門司区旧門司・東本町・東門司・老松町・庄司町・丸山・長谷周辺地区
2022年5月31日開設(2022.7.7追加・2022.8.24追加・2022.9.2追加)
1 甲宗八幡
20 歩道幅確保
2 地名由来の井戸 21 明応山 三光寺
3 法性山真光寺 22 料亭 岡崎
4 龍雲山 崇聖寺 23 西蓮寺
5 龍宝山 崇聖寺 24 龍門山 東明寺
6 西光寺 25 林現寺
7 三井倉庫群 26 福聚山 太山寺
8 門司運河跡 27 要塞地帯標石・長谷弾薬本庫
9 門司ロープウェイ 28 丸山陸軍倉庫
10 国道トンネル 29 水禍追憶之碑
11 岩田商店 30 西福寺
12 老松公園 31 妙法山 廣厳寺
13 中央市場 32 瑞雲山 妙音寺
14 本行寺 33 陸軍標石
15 東明山 大雄寺 34 軍用道路
16 旧庄司小学校 35 砂利山框舎
17 貴船神社  36 四国八十八ヶ所
18 地蔵寺 -
19 大光明院 ※ 門司市長 永井環
1 甲宗八幡神社
本居宣長翁歌碑】
江戸時代中期の国学の大家・本居宣長翁(1730~1801)の歌碑で大正13年(1924年)に建立されました。碑文には「海の外 おきつ千しまも 天皇の 御稜威かしこみ いつきまつろふ」と刻まれています。
(こうそうはちまんじんじゃ)
 門司六ヶ郷(楠原郷・柳郷・大積郷・伊川郷・吉志郷・片野郷)の総鎮守であり、源氏・平家のゆかりの地としても知られています。また、甲宗八幡宮、門司社(甲宗社)、門司八幡宮(門司関八幡宮とも呼ばれていました。旧社格は、県社です。

祭神  応神天皇
     神功皇后
     宗像三女神
       市寸島比売命
       多紀理比売命
       多紀津比売命

由緒 貞観2(860)年、清和天皇の勅使一行が、宇佐の八幡神を山城国男山(石清水八幡宮)へ遷座する途中、門司関で霊峰と崇められていた筆立山の山麓に滞在しました。
 滞在中、筆立山上空に瑞雲がたなびき、八流(やながれ)の幡(はた)を天降(あもり)して、光り日月のごとく勅使行教の袈裟を照らしました。
 行教は、「大神の出現疑うべからず」と朝廷に上奏ししました。喜んだ清和天皇の勅願により、この地に八幡神を分祀し、併せて神功皇后着用の甲を御神体として、奉斎し創建されたのが始まりとされています。

 ※甲(かぶと)を、ご神体としていることから甲宗と称すようになったと云われています。


背後の山が、筆立山

参道の階段上の鳥居は、出光佐三氏が
寄進した二の鳥居

明治30年発行の地図で、参道の下近くは海でした。

左の状況が良く分かる写真

現在の拝殿は、昭和33年長谷にあった武徳殿(武道場)を移築したと云われています。

平安神宮と同様に、風水思想に基づき、左右に楼閣が設置されています。
 境内には、多くの歴史的遺産や慰霊碑等が、大切に保存されています。

 上の写真は、裏参道に設置されている鳥居。 
 
 
 平知盛の墓と云われているいるもので、右の宝篋印塔は供養塚です。

 ※平知盛は、平清盛の四男として壇ノ浦合戦での平氏滅亡を見届けた後、海へ身を投げ自害したと云われています。


 三綱石は、三韓からの朝貢船の舫い綱を、岸に括り付けた繋ぎ石で、創建時からのものと云われています。しかし、神社の創建年と、古代朝鮮の三韓とは時代が合いません。
文政8(1825)年建立の鳥居 

平知盛墓と供養塔

三綱石
 本居宣長は、江戸時代の国学者で伊勢国松坂の豪商の次男として生まれ、一時期紀伊藩に仕えましたが、大半は市井の学者として過ごしています。歌碑は、大正13(1924)年に建立されたもので、「海の外 おきつ千しまも 天皇の 御稜威かしこみ いつきまつろふ」と刻まれています。

 川江直種は、小倉北区篠崎八幡神社の宮司ですが、歌人でもありました。歌碑には、明治12(1879)年親戚である甲宗八幡神社例大祭の折に詠んだ歌で、「豊国の 門司の関やの 岩清水 くみて昔を 知る人もがな」が刻まれています。なお、碑は昭和46年に建立されています。
 
