました。外浜駅は、貨物支線と臨港鉄道を直通する貨物列車が、運行されていた時は、信号場としての役割のみを担っていましたが、平成17(2005)年休止となり、平成20(2008)年に廃止され、平成21年駅舎は解体されました。
 ※門司築港㈱は、築造中の大久保埠頭への石炭輸送を目的として、大正9年3月に設立されました。

田野浦公共臨港鉄道
 門司市が、昭和35年4月門築土地鉄道が運営していた路線と門築大久保駅から田野浦駅までの側線を「田野浦公共臨港鉄道」として引き継ぎ、貨物列車を運行していました。その後、北九州港管理組合の所管となりましたが、昭和49年組合解散により、北九州市が管理していました。しかし、平成16(2004)年3月三井鉱山セメント門司仕上工場への、セメント輸送貨物を最後に、翌年10月正式に運航中止となりました。

平成筑豊鉄道門司港レトロ観光線[トロッコ列車]
 北九州市が、門司港レトロ地区観光振興を目的に、JR支線を買収し、臨港鉄道の一部を使って、九州鉄道記念館駅から関門海峡めかり駅まで 2.1km鉄道路線です。北九州市は、第三種鉄道事業者として施設を保有、平成筑豊鉄道が第二種鉄道事業者として車両を保有し列車を運行する上下分離方式を採用しています。
 機関車は、南阿蘇鉄道で、客車は島原鉄道でトロッコ列車に使用されていた車両です。

 門司市街地図(昭和32年)に、駅名及び位置等を表示

 かつての外浜駅

現在の 関門海峡めかり駅

潮風号

潮風号
28 ブルー・ウィングもじ〔跳開式可動歩道橋〕 
  ブルー・ウィングもじは、明治23(1890)年に完成した第一船溜まり入口を、跨ぐ可動歩道橋で、
平成5(1993)年に完成しました。
 橋は、全長約108mで、日本最大級の歩行者専用のはね橋となっており、船が通るときは、約24mの親橋と、約14.4mの子橋が、60度の角度にはね上がります。また、夜はライ トアップされています。
 第一船溜まりは、昭和50年頃まで艀(はしけ)の係留地として賑わっていましたが、港湾荷役の近代化により、その役目を終えていました。その為、船溜まりは、埋立てて売却し、その財源で近代的臨港地帯として再開発することや、国道3号と199号を結ぶバイパスを設置することとされていました。
 一方、昭和63年に市がまとめた「門司港レトロめぐり・海峡めぐり推進事業」が、自治省で承認され、門司港レトロ事業が開始されました。その計画策定中に、親水空間の保存が決まり、埋立て計画は変更となり、船溜まり周辺の回遊性を高めるため、開式可動歩道橋が設置されました。

 手前が第一船溜まりで、奥がはね橋

 はね橋が上がる前

上がる途中のはね橋

上がりきったはね橋
29 北方電車  
 東港町6-66番地の門司港レトロ駐車場内に、昭和55(1980)年11月に廃線となった北方線を走っていた、電車(ボギー車100型)が展示されています。
 北方線は、明治39年6月小倉軌道の馬車鉄道として開業しました。その後、小倉電気軌道に譲渡し、大正9(1920)年にて電化し、九州電気軌道による吸収合併を経て西鉄北九州線の一路線となりました。軌間は1067mm(狭軌)で、北九州線他路線1435mm(標準軌)との直通は不可能であった為、北方線専用の車両が用いられていました。展示車両は、昭和15年11月に制作された10両のうちの1両といわれています。 
 
方向幕は、当車両が運行していなかった門司駅前となっています。
 
車両は、流線型で、前照灯が上部に埋め込まれています。
30 大連友好記念館  
 北九州市は、中国・大連市の友好都市締結15周年を記念して、平成7(1995)年に建設された歴史的建造物の複製建築物です。歴史的建造物は、大連市にあるロシア帝国が1902年に建設した東清鉄道汽船会社事務所です。なお、現在大連市にある建物も複製であといわれています。
 なお、建設当時は、北九州市立国際友好記念図書館でしたが、平成30(2018)年図書館を閉館し、10月1日より北九州市大連友好記念館として再開しています。
   
