門司区葛葉・二タ松町・片上町・小森江周辺地区
2022年9月23日開設
1 金比羅山慈雲寺
19 西海道跡等
2 御影石の側溝 20 防空壕跡
3 赤煉瓦橋台 21 丸山古墳
4 浅野セメント門司工場跡 22 鈴木商店
5 浅野スレート門司工場跡 23 大里製糖所(現・関門製糖)
6 水害受難者之碑 24 日本冶金(現・東邦金属)
7 玄妙山 法華寺 25 神戸製鋼所門司工場
8 風師登山道碑 26 大里製塩工場跡
9 貴布祢神社 27 大里酒精製造所
10 泉正寺 28 大里製粉所倉庫
11 消滅した神社 29 大里製粉所 
12 蛭子社 30 大里倉庫 
13 新旧の橋が混在する本線と引込線跡 31 帝国麦酒 
14 慈眼寺 32 旧小倉税務署出張所 
15 地蔵堂  
16 龍玉山 徳念寺  
17 風師神社  
18 巨人坂
1 金比羅山慈雲寺
慈雲寺
曹洞宗
本尊 観世音菩薩 釈迦如来
    脇立文殊菩薩 普賢菩薩
由緒 享保1881733)年、長府功山寺第十五世棟外和尚の開基による末寺でしたが、維持困難となり明治22年6月功山寺に合併。明治33年8月、磯部松蔵等信徒によって、現在地へ移転する。併せて、功山寺背後の山頂にあった金毘羅堂も、併せて移転し、鎮守となっていまのす。

磯部松蔵寿像と墓

 磯部松蔵は、明治20年代初めに門司へ移り、石炭仲仕の長として、また石炭運搬船も多数保有し、財を成しました。しかし、明治30年病に倒れましたが、近親者や配下の者達が熱心に、神仏に祈願したことにより、翌年全快しました。その為、寺社の建立を発願したが、許可されなかったので、慈雲寺を移転させ、併せて寺の守護神及び船の守護神として金毘羅宮を祀りました。
 磯部松蔵寿像は、知友や部下のよって明治35年建立されており、銘及び蔵寿記銅板は、在倉中の森鷗外の撰になるものですが、銅像と銅板は戦時中に供出され、現在は台座のみ残っています。
 なお、磯部松蔵は明治42年7月に亡くなり、隣接する墓地に眠っています。
 右は、花塚で、明治38年12月に建立されています。    
2 御影石の側溝  
 国道199号線西海岸の三菱倉庫前の歩道側溝が、縁石及び側溝蓋が全て御影石で施工されています。現在の施工では、全てコンクリート製品ですが、人件費及び石製品が安価であった良い時代の工事です。なお、コンクリートに比べ、花崗岩は、風化や欠けも無く、北九州市内では他に目にしたこともなく、このまま保存すべき所です。
 
3 赤煉瓦橋台
 赤煉瓦橋台は、西海岸二丁目の信号機から山側に入ると右側が河川で、鹿児島本線踏切手前にあります。この橋台は、赤煉瓦造で両端が花崗岩の切石積みであることから、明治期の単線であると思われます。また、右の大正2年の地図で、現鹿児島本線から海側に分岐した線路が記載されており、この引込線の橋台と考えられます。
 橋台は、川側から奥に、更に赤煉瓦が約14段程積上げられていますので、ここにはプレートガーダー橋が架かっていたと考えられます。
 また、この引込線は石炭積出しに使用されており、下の絵葉書のとおり先端は高架橋となっていました。

門司側の橋台

小倉側の橋台
 
4 浅野セメント門司工場跡
 浅野セメント門司工場は、明治26(1893)年東京深川工場の分工場として創業し、昭和22(1947)年に日本セメントに改称、昭和55(1980)に閉鎖され、平成20(2008)年に解体されました。
 工場の敷地は、大倉喜八郎が所有し精米工場があったものを買収しています。
 門司工場には、国内最初のチューブミルが採用され、大正6年の年間生産量は、90万 樽に達し、国内有数のセメント工場でした。
 現状は、平地になっていますが、入口の門柱が残っており、構造は赤煉瓦造です。
 ※セメントは、明治8年国内生産を開始以降、昭和7年紙袋へ切り替わるまで、木樽に詰められていました。なお、一樽の容量は、135Kgでした。