本居宣長の歌碑
 
川江直種の歌碑
  村田為吉は、河内の生まれで門司港の発展に着目し、石炭の荷役業「いろは組」を起こし、磯部松蔵の磯部組、自念金蔵の自念組と肩を並べる荷役請負業者の代表格でした。碑は、昭和43年に再建されたものです。

 花塚は、文政11(1828)年の建立年が刻まれています。
 
村田為吉翁之碑
 
花塚
 火野葦平は、若松が生んだ芥川賞作家で、碑文には「足は地に、心には歌と翼を、ペンには色と肉を」と刻まれています。碑は、母校である早稲田大学校友会により、彼を戦場へ送った地で、かつ大作「花と竜」ゆかりの地である門司に、昭和57年に建立されました。

 小倉歩兵第114連隊第7中隊は、支那事変勃発に伴い、昭和12年9月小倉で編成され、門司港より出征し杭州、南京、広東、シンガポール、ビルマと各地を転戦し、昭和17年4月全滅しています。慰霊碑は、昭和43年に建立され、碑面には火野葦平の「杭州西湖の思い出に 西湖の水の青くして 紅木蓮の花咲けば たづぬる春の身近く 兵隊なればたのしかる」の詩が刻まれています。
 
火野葦平詩碑
 小倉歩兵第114連隊第7中隊慰霊碑
 忠魂碑は、日露戦争を記念して大正2年に建立されています。

 大神貴文翁は、明治37(1904)年に若干20歳で甲宗八幡宮第43代宮司となり、以来60年の長きにわたり神社界の発展に尽力しました。また、戦災による境内の焼失、子息の戦死など苦難がありましたが、神社本庁より「長老」の称号と「鳩杖」を授かり、昭和39年80歳で亡くなりました。銅像は、生前の翁の業績を讃え、氏子崇敬者等によって、昭和40年11月建立されました。
 
忠魂碑
 
大神貴文翁の像
2 地名由来の井戸
 甲宗八幡神社から北側、現在の旧門司一丁目11番に古い井戸があります。
 門司に、寄港する船に対し、水を提供していた井戸が多くあったことから、古くは井戸町と言われていました。その町名の由来となった井戸で、横には地名由来碑が建っています。

3 法性山 真光寺
浄土宗
本尊 阿弥陀仏
由緒 創建は、寿永(1182~1184)年間で海徳寺と号し、真言宗でした。その後の慶長16(1611)年、門司城の城代長岡勘解由佐衛門は、菩提寺とする為、浄土宗に改宗し、寺号を真光寺に改め、秀伝和尚を中興開山としました。
 慶応2年、長州藩との戦禍により焼失、以後再建するも第二次世界大戦により焼失しています。

 境内には、一石五輪塔等があります。
4 旧龍雲山 崇聖寺
臨済宗
本尊 ?
由緒 「和漢禅刹次第」{扶桑五山記」に、無涯禅師が開基したと記載されている。無涯禅師は、京都市の東福寺第七世無為照元に師事し、博多の承天寺を経て、東福寺の第十九世となった後に、門司関に崇聖寺を開山したと云われており。没年から開山時期は、鎌倉時代末か南北朝初めと思われます。

門司版五部大乗経 
 五部大乗経は、平安から室町時代に最も功徳がある総合経典として、国家安穏・五穀豊穣を祈願するため重要視され、数ヶ寺が版元となり印刷されています。この内、門司版は、崇聖寺の元積が応永6(1497)年に印刷したもので、現存が確認されているのは、大方廣佛華厳経、大方等大集経、大般涅槃経、妙法蓮華経です。北九州市には、大方廣佛華厳経巻五十五が保管されています。
 
荒廃した宗聖寺の復興
 
明応6(1497)年、周防・筑前の守護であった大内義興が、荒廃している豊前国初の禅寺である宗聖寺の修造について、その資金(銅銭・綿布)提供を求めた文書が、残されています。なお、結果は不明です。

崇聖寺の位置

 北部九州の偏狭な地にありながら、五部大乗経を印刷する資力があり、且つ荒廃時には、守護職が復興に力を貸している宗聖寺の存在は、興味をそそられますが、門司関という記載のみで、位置は確定されていません。 
 大正時代に、門司版五部大乗経を地元及び国内の研究者に紹介した永井環の調査によると、旧古城小学校建築時に、埋まっていた五輪塔等の石碑を確認し、周辺を踏査したところ、畑より燈明用の油壺、鉄製の吊灯籠、石仏等を発見しています。また、周辺には薬師堂、一字一石塔等も存在していることから、、旧古城小学校一帯を、旧跡地と推定しています。 

