門司区和布刈地区
2004年6月18日開設[2007年2月6日更新]
2022年4月23日全面更新
1 関門海峡    11 明石予次兵衛塔
2 和布刈神社 12 旧ノルウェー教会・ノーフォーク広場
3 五輪塔等 13 戒・猿猴河童塚
4 海事従事者慰霊碑 14 門司関
5 唐人墓 15 一の鳥居
6 関門トンネル 16 電気機関車
7 門司城跡 17 和布刈潮風広場
8 門司城の門跡 18 門司砲台跡
 9 古城砲台跡 19 平家の一杯水
 10 壇ノ浦合戦絵巻 20 門司兵器製造所跡 
1 関門海峡と関門橋
 本州と九州を隔てる関門海峡は、1日に4回、ほぼ6時間おきに潮の流れが変わり、潮流は最高10ノット(時速約18.5㎞)を超えることもあるため、古くから海の難所とされてきました。また、海峡は現在重要な国際航路として、1日平均700隻の船が往来していますが、古くは源平合戦等歴史的にも重要な場所となっております。

 関門橋は、昭和43(1968)年中国縦貫自動車道と九州縦貫自動車道を結ぶ高速自動車道として着工し、昭和48(1973)年に5年7ヵ月の歳月と約300億円の総事業費をかけ開通しました。全長は、1,068m で、海面からの高さは61mもあります。

 中の2枚の写真は、「めかり第2展望台」から門司港地区を望む写真で、左側は1984年撮影のものでレトロ地区整備前のものです。
  
   
 関門橋主ケーブル
長さ1.162km  直径67cm 全重量5,080t
  大正13年7月に点灯した門司埼灯台で、現在の建屋は、昭和62年10月に改築されました。
2 和布刈神社
 早鞆の瀬戸を望む九州最北端の神社で、門司区で最も古い神社です。
祭神 鵜葺草葺不合命
    日子穂穂手見命
    豊玉昆売命
    阿曇磯良命
由緒 神功皇后が新羅から帰還の折に、阿曇磯良の奇魂と幸魂を速門に鎮めたのが始まりと云われています。江戸時代までは、隼人(早鞆)社、または速戸社と呼ばれていました。また、旧暦元旦の未明干潮時に行われる和布刈神事(県指定無形民俗文化財)は大変有名です。
石灯篭(中)
 社殿前の階段下の海岸に置かれた灯篭で、旧門司の豪商永井力五郎(ながい りきごろう)氏の寄進によって建てられました。


石灯篭(右)
 社殿前に設置された灯篭で、細川忠興の寄進によって建てられたと云われています。
石灯篭(中)
 社殿前庭に設置された灯篭で、天明三年(1783年)の建立年や小笠原家の家紋三階菱が刻まれた灯籠があります。

石灯篭(右)
 細川忠興寄進と云われている灯篭の笠の接合部です。
3 五輪塔と句塚
五輪塔(中)
 和布刈神社から東側、関門海峡を望む海岸の岩の上にすえられている五輪塔。水輪と火輪のみしか残っていませんでした。


句塚(右)
 門司俳人協会が、壇ノ浦合戦で、亡くなった二位尼を始め多くの女官の供養と、戦士の哀史を語り継ぐ為に設置しました。
 句塚の傍らに、五輪塔の水輪のみが、同様に海岸沿いにあります。
4 五輪塔と海事従事者慰霊碑
五輪塔(中)
 和布刈神社の東側、道路を挟んだ和布刈公園山裾の建物跡の敷地内にひっそりと置かれていました。一基は、一石五輪塔で、もう一基は、水輪と火輪のみの五輪塔です。

海事従事者慰霊碑(右)
 この碑は、第二次世界大戦中に、関門海峡及びその周辺で殉職した、約三百人に余る無縁の人々を慰霊するもので、昭和21年1月旧門司の真光寺境内に建立されましたが、平成12年朝な夕な海峡を眺望できるこの地に、戦争の悲惨さと平和を願う為移設されました。
5 唐人墓
 関門国道トンネル人道口から東側、潮見鼻の高台にあります。元治元(1864)年、イギリス、アメリカ、フランス、オランダの「四国連合艦隊」は、長州藩の不法な攻撃に対して、下関の砲台を攻撃しました。その際、戦死したフランス軍艦セミラオ号とデュプレス号の水兵は、大久保海岸に埋葬されていました。その後、フランス人宣教師ビリオン神父が、明治28年に建てた慰霊碑が、唐人墓と言われています。そして、慰霊碑は、何度か移動し、現在地に落ち着きましたが、訪れる人も少なく、少し傾いています。
6 関門トンネルと人道
 関門国道トンネルは、昭和12(1937)年建設に着工し、約80億円の経費、延べ467万人の人々によって昭和33(1958)年3月開通しました。全長3,461mのうち海底部は780mで、地底最深部は標高マイナス約56m となっています。
 トンネルの上部は車道、下部は人道と2段に区切られた構造は、世界的にも珍しい海底トンネルとされています。人道は、エレベーターで昇降でき、無料で下関側へ歩いて行けます。また最近は、手軽なジョキングコースとして多くの市民に利用されています。
  中の慰霊碑は、トンネル建設中に亡くなられた殉職者52名と、病没者37名を慰霊するため、昭和33年3月建設省によって建立された碑です。