31 出光美術館  
  出光美術館は、平成12(2000)年4月倉庫の雰囲気を残した建物で、出光コレクションを展示する美術館として開館しました。その後、建物を改築し、平成28(2016)年10月リニューアルオープンしています。
 併せて、出光興産の創業者である、出光佐三の生涯を紹介する「出光創業史料室」も併設しています。

 出光は、明治44(1911)年、現在の鎮西橋交差点近くに、機械油の販売店「出光商会」を開店したのが始まりで、佐三は「店主」と呼ばれていました。史料室内には、出光商会時代の貴重な看板などが展示されています。

出光商会時の建物

 

 
平成12年4月開館時の外観
 
昭和11年まで使用されていた看板
 
使用していた封筒
 美術館前の道路挟んで海側には、赤煉瓦倉庫群がありました。現在は、道路に面した外壁が保存されています。
 
  32 東本願寺門司教会
浄土真宗大谷派
本尊 阿弥陀如来
由緒 門司港発展に伴い、大谷派本願寺の教勢拡大を図るため、二十二世大谷光瑩の次男、大谷光演が、明治32年に教会を設置したのが始まりです。
 
 33 双葉見番の建物(錦町公民館)
 現在、公民館類似施設「錦町公民館」は、昭和12(1937)に建てられた双葉見番の建物で、昭和26年10月から公民館として使用されています。
 検番は、料理屋・芸者屋(芸妓置屋)・待合の業者が集まってつくる三業組合の事務所の俗称で、芸者の開廃業の手続や、伎芸試験の実施、芸者の営業を仲介することで、仲介手数料と組合費で運営されていました。 
 34 三宜楼(さんきろう)  
 三宜楼は、昭和6(1931)年に建てられた、木造3階建ての門司港を代表する高級料亭でした。延べ床面積は、約1,200㎡で、部屋数も20室以上あり、現存する料亭建築としては九州最大級といわれています。
 特徴は、2階の大広間で、百畳間と呼ばれていますが、座敷部分は64畳で、舞台を含めて切りの良いところと、広さを強調する意味もあるようです。
 また、内壁の各所に設置した下地窓は数多く、松・雲・月等といった意匠で、同じものはなく、来客者を楽しまさせたことでしょう。用途は、灯り採りだけでなく、著名人が鉢合わせにならないようにチェックする機能もあったようです。
 さらに、欄間や天井にも意匠を凝らした跡を、ふんだんに見ることが出来ます。
 しかし、戦後は利用客も少なくなり、昭和30(1955)年頃には、料亭を廃業し、間貸をしていた時代もありました。
 市では、平成24(2012)年から保存補修工事に着手し、平成26(2014)年3月に本体工事を終え、一般公開しています。

建物の裏側から撮影
三宜楼の保存運動
 平成17年12月、所有者が建物付き3,600万円で、売却仲介依頼を不動産会社に行ったことから、建物解体を防ぐ為、保存活動が始まりました。
 団体名/三宜楼を保存する会
 設  立/平成18年2月
 事務局/門司港レトロ倶楽部
経過
 同年3月から、取得費用の募金活動を開始するとともに、活用案及び修復費等について検討を開始。活動開始後、1年間に16,000人の署名と1,900万円の募金を集める等幅広い賛同の成果もあり、平成19年3月には、 土地を取得(1,700万円)。
 平成19年12月 北九州市長へ旧料亭「三宜楼」保存活用に関する要望書提出、 市はチームを組んで検討開始。平成21年12月、北九州市へ寄付手続が完了。以降、修復及び活用等は、北九州市の事業となる。
 