大方廣佛華厳経の奥書きに門司関宗聖寺とある
 
鉄製の吊灯籠
 右の2点は、永井環著「門司関崇聖寺と門司版華厳経」に、写真掲載されている灯籠などです。現在は、門司図書館に展示されています。
鉄製灯籠
 
石仏(朝鮮伝来?)
5 龍宝山薬師院 崇聖寺
曹洞宗
本尊 十一面観世音菩薩 薬師如来
由緒 大正時代に認知された門司版五部大乗経から、旧門司の旧家が中心となって宗聖寺の再興を計画したのが、現在の宗聖寺で、昭和18年に寺号の認可を受け、昭和39年に本堂を建立したとされています。
 境内には、廃寺となっている崇聖寺に係る石塔物が沢山祀られています。
 永井環著「門司関崇聖寺と門司版華厳経」に、一字一石塔として写真掲載されているのが、右の宝篋印塔です。元は、薬師堂の入口にあり、元文三戌歳(1737年)四月泉州堺 和泉屋半右衛門政甫の寄進で、台石には文化六巳歳(1809年)禅眼之を改造と刻まれています。
 大乗妙典一字一石塔も。文化年間の造立年が刻まれています。
 下段は、一石五輪塔と五輪塔残欠です。
 
宝篋印塔
 
大乗妙典一字一石塔
     
6  西光寺 
浄土宗鎮西派
本尊 阿弥陀如来
由緒 元和元(1615)年、小倉の大阪町に正誉宗益が開山した西光寺が、道路計画の為、明治41年9月現在地へ移転したとあります。
7 三井倉庫群
 大正8年と大正13年の門司新市街図に、三井倉庫と東神倉庫街が記載されています。現在の出光美術館から北側、第二船溜までの街区です。
 会社のホームページによると、明治23(1890)年、日本初の資本主義恐慌により東京日本橋箱崎町等の倉庫が三井銀行の所有になり、三井銀行倉庫部が設立され、その後の明治42年10月11日「東神倉庫株式会社」として独立し、本店を東京に、支店を門司に設置。昭和17年3月社名を「三井倉庫株式会社」と改称したとあります。なお、東神倉庫の名称は、東京と神戸にあったことに由来すると記載されています。 

2005年2月撮影、現在は駐車場。

2005年2月撮影
 大正13年の門司新市街図
明治32年の地図では、東港町の街区は完成しています。 
 門司運河跡
 門司運河は、明治22(1889)年より始まった門司港湾整備時に、第一船溜と、その北側にある第二船溜とを結ぶ水路として整備されました。
 門司港は築港開始と同時に特別輸出港に指定され、物流に活躍した運河は、次第に利用されなくなり、悪臭を放つどぶ川となったため、戦前に暗渠化されています。 

下部の水色部分が運河

第二船溜からの運河入口
 
運河跡の道路

道路下から現れた運河の石積護岸
(市原猛志氏2017年撮影)
9 門司ロープウェイ跡
 昭和33(1958)年3月、関門国道トンネルの開通に合わせて開業した門司ロープウェイは、トンネル入口と古城山砲台跡とをむすぶ全長604m、高低差101mのロープウェイで、6人乗りの小さなゴンドラが約6分で運行していました。
 国道トンネル料金所近くの跨道橋を渡ると8階建ての「ロープウェイ・ステーションビル」があり、ビル最上階から発着所しする自動循環式の索道でした。
 しかし、開業時から赤字経営で、僅か6年の営業期間で昭和39年1月に廃止になっています。

ロープウェイ・ステーションビルの跡

稼働中時のロープウェイ
「北九州思い出写真館」(1993年)より
10 関門国道トンネル
 関門国道トンネルは、昭和12(1937)年建設に着工したものの、戦時中の資材不足等により工事は、中断されました。そして、戦後の昭和27年工事を再開し、着工から21年後の昭和33年開通しました。全長3,461mのうち海底部は780mで、片道1車線となっています。
 料金所の上が、跨道橋となっています。
11 岩田商店
 岩田商店は、明治32(1899)年に酒類の販売を開始しましたが、主な取引先は旧国鉄でした。その為、JR九州の本社機能が、福岡市へ移ったのを機に、本店は平成3年福岡市へ移転しました。 それ以降、門司店として営業していましたが、平成12(2000)年閉店しました。
 建物は、大正11(1922)年に竣工しており、主屋の他、土蔵や防火壁として赤煉瓦塀が残っています。
 近代を代表する町屋建築として、平成18年に市指定文化財に指定されています。また、平成29年には、日本遺産「関門"ノスタルジック"海峡」の構成文化財となっています。 
   