 トンネルの粗中央が、福岡県と山口県の県境となっており、トンネル内にその表示があります。
   
7 門司城跡
 全山が原生林に覆われている標高175.2mの古城山は、都を追われた平知盛が源氏との一戦に備えて築城したと伝えられている門司城の跡です。また、別称として門司関山城、亀城があります。その後、城主が何度か代わりましたが約400年間続き、藩主細川忠興の元和元(1615)年、幕府の一国一城の令によって破却されました。関門海峡を望む山頂には、記念碑と歌碑が設置されています。
8 門司城の城門跡
 門司城は、平知盛が長門国目代紀井通資に築城させたのが始まりと伝えられています。
 鎌倉幕府は、寛元2(1244)年、下総前司親房を平家残党鎮圧の下知奉行として、豊前国の代官職に任じ、門司六ヶ郷と筑前国香椎院内などを領しました。また、親房の子孫は、地名により門司氏を称し、門司城を本城に領内に足立・吉志・若王子・三角山・金山の五支城を構えていました。
 室町時代の末、門司半島は、豊後大友氏と大内氏、大内氏滅亡後は、毛利氏が争奪するところとなり、門司城はその渦中に置かれました。特に大友と毛利による、永禄の門司城合戦は壮絶をきわめと「後太平記」に記されています。その後も門司城は、城主が入れかわりながら続きましたが、元和元(1615)年、約400年に及ぶその歴史を閉じました。
 右の各写真は、和布刈公園内に唯一残る城門跡で、石段や石垣が良く残っています。
9 古城砲台跡
古城山砲台跡
 古城山砲台は、周防灘に侵入した敵艦制圧を目的に、明治21年2月に起工し、明治23年6月に竣工しました。
 現古城山公園に、24臼砲12門(7砲座)を設置していました。砲台座が並んでいた場所は、旧めかり山荘前の広場で、埋め立てられています。広場から、下の駐車場へ繋がる急傾斜の階段が、当時の面影を残しています。また、植込みの中に、有志が建てた石碑があります。
 地図の赤枠内が、古城山砲台の主要施設
です。 

 右の写真は、国民宿舎めかり山荘開設前で、左図の青線で囲った部分が写っています。
 なお、めかり山荘は、昭和38年に開業し、多くの観光客で賑わっていましたが、老朽化などにより平成24年3月で閉館、その後解体されました。

観測所跡
 山頂には、観測所の円形のコンクリート構造物が残存しています。また、観測所からの連絡通路も、そのまま残っています。

古城山砲台碑

観測所の跡
   
 古城山砲台には、堡塁としての機能を併せ持った施設が設置されていました。


倉庫
 この倉庫は、下関要塞の各所に設置されている、多くの倉庫と違い、入口横の窓もなく、内部も煉瓦壁によって間仕切りされており特異なものとなっています。
 また、内部は狭く、奥行きは3~4mほどしかなく概観の大きさとの落差が感じられます。

 倉庫前の山頂側には、観測所に通じる階段が2か所、また矢筈山堡塁に見られる、堀込の平地が設置されていますが、用途は不明です。



射垜(しゃだ・あずち)
 倉庫のある尾根を、一周する通路が設けられています。これは、麓から攻め登ってくる敵兵に対し、石垣で築いている防塁上から、射撃する施設で、射垜と呼ばれています。