35 山水園  
 山水園は、昭和14(1939)年呉服商稲益家が関門海峡を一望する為、電車通りの高台に建てた木造2階建ての別邸でした。戦後の昭和22年、料亭「山水園」として開業、政財界や芸能界のなじみ客がありましたが、後継者難から平成30(2018)年閉店しました。    
 山水園の入口は、高石垣の上に建っているため、旧電車通りから、花崗岩の一枚石を積み上げた階段を登らなければなりません。その為、来客者を、雨天時等の滑り防止を図るため、全ての石段に、格子状に溝が彫られています。
 また、高石垣の下には、小さな祠がありますが、昭和28年の大水害時にはありませんでした。

 階段の滑り留加工
 
36 日本連合艦隊第七艦隊司令部跡  
 海軍省第七艦隊司令部が、昭和20年8月31日に作成した兵器、軍需品、艦艇、引渡目録に、門司市広石町海軍庁舎及び防空隊の庁舎位置などが記載されています。
 庁舎は、旧電車通りから突き当りに鳥居のある階段を登った途中の両脇に3棟の建物がありました。第一庁舎は、奥行き11.7m幅4.4mで、面積64.8㎡。第二庁舎は、奥行き4.75m幅7.4mで、面積35.15㎡。第三庁舎は、奥行き6m幅18.5mで、面積111㎡と略図に記載されています。なお、現地は、昭和28年の大水害により、跡形もなく流されていますが、水害時の写真に鳥居が写っており、そこに繋がる階段は下図のとおり、山水園西側階段になります。従って、山水園西側にある鉱滓煉瓦塀が切れる上の段にある平場を推定地とします。


 防空電信室は、岸壁側に奥行き6m、幅21.2mの防弾緩衝体を持つ半地下式の構造と思われ、内部の広さは、奥行き4m、幅10mで、2部屋に仕切られており、面積94.78㎡と記載されています。なお、略図の位置には、当時既に大連航路上屋(門司税関1号上屋)と門司税関2号上屋が建っており、両建物の間が27mあることから、その間に設置されていたか、税関上屋内に設置されていたかであるが、不明であるが現存しておりません。

JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C08011411200


 
 第七艦隊は、昭和20(1945)年4月連合艦隊所属の中で、最後に編制された艦隊組織です。    アメリカ軍は、昭和20年3月末から西日本の海上輸送を機能不全に追い込む飢餓作戦を開始し、関門海峡を中心に九州周辺海上に大量の機雷を投下しました。呉鎮守府には、これらの機雷を掃海する部門が無かった為、九州周辺の海上輸送路防衛を主任務とし、掃海活動に従事する艦隊を急遽編制し、門司市広石に艦隊司令部を設置しました。
37 釣月山法音寺  
曹洞宗

本尊 観世音菩薩

由緒 大正15年、千葉県玉田山額応院を移転したのが始まりで、昭和2年釣月山法音寺に改称しています。昭和28年の大水害により、建物流失などの大きな被害にあっています。
 なお、当地にある石碑「当山鎮守由来」には、明治43年に、文明祐道師(高蔵)が、この地の最上段(現在は墓地)に建立せしも昭和28年の大水害により土地共に建物一切流失せり、記録に当山鎮守「お寺の守護神」として、金比羅大権現、八大龍王、荼枳尼天(稲荷大明神)祀るとあり、しかしこの水害で共に流失せりと刻まれています。
 
   
 
 38 清年神社  
祭神 伊邪那岐神
   伊邪那美神 
祭日 十一月十四日
由緒 不明
 境内には、明治17年銘の鳥居、明治28年銘の玉垣と石灯籠等があります。また、山際に設置されているため、参詣時に猪に遭遇しました。
   
拝殿とその右側に猪
 日清戦争時に、捕獲されたと思われた砲弾が奉納されており、基壇の石には下記のとおり刻まれていますが、一部は判読不明です。
 明治廿七八年戦
役於軍機運為 
破壊□□□
衛砲□□□
プリン廿四珊□ 米突
海岸砲に使用する
砲弾にして紀会
の為、当地取寄
せたるもの也 
門司町 清瀧中
 