12 老松公園
  現在、市民の憩いの場となっている老松公園は、明治28年1月陸軍が兵器保管所として、砲兵第三方面本署を開設したのが始まりです。その後、明治29年9月陸軍兵器条例の制定により、門司兵器本廠と組織変更されています。兵器本廠は、全国に東京・大阪そして門司の三か所で、門司には広島・熊本・下関の三支廠の他、分廠、兵器・弾薬庫を管轄していました。
 しかし、明治36年5月兵器本廠の統合により、兵器支廠となり、大正6年には小倉へ機能移転等により廃止され、敷地は門司市へ払下られ老松公園として整備されました。
 
 公園南側には、昭和7年10月門司市によって建立された慰霊碑があります。慰霊碑手前の鳥居は、昭和13年12月、草野宗市によって奉献されたものです。

大正2年の市街図には陸軍用地と表示
 大正13年の市街地図には公園の表示
  公園に隣接する門司市民会館の正面には、猿喰新田開発で知られる石原宗祐が、宝暦9(1759)年に猿喰完成を記念して屯所の裏に植えられたものと伝えられている、蘇鉄があります。この蘇鉄は、宗祐から七代目の孫によって、昭和33年に寄贈されたと説明されています。    
13 中央市場(旧公設市場)
 大正9年に開設された公設市場が始まりとされている中央市場で、昭和30年頃にアーケードが建設されています。
 14 本行寺 
法華宗
本尊
由緒 明治44年5月、広石町に教会所を設置を設置をしたのが始まりで、大正3年許可を得て、現在地に建立したと云われています。 
  
15 東明山 大雄寺 
日蓮宗
本尊 十界曼荼羅
由緒 明治38年5月小倉の妙法寺廿二世大雄院日常が、有信結社教会を設置したのが始まりです。そして、大正15年6月、山梨県知事の許可を得て、文禄四年山梨県南巨摩郡本建村に創建された神通坊をこの地へ移転し、大雄寺に改称したと云われています。
   
16  旧庄司小学校と一石五輪塔  
 庄司小学校は、大正11年2月13日錦町尋常廠から分離して創立され、4月1日庄司尋常小学校として開校しています。しかし、近年の児童数減少により、 平成7(1995)年、門司小学校に統合されて門司中央小学校になったため、廃校となりました。
 校舎敷地の南東側に隣接する墓地があり、花崗岩製の一石五輪塔が二基祀られています。なお、校舎敷地の北東には東明寺城があります。
17 貴船神社
祭神 高淤加美神、闇淤加美神、
     弥都波能売神
祭日 九月廿二日廿三日
由緒 創立年不詳

 境内には、文化十四寄進の水盤や方向盤が設置されています。
 
 右の方向盤には、元門司村と元楠原村の寄進者名が刻まれていますが、建立年は不明です。なお、上面には東西方向等が刻まれています。  
18 地蔵寺
高野山真言宗
本尊 ?
由緒 明治33年、延暦寺が派出説教所を開設したのが始まりで、大正11年12月真言宗に改宗し、高野山より地蔵寺の寺号を移したとあります。

 明治44年裏山に、新八十八箇所を設置したとあります。
 また、本堂は昭和20年6月29日の戦災で焼失しています。 
 
 境内の一角に、地縁・血縁の無くなった墓石が寄せられています。その中に田野浦にあった遊女屋で亡くなった遊女の墓石があります。なお、墓石には源氏名が彫り込まれています。  
  また、境内には石灰岩製宝篋印塔の隅飾部や、花崗岩製の一石五輪塔が祀られています。  
 19  大光明院
真言宗
本尊 延命地蔵菩薩坐像
由緒 大正10年11月許可を得て、高野山西院谷から門司へ移転、開基は兼覚大智房と云われています。金剛峯寺の末となっています。