 また、尾根上に江戸時代の瓦が散乱していることから、ここにも門司城の施設があったことが伺われます。  

倉庫前の道路

倉庫の入口

倉庫の内部


   
10 壇ノ浦合戦絵巻
 古城山公園から下る途中にある「めかり第2展望台」の木製テラスデッキ横に、有田焼陶板で造られた高さ3m、長さ44mの「壇ノ浦合戦絵巻」があります。原画は赤間神宮所蔵「紙本金地着色安徳天皇絵」の一部を基にしており、屋外陶板壁画としては日本一の規模を誇ります。
 なお、このデッキのすぐ下の山腹内に8の門司城城門跡があります。
11 明石与次兵衛の塔
 佐賀県名護屋城にいた豊臣秀吉は、文禄元(1592)年母の急病を知り、急ぎ大坂城に向かいましが、途中船奉行明石与次兵衛の過失により大里沖の篠瀬で船が座礁しました。
 秀吉は危うく難をのがれましたが、与次兵衛は、その責任をとって大里の浜で切腹したといわれます。
 その後、豊前に入国した細川忠興は、この瀬の上に与次兵衛の霊を弔うと共に、航路安全の標識として石塔を建てました。
 この石塔は、シーボルトが江戸参府する途中の、文政9(1826)年2月22日、小倉から下関へ渡海する際に見分し、『NIPPON』に下図のとおり掲載されています。しかし、この塔は文政11(1828)年、嵐によって海中に流されました。

 その後、柳ヶ浦の里人によって、現在の石塔が建てられました。
 しかし、大正4(1915)年頃、関門海峡改良工事の際、この瀬は塔と共に取り除かれ、塔は一時下関に運ばれ海中に沈められていました。  
 その後、昭和29年海中より引き上げられ、和布刈公園に再建されましたが、関門橋建設に伴い、昭和47年海峡を望むこの地に移設されました。 
 
赤枠内が、元の篠瀬で、後に与次兵衛岩と呼ばれました。
12 旧ノルウェー海員教会とノーフォーク広場
 明治38(1905)年米国より来日したクリスチャン建築家W.M.ヴォーリズが、明治41(1908)年に創立した一粒社 ヴォーリズ建築事務所が設計し、昭和48(1973)年に開設した、ザ・ノウェジャン・シーメンミッション ノルウェイ海員教会です。
 昭和57年(1982年)に、北九州市優良建築物賞を受賞しています。以前は、ノルウェーやスウェーデンなどの船員の休養施設として使用されていましたが、現在は、レストランとして使用されています。
 ノーフォーク広場は、昭和61(1986)年、港町ノーフォーク市のイメージに合わせて整備されました。
 旧門司市は、昭和33年、大阪商船「ほのるる丸」が処女航海で、門司港に寄港したおり、門司の風師人形を贈りました。その後、同船が、アメリカバージニア州のノーフォーク港に寄港した際、ノーフォーク市長が風師人形を見て感銘を受けたのがきっかけとなり、昭和34(1959)年門司市と姉妹都市の提携を結び、北九州市に引き継がれています。
   
旧門司市の市歌碑
13 戒・猿猴河童塚
 巡視船基地入口の横に祀られている河童塚で、里人に捕まえられた河童が和布刈神社の宮司の前に引き出され、今後絶対に悪いことはしないと約束したことを誓ったことに由来すると云われています。
14 門司(文字ヶ)関跡と歌碑
  門司は、都と太宰府を結ぶ重要な地であったため、大化2(646)年この地に関所「門司関」が設けられました。関所では、海峡を往来する旅人や船等を調べたり、都と太宰府を行き来する役人の世話や駅馬を置いていました。しかし武家が勢力を持つ鎌倉時代に入ると関所の役割は、門司城へと移るようになり、以降は門司関は関所としてではなく地名として残りました。また、昔より、詩歌等に数多く詠まれており、右の写真は、承徳元年(1097年)、源俊頼が帰京の途中に詠んだものです。
 行き過ぐる 心はもじの関屋より
     とどめぬさへに 書きみたりけり
  現在は、文字ヶ関公園となっていますが、明治時代には山側の道路は、下関要塞の門司砲台、古城山砲台への軍用道路となり。その後海側には、門司兵器修理所が設置され、一帯は海岸防禦地となり、市民は立入ることは、出来ませんでした。
 門司兵器製造所が、大正5年に移転した後、当時の永井環門司市長から、名勝旧跡である文字ヶ関を保存し、市民に開放したいとして軍用地の無償譲渡申請を陸軍へ提出、大正7年に許可されています。右2点の図は、その時の図で、井戸と榎の木があったことが記載されています。
 