砲弾
 
遭遇した猪
39 墓地に残る五輪塔  
  清年神社から西側に下った位置にある墓地内に、花崗岩製の一石五輪塔や古い地蔵尊が祀られています。    
  40 門司倶楽部 
 門司倶楽部は筑豊石炭鉱業組合、門司石炭商同業組合、西部銀行集会所、九州鐡道株式会社の4団体で建築し、明治36年10開館式を行っています。なお、開館時の倶楽部会長は安川敬一郎、副会長は植村俊平でした。
 設計は、日本銀行西部支店と同じく辰野金吾で、彼の監督の元日本銀行技師の葛西萬司が作成しました。なお、明治36年には辰野金吾と東京で、辰野葛西設計事務所を開設しています。
 なお、建物は、終戦後米軍に接収され、その後門司市に迎賓館として寄贈されます。そして、昭和28年門司市長柳田桃太郎が、旧満州政府時代の部下であった樊慶文に、譲り渡し中国料理店となりますが、昭和45年老朽化により取り壊されています。
 現在は、昭和48年に建て替わった鉄筋コンクリート3階建物になり、「門司俱楽部」の名称で中国料理店となっています。
   
 41 料亭ひろせ  
  門司港の奥座敷雰囲気が漂う清滝公園入口に、料亭を営んでいた「ひろせ」があります。
 建物は、昭和初期に地元富豪の別邸として建てられた木造建築2階建てですが、昭和25年に料亭として開業し、平成26(2014)年閉店しました。
 室内は、料亭らしく意匠を凝らしており、特に燻し竹が、隅々に使用されています。
 料亭での、しきたりなどについては、2009年1月に発行された「雲の上10号」に、ひろせ二代目の女将さんが語っていますので、一部抜粋しました。
 テーブル中央に置かれた、杯洗(はいせん)は、宴席で杯を酌み交わすときに、杯を洗って相手に渡す時に使用する水をはった大きな椀。座敷を掛け持ちするときは、客がよそ見している隙間に、酔わないよう飲み残しも一緒に流していたとのこと。
 お客さん三人で、お座敷を設定する場合、芸者は三人で、三味線を演奏する地方(じかた)さん、踊りを踊る立方(たちかた)とそれぞれ、役割があった。
 芸者は、双葉見番を通して呼び、料金は「お線香」何本と呼んでおり、売れっ子芸者は「約束線香」を立てないと来てもらえなかった、他に「今出し線香」「もらい線香」があり、約束の場合は線香の数も多かった。かつて、お座敷の時間は、線香1本が燃え尽きるまでの時間で計っていたことに由来しています。
 おなじみさんは、通った回数(初回、裏を返す、なじみ)という言葉があり、3回目でやっとおなじみにさんになる。 
 
 
 
 戦時中は、歌舞音曲禁止令が出され、芸者衆は、陸軍暁部隊の兵士へ割烹着を漬けて、おむすびを握ってあげていたとのことで、「ひろせ」は戦時中の兵隊さんへの仕出しから始まった料亭だとも、「雲の上10号」に書かれています。 
42 清滝貴布祢神社  
祭神 高淤加美神(たかおかみのかみ)
    闇淤加美神(くらおかみのかみ)
    祢都波能売神(みづはのめのかみ) 
祭日 不明
由緒 神社の裏に流れる滝は、水勢すくなけれど、いと清浄なることから清滝と云われるようになりました。また、この水で打たれたり、目を洗うと、頭痛・めまいが立ちどころに治ると、春秋は多数の参詣人がありました。また、近くに西海道が通る要所でもあったことから、水の神様である貴船社を設置した云われています。
 境内には、上記貴布祢社以外に稲荷社、水神社、猿田彦大神の三社があり、併せて四社の総称が、清滝貴布祢神社です。
 上段右の猿田彦大神は、文政11年に寄進されたもので、元々は広石にあったと云われています。 
 社殿前の鳥居右柱には、稲荷大明神瑞広前、左柱には、文政八年乙酉春三月穀且、裏側には、寄附中務丞源義■と刻まれていいます。この鳥居は、長府で既存品を購入し、ここに奉納したと門司郷土叢書には記載されています。
   