 山門は、円礫と角礫を張り付けた独特の構造物となっています。
 境内には、門司市出身で陸軍軍人、衆議院議員で右翼活動家であった橋本欣五郎の碑があります。橋本は、陸軍将校等と三月事件・十月事件を計画したほか、大日本青年党(後に、大日本赤誠会へ改称)を組織し、ファシズム運動を展開したこと等により、極東国際軍事裁判でA級戦犯として起訴され、終身刑になりました。その後、仮釈放され、参議院選挙に立候補しますが、落選しています。  
  20 歩道幅確保の工夫跡
  庄司町16番地内の石垣上部に、柱状に加工した花崗岩が、上部平坦面から、空中に約30cm程張出して並べられています。これは、張出した柱に木材を乗せ、傾斜地の歩道幅をより広く確保するした跡です。柱には、木材を固定したボルトが残っています。  
21 明応山 三光寺 
浄土真宗本願寺派
本尊 菩提即行の阿弥陀像
由緒 元は、天正年間門司村にあった明応寺[梶が鼻の上]、観音寺[旧兵器製造所の上]、大通寺[旧門司墓地の下]の三ヶ寺を明応寺の住職明順が一堂に合祀して、旧海軍需品庫事務所があったところへ、文禄元(1593)年建立したのが、三光寺の始まりで、当初は天台宗でした。慶長(1596)元年、真宗に改宗。その後、明治21年海軍により境内が買収されたため、旧門司にあった旧大通寺跡に移転しましたが、大正4年1月現在地に移転したとあります。
    
大正4年4月に建立された由来碑
22  料亭 岡崎 
 懐石料理で知られている料亭岡崎は、旧門司市に於ける最高の人格者と言われていた、磯部仁左衛門の邸宅でした。
 磯部氏は、明治18年5月門司に生まれ、先代松蔵の跡を継いで、船舶・海運等の業に才腕を振るい、大正7年市会議員に当選、大正8年には門司市小学校教員住宅敷地等へ充当する為、土地1反6畝を寄付し、大正10年紺綬褒章を授与されています。
23  西蓮寺 
浄土真宗大谷派
本尊 阿弥陀如
由緒 明治41年3月、小倉の西応寺住職川村寿党が、現在地に説教所を開設したのが始まりで、昭和11年に現在地へ移転し、昭和17年に西蓮寺に改称したとあります。
24 龍門山 東明寺  
天台宗
本尊
由緒 明治33年、天台宗総本山は派出説教所を開設したのが始まりで、大正9年に開基され、後に東明寺城址に散在する多数の墳墓の菩提を弔った為、東明寺と称するようになったと云われています。昭和26年に、寺号が認可されています。
    
25 林現寺  
浄土真宗本願寺派
本尊 阿弥陀如来
由緒 明治43年山口県知事の許可を得て、天正年間に山口県佐波郡防府市三田尻で創立された林現寺を現在地へ移転したとあります。
    
26  福聚山 太山寺 
高野山真言宗
本尊
由緒 昭和23年に創建されたという。
   
27 下関要塞地帯標石・長谷弾薬本庫
 長谷一丁目の道路脇に、明治32年7月に公布された要塞地帯法から2か月後の9月に設置された地帯標石が建っています。


  要塞地帯標石がある前の道が、明治32年に設置された下図の長谷弾薬本庫に通じる軍用道路で、現在のテニスコート場に弾薬庫が設置されていました。

 
 長谷弾薬本庫の概要は、大正13年12月の除籍解体申請及び大正14年8月の除籍申請書に右のとおり記載されている。
 なお、大正8年2月には下関要塞の堡塁・砲台除籍に伴い収容品は減少しており、特に火具庫は空となっていた。その為、同庫の避雷針は、他への転用申請が出ている。、
 
火薬庫    梁間4間×桁行10間   1棟 煉瓦小屋組造 瓦葺
備砲格納庫 梁間5間×桁行10間   1棟 
弾丸本庫   梁間3間半×桁行10間  1棟 
火具庫    梁間2間5×桁行5間2  1棟 木造 瓦葺 
装薬調整所 梁間2間×桁行3間    1棟 木造 屋根亜鉛板葺
厠圊     梁間1間3×桁行1間31  1棟 木造 瓦葺
衛兵所    梁間3間×桁行2間3    1棟 木造 瓦葺
堀井戸
28 丸山陸軍倉庫と門司高等学校丸山小学校・吉野中学校
 明治28年3月に、丸山町の谷間に約1万坪の陸軍倉庫が設置されました。
 倉庫群は、大きくは3群に分けることが出来、谷の奥に土塁に囲まれた火薬庫が4棟、谷の入口から中央の通路を挟んで東に6棟の倉庫1群と、西に9棟の倉庫2群となります。
 