井戸の場所が、「井」で表示されており周りが一段高くなっていたことが分かります。
 
井戸は、「関の井戸」と表示されており、井戸の右下に榎の木があったことが分かります。
15 和布刈神社一の鳥居と引込線トンネル入口
 和布刈公園の入口に、巨大な和布刈神社の一の鳥居がそびえ建っています。門司関は、その鳥居の左側、木々が生い茂っている場所にあります。また、鳥居の右側には、昭和3(1928)年田野浦に竣工した福岡食糧事務所門司政府倉庫(旧門司米穀倉庫)へ運搬した貨物専用鉄道のトンネルがあります。
 現在は、観光トロッコ潮風号が利用しています。
16  電気機関車  
  平成21(2009)年4月に開業した観光トロッコ潮風号の関門海峡めかり駅の横に、国鉄時代の車両が展示されています。
 電気機関車は、昭和36年6月、国鉄の鹿児島本線(門司港~久留米間)と山陽本線(小郡~下関間)の電化が行われましたが、九州は交流に対し山口は直流であった為、関門トンネルを通る交直流共用として製作されたのが、ここに展示されているEF30型です。
 客車は、同時期に使用されていたオハフ33型で、昭和23年3月に日本車両で製作されたものです。
 なお、両車両とも以前は、下の写真のとおり小倉北区の勝山公園内に屋根付きで展示されていました。現在は、潮風をまともに受けているため、錆びがひどくなっています。 
  
   
17  和布刈潮風(雨ヶ窪)広場  
 山際には、関門国道トンネル水抜立坑の上屋が建っています。

 タコをモチーフとした滑り台が公園の中心部に設置されています。このタコ遊具は、特産品の「関門海峡タコ」にちなんで、平成22(2010)年に設置された日本最大級のものです。
 
 
   
 公園から古城山への山道に入ると、陸軍の境界杭があります。下関要塞の古城山砲台の用地境界を示すものと思われます。
 さらに、つづら折りの道も残っており、門司城への登城道の可能性があります。麓の広場は、雨ヶ窪と呼ばれており、現在は埋め立てられていますが、門司城の北西側の入江で瀬戸内海に面しており、水軍の上陸にはうってつけの地形となっています。
   
18 門司( 和布刈)砲台跡  
  早鞆の瀬戸に侵入してきた敵艦船を攻撃するため、明治26(1893)年11月に着工し、明治28年7月に竣工した、下関要塞の砲台で、24糎加農砲2基設置していました。
 中の地図は、砲台が和布刈神社の北側海岸に、位置していたことを示しています。
 右の写真は、戦後に撮影されたもので、大砲等は撤去されていますが、海岸側には胸墻となる石垣があったことが分かります。
 
 門司砲台は、右の写真のとおり、関門国道トンネルの人道口と海岸沿いの道路新設によって消滅し、碑のみがあります。
 
 
19 「産湯井」「平家の一杯水」  
  以前は、平家の一杯水として「めかり会館」と「めかり毎日荘」の建物の間にあり、崖から湧き出る水を受ける水槽が設置されていました。
 現在は、両方の建物はなくなり、崖も改修され、岩場が再現されています。
 云われは、神武天皇の父である鸕鶿草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)が使った御産湯の井戸に由来するが、 実在した人物とは考えられないので、伝承そのものが疑わしいものです。
 もう一つの、平家の一杯水は、壇ノ浦合戦の折、平家の武士達が、ここから湧き出た水で、喉を潤したことに由来しています。
 
以前の外観
 
現在の外観
 
以前の湧き水
 
20  門司兵器製造所・門司海軍炭庫跡  
  明治17年、海軍は軍艦の燃料である石炭を備蓄するため、燃料倉庫を設置しました。
 明治27年、三井家寄附奉納金を元に、隣接地を埋立、門司兵器修理所の建設に着工、翌明治28年4月に完成しました。
 明治30年4月、兵器修理所は、野戦首砲廠から大阪砲砲兵工廠へ移管され門司兵器製造所に改称しました。その後の明治32年には、西側海岸を工廠拡張のため、埋立を行っています。
 しかし、敷地が狭隘であった為、大正5年4月小倉市へ移転し、小倉兵器製造所に改称されました。

 その後、門司市の有志で設立準備中の高等海員学校へ敷地と建物の借用願いがありましたが、被服本廠門司派出所が使用し、大正7年には小倉兵器支廠の門司出張所が設置されたようです。
  上の図は、工場等の配置図で、下の写真は、兵器製造所の外観です。
 
 地図の赤枠内が、兵器製造所で、現在はノーフォーク広場の駐車場となっています。また、青枠内が、海軍の炭庫で、右の写真は、オレンジ色の→から見た現況です。
 
参考文献等
北九州の史跡探訪 昭和61年1月15日発行 北九州史跡同好会
北九州の史跡探訪 平成2年9月1日発行 北九州史跡同好会
北九州の港史 平成2年3月発行 北九州市港湾局
門司の歴史 平成16年3月発行 門司区役所 まちづくり推進課
改訂版小倉陸軍造兵廠 平成24年9月2日発行 中原澄子
JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A03020304700他