   
43 清滝公園  
 清滝公園は、明治44年11月福岡県・佐賀県で行われた特別大演習を統監する為、門司に立ち寄られた天皇陛下より門司市へ下賜された金五百円を元に、日本の公園の父といわれる本多静六に設計を依頼し、大正5年11月門司市の都市公園第一号として開園しました。しかし、谷地にあった為、昭和28年の大水害で壊滅的被害をこうむりました。現在滝の一部が、当時の面影をしのばせます。
 滝上部にある、しめ縄をはった大岩の上に、何故か五輪塔の一部、水輪が載っています。 

 なお、明治26年8月発行の九州鉄道旅客便覧に清滝公園の説明があり、上段部分は大阪の広岡氏が創設し、中段部分は小倉藩主小笠原が創設したと記載されています。このことから、門司市は、既存の私設公園を活用して都市公園にしたものと思われます。
 
右は開園当時の滝
 
   
44  鉄道レールが使われている歩道橋
 歩道橋は、西海岸から広石への通行を便利にするため、鹿児島本線の上に架けられています。
 橋の手すり等の一部に、破棄された鉄道レールが使用されています。その中に、刻印(ロールマーク)が残っているものがありました。刻印から、1960年10月八幡製鐵所で、製造されたものです。
45 報時球  
 航海士は、海上で現在地を知るために天測する必要がありました。その為、経度の測定には、正確なグリニッジ標準時を示すクロノメーターの設定が不可欠で、1829年報時球が初めてイギリスのポーツマスに設置され、その後世界各地の主要港に設置されました。
 日本では、明治36(1903)年に横浜・神戸港に報時球が設置され、つづいて明治40(1907)年頃に門司に設置されました。
 場所は、門司区役所から道路を挟んで海側の高台で、現在の公用車駐車場付近です。なお、報時球は昭和7(1932)年には門司税関庁舎の屋上へ移設され、ラジオ放送が普及するま、門司港の船舶をはじめ、関門海峡を航行する数多くの船舶に正確な時間を知らせていました。

 報時球は、東京中央気象台からの電話で、3分前に引上げ、午前12時にスイッチを入れ落としていました。
 
 
広石にあった時報台の報時球
 

黄色の四角内が、門司税関庁舎屋上の報時球
 46 鉄道線路下の排水路と白雲稲荷大明神
 第2広石踏切を渡った所に、側溝の水を線路下を通して海側に流す排水路があり、側壁及び上部は赤煉瓦で、天井石は負荷がかかるため花崗岩の切石が使用されています。材料及び構造から鉄道敷設時の構造物と思われます。
 踏切を渡った所にある住宅地は、車社会を反映し住む人もなく、廃屋が連なっている。この、廃屋から少し登ったところに、白雲稲荷大明神が二ヵ所祀られていますが、由緒は不明です。
参考文献等
北九州歴史散歩 豊前編 平成31年5月20日発行 特定非営利活動法人北九州市の文化財を守る会編
門司市史 昭和8年3月31日発行 門司市役所
北九州市史 近代・現代 行政 社会 昭和62年10月20日発行 北九州市
門司郷土叢書 第二巻 昭和56年9月30日発行 国書刊行会
門司郷土叢書 第五巻 昭和56年9月30日発行 国書刊行会
北九州の近代化遺産 平成18年11月25日発行 北九州地域史研究会
北九州の史跡探訪 昭和61年1月15日発行 北九州史跡同好会
北九州の歴史的建造物 平成元年9月30日発行 (財)北九州都市協会
福岡県の近代化遺産 平成5年6月15日発行 (財)西日本文化協会