 陸軍倉庫が廃止となった後の、大正12年火薬庫跡地に門司中学校が開校します。そして、学制改革により門司高等学校に改称し、平成21年に閉校となりました。  同じく大正13年に、倉庫2群跡の北側に丸山尋常小学校が開校します。そして、平成7(1995)年錦町小学校と統合し、門司海清小学校となりました。
 また、昭和22年同上敷地内に第三中学校が開校、昭和26年に吉野中学校に改称しました。そして、平成9年、港中学校と統合し、敷地総てが門司中学校となりました。
丸山倉庫に係る公文書等
明治28年5月  野戦首砲廠 より、門司丸山倉庫増築及軽便鉄道布設の申請
            門司丸山倉庫増築申請の内容  倉庫五棟 火薬庫二棟  合計七棟ヲ増築
            倉庫ヨリ海岸ニ至ル延長八百間ノ間軽便鉄道ヲ複線ニ布設シ 終端ニ木製起重機ヲ設置
明治28年11月 野戦首砲廠長より、火災消防具備付けの許可申請
明治37年12月  門司兵器本廠より、 電燈設置の申請
            夜間作業並ニ夜中荷物運搬ノ為メ電燈設置ヲ要シ候
29 水禍追憶之碑
 昭和28年6月28日、北部九州を襲った豪雨により、北九州市内は河川の氾濫・山腹崩壊等により、大被害を受けました。
 その時の被害を、後世に伝えるために碑が建立されています。
 
   
30 西福寺
浄土真宗本願寺派
本尊
由緒 大正12年8月に開基し、昭和4年寺号が認可されています。
31 妙法山 廣厳寺
曹洞宗
本尊
由緒 明治42年、周妙策紋大和尚が開設した西方寺説教所が始まりで、昭和6年現在地に新築移転しました。そして、昭和11年佐賀神埼郡にあった廣厳寺に改称し、寺号が認可されています。
32 瑞雲山 妙音寺
天台宗
本尊 観世音菩薩
由緒 大正5年、妙月大法尼が開基し、昭和26年に寺号が認可されています。
 33  陸軍の防御営造物標石
 右及び上の道路は、下関要塞の砂利山框舎(きょうしゃ)へ通じる軍用道路で、道路左側斜面に、陸軍設置の防御営造物標石があります。
 標石、御影石製で、「防」が刻まれており、軍用道路敷地の境界を示すものと思われます。
   
34 砂利山框舎へ通じる軍用道路  
 明治31年8月、陸軍築城部より 砂利山框含交通路建築の伺いがあり、同年9月築城部下ノ関支部から民有地四町一反六畝の収用及び代金5、106円15銭、樹木移転費157円38銭、作物移転料に13円27銭の経費見積が計上されています。このことから、早く同年末から、道路の新設工事が始まったと思われます。しかし、道路は山頂部手前、約50mのところで中断されており、完成には至ってないと思われます。
 関門霊園内の資材置き場の奥に、今は使われていない軍用道路が残っています。 

未舗装の道路が軍用道路

谷の部分は、石垣で埋め平坦部を造成
 
谷部にある「陸」「防」と刻まれた境界石

側面は、切石の石積みで保護

道路横の石積の側溝と排水桝
 丘陵尾根を断ち切って造られている  山側に石積の道路側溝 山頂手前で、道路が無くなる 
35 砂利山框舎  


框舎は、明治33年7月制定の「堡塁砲台構造ノ様式」に、下記のとおり規定されています。

一 框舎ノ目的ハ其地点ノ占領ヲ確実ニシ或ハ砲戦砲台ヲ援護シ又ハ此両任務ヲ併有スルコトアリ
二 框舎ノ編成ハ通常左ノ如シ
 (一) 機関砲約四門(要スレハ小口径(七珊米半以下)速射砲約二門ヲ加フ)
(二) 守兵約二分一小隊
(三) 単簡有威ノ自衛ヲ要ス
(四) 框舎ノ構造ハ敵弾殊ニ垂直射弾ニ対シ安全ナル穹窖式トス而シテ其細部ノ設備ハ側防框舎ノ例ニ準ス但シ陸正面ノ框舎ニシテ露天トナス件ハ其胸墻ハ比噸製トシ砲及砲手ノ掩蔽部ヲ設クルヲ要ス

 
 砂利山山頂は、平坦になっているが、造成されたのか、自然地形などかは、判明できなかった。
 
 山頂には、東郷村村有林の境界杭があります。従って、昭和4年11月に門司市へ編入されるまで、砂利山は東郷村の区域内であったことが明らかになりました。
 36 新四国八十八ヶ所 
 白鑑寺から奥に進むと、昭和24年11月に建立された新四国八十八ヶ所建立記念碑があります。そこから、グーグルマップで石鎚山北峰となっている山頂まで、つづれ折の登山道を築き、要所要所に「第三十三番薬師如来 寄進者名」等と台石に刻んだ仏像が設置されています。また、山頂には、高石垣の上に石祠があり、傍に石鎚神社崇教会□□門司本部と刻まれた石が倒れています。
 
   
山頂の石祠
     
 ※トピック 文化財保存に尽力した門司市長永井環 
 地方行政のトップリーダーである市長が、率先して文化財の保護に尽力した話を聞いたことがありますか。その市長は、慶応元年福井藩士の長男として生まれ、現在の東大法科を卒業後、判事、内務官僚、宮崎県知事を経て、明治41年7月門司市長に就任した永井環です。永井は、古書の蒐集を行っており公余に暇があれば、本で埋め尽くされた部屋で読書三昧に耽けていました。

 保存取組の一点目は、関西より取寄せた古書目録中に「門司版華厳経巻五十八応永己卯豊前州門司関崇聖寺梓行」とあるのを目にし、直ちに注文したが、他に売却の後でした。しかし、諦めきれず門司新報社に話したところ、経本類を多く所蔵している小倉衛戍病院長の嶋田氏を紹介されました。大正5年1月、嶋田氏に面談したところ、同種のものを大阪朝日新聞社の渡邊氏が所蔵していることが判明。そこで、同社門司支局の五十崎氏に話したところ、永井の熱心さに心を動かされ、すぐに問合わせて頂き、3月3日には五十崎氏が、渡邊氏から送られてきた経巻を携え市役所に来訪、早速拝見すると、その表紙には「大方廣佛華厳経巻五十五」とあり、奥書には
  「日本国豊前州門司関崇聖寺比丘元積切賭欲懺凧偬以修富果梓印大乗五経
   就舎本山而寿不朽恭惟祝厳
   蘿図与二以永固流通竺教同三光斉明恩有呂□見□以頼者也
   応永龍集己卯冬節后三日   菫志」と印刷されていました。
 そして、経本は錦町小学校講堂で開催された陳書会で、市民へ紹介したことをきっかけに、4月6日渡邊氏から門司市へ寄贈されました。
 その後、永井は、経本を印刷した「崇聖寺」と「僧元積」について、調査を始め上京の折、文科大学[現在の東京大学文学部]の高楠教授及び資料編纂掛の鷲尾氏へ調査依頼すると、崇聖寺は、京都東福寺派で臨済宗に属し、開山は無涯禅海と言い、法源禅師の謚号(しごう)を賜っていたことが判明しました。また、永井は知己を通じて多方面にこのことを照会したこともあり、大正6年5月には東大寺勧学院講師大屋氏は、「『続善隣国実記[江戸時代に編纂された外交文書]』の中に、明応6年11月大内義興が朝鮮国へ豊前崇聖寺修造の資金を求めた文書があること」を、福岡日日新聞に発表しています。また、門司新報の社友で禅学研究家の吉永卯太郎氏は、同月「東福寺第七世無為照元は、応長元年に亡くなっているが、その下に、無徳、大陽、鐵牛、無涯の四神足[優秀な弟子]がいた。この無涯が、崇聖寺の開祖であり東福寺第十九世で、文和元年7月18日亡くなり、法源禅師となる」と門司新報に発表しています。
 崇聖寺については、廃寺となっていた為、永井は市役所が保管する古文書の中から宝永三年に書かれた御水帳を発見、繰返し調べるも畠の部にも屋敷の部にも崇聖寺の記載はありませんでした。また、暇を見つけては支局の五十崎氏と二人で、踏査を重ねる内、旧古城小学校舎建築時に古い墓碑等が発見され、墓碑は基礎工事の際に埋め戻されたが、五輪塔その他の残片は、校門右側の崖縁に積み重ねたことを聞きました。そこで、小学校山手の運動場から薬師堂にかけて踏査や試掘した結果、畑より燈明用の油壺或いは花器、伽藍の軒先に吊るしたと思われる鉄製の灯籠と石仏、薬師堂付近からは一字一石の経石を発見した為、崇聖寺の旧跡推定地としています。なお、保存状態の良い五輪塔は、清滝公園整備時に、同公園内に移設したとあります。さらに、旧門司の旧家の人々が、世評に上がっている崇聖寺を再興しようと、市長の意見を聞きに来たので、直ちに快諾し、関係機関への斡旋の労を遑ないことを約束したと、大正7年8月瞬報社で印刷し、個人出版した「門司関崇聖寺と門司版華厳経」に、以上の経緯を含め、写真などを約50頁に渡って掲載しています。

 二点目は、大化2(646)年都と太宰府を結ぶ重要な地であった門司に設置された、船の関所「文字ヶ関」跡地の保存です。文字ヶ関旧跡は、明治13年まで市民の往来が自由でしたが、下関要塞砲台建設により海岸防禦地にされ、その後海側が埋立てられ陸軍省所管の門司兵器製造所となり、旧跡に入ることは出来なくなっていました。しかし、製造所敷地が狭隘であった為、大正5年4月小倉市へ移転しました。製造所敷地と建物が、民間に貸し出されることを知った永井は、旧跡保存の好機として、早速門司市会の議決を得て、大正6年12月陸軍大臣及び内務大臣宛に、「名勝旧蹟等の保存に関し、政府訓令の次第もあり、本市に於いても衆庶[一般の人々]の観覧に便すべき施設を加え、之を永遠に保存致したく、旧址の面積28坪[約93㎡]を無償譲与されたい」と、陸軍省用地譲受申請書を提出しました。この申請に対し、大正7年1月福岡県知事は、「文字ヶ関の起源は詳しくは分からないが、三代実録の貞観8(866)年4月17日関司云々あるのを見れば、この時既に文字ヶ関ありしが如き、中古より顕著な旧蹟地を今後廃滅にするようなことがあれば、極めて遺憾なるを以て、この際相当の施設を為し、永遠に保存することは適当な計画と認めるので採用願いたい」と副申書を提出。これを受けた陸軍は、大正8年1月無償譲与の決定を行い、晴れて門司市の所有となり、「文字ヶ関公園」として整備され、現在に継承されています。なお、譲受申請書に添付された図面によると、申請時には「関の井戸」と「榎の古木」が旧跡にあったことが分かります。

 三点目は、旧門司一丁目11番にある「地名由来乃井」の建立です。大正7年頃、永井市長から井戸町の地名由来の井戸として整備したいので、井戸を寄付して欲しいと要請がありました。それまで、この井戸は村の共有の種池で、苗代をつけていて、今より広く楕円形であったと云われています。寄付後は、杉垣で周囲を囲い、由来碑を建立し井戸を整備しましたが、現在、杉垣はなくなっています。なお、昭和35年の聞取りでは、元々の由来井戸は、現在地より上にあった旧家の井戸で、そこには水神が祀られていました。

 これら、門司市の文化財保護に尽力した永井は、大正7年8月退任した後、東京市の助役を経て、大正11(1922)年1月から大正15(1926)年1月まで4年間八幡市長に就任しています。
 最後に、門司市に寄贈された「大方廣佛華厳経巻五十五」は、門司図書館が所蔵していましたが、現在は、いのちのたび博物館へ寄託されています。また、永井等が発見した、鉄製の灯籠と石仏は、門司図書館に展示されていますので、是非ご覧ください。しかし、崇聖寺旧蹟の調査結果と文字ヶ関譲受申請図面は、文化財担当部門に継承されていないため、市が作成している「周知の埋蔵文化財包蔵地」では、遺跡の対象とはなっていません。
門司市長 永井環
参考文献等
北九州歴史散歩 豊前編 平成31年5月20日発行 特定非営利活動法人北九州市の文化財を守る会編
門司市史 昭和8年3月31日発行 門司市役所
北九州市史 近代・現代 行政 社会 昭和62年10月20日発行 北九州市
門司郷土叢書 第二巻 昭和56年9月30日発行 国書刊行会
北九州の史跡探訪 昭和61年1月15日発行 北九州史跡同好会
北九州の歴史的建造物 平成元年9月30日発行 (財)北九州都市協会
福岡県の近代化遺産 平成5年6月15日発行 (財)西日本文化協会
北九州の人物 昭和5年12月8日発行 金栄堂