 ちなみに、紙袋は50㎏から、昭和46年には40㎏、平成8年からは25㎏へとユーザーの要請で軽量化されています。

 
 解体前の工場建屋で、車両門奥の建物は、戦前に建築されたもので、屋上には防空監視哨がありました。
 監視哨の屋根は、半円形の蒲鉾型で、背面は確認出来てないが、右写真のとおり、三方の壁に空に向いた監視窓が開けられていました、
  工場の入口である守衛所は、出勤時の多くの職員へ対応する為、奥深い庇と、半円形の窓、そして独特な屋根を持っていました。
 また、工場敷地内には、外部から参詣する社内神社が、変電所横にありました。入口には、石の鳥居がありましたが、玉垣の高さに合わせて、上部が切断されていました。
 工場の入口で警務室がありました。  工場内の神社
 変電所は、赤煉瓦造ですが、南側の妻壁はモルタルが塗られていました。また、右写真のとおり、上部には配電ケーブル用の穴が多数開いていました。
5 浅野スレート門司工場跡
 浅野スレート門司工場は、大正7(1918)年に創業し、スレートボードや波板を生産していましたが、平成8年(1996)に閉鎖し、現在は建物は撤去され平地となっています。
 右側の地図は、大正13(1924)年に作成されたもので、赤枠内が同工場です。
6 水害受難者之碑
 昭和28(1953)年6月28日正午頃、梅雨前線の停滞による集中豪雨により、風師山系は山腹崩壊を起こしました。市街地を襲った土石流は、143名の犠牲者と、1,560有余戸の家屋倒壊という大惨事を引き起こしました。
 東貴船公園内に、水害受難者之碑が昭和35年6月28日に建立されています。また、碑の横には犠牲となった方々の名前が刻まれています。
7 玄妙山 法華寺  
日蓮宗
本尊 不明
由緒 明治29年11月、妙法講教会として創立、その後昭和28年寺号を認可され、寂光寺とよばれていましたが、現在は法華寺となっています。

 境内には、国家安穏五穀成就を願って、明治28年4月、発起人磯部利和によって寄進された、妙経全部一字一石塔があります。
   
8 風師登山道碑
 旧電車通りの山側に、風師登山道及び葛葉口と刻まれた石碑が、建っています。
 しかし、現在は使用されていない登山口です。
9 貴布祢神社
祭神 高淤加美神、闇淤加美神、
    弥都波能売神
祭日 十一月二日三日
由緒 創立年は、不詳。甲宗八幡宮宮誌によれば、正保年間から文政年間と推定されています。
 
 本殿の屋根、千木と堅魚木がのる大棟には、小笠原藩の三階菱が飾られています。

 境内の右側には、稲荷社と山神、道祖神が祀られています。
   
10 泉正寺  
浄土真宗本願寺派
本尊 阿弥陀仏
由緒 正蓮寺の白木﨑説教所として、明治42年に設立、昭和9年山口県吉見村にあった寛永年間創立の泉正寺を、許可を得て現在地へ移転しました。
 
11 消滅した神社  
  風師三丁目4番の山際に、廃れた神社がありました。参道の鳥居は、昭和4年6月に建立されていますが、額の寺が読めないため、神社名は不明です。
 なお、現在は鳥居も倒され、更地となっています。
 神社の拝殿前には、おみくじの自販機が設置されていまし。なお、金額投入口には、一銭入れば札が出ますと刻まれていました。  
  拝殿横の手水鉢には、明治40年1月と刻まれていました。
12 蛭子社 
 蛭子社は、葛葉二丁目の旧道脇に鎮座し、祠前には、塩ビパイプで造られた白色の鳥居があります。
 祠内には、大きく蛭子■と刻まれた自然石が祀られています。なお、三文字目は賽銭箱に隠れて見ることが出来ませんでした。
13 新旧の橋が混在する本線と引込線跡  
 片上海岸の海に流れる小河川を、鹿児島本線が跨いでおり、海側は右のとおりコンクリート造となっています。但し、山側は赤煉瓦造になっている可能性がありますが、確認できていません。
 上の水路から海側には、赤煉瓦造の橋台が残されています。橋台の基礎は、九州鉄道創立期に築かれた茶屋町橋梁、大蔵橋梁と同様に、本体より川側に一段前に、5段の煉瓦積みが見られることから、この橋も創立期の引込線用と考えられます。

 片上海岸には、倉庫等が密集していた為、引込線が他に、2本の計3本が水路に橋の跡があります。
 
  14 慈眼寺
曹洞宗
本尊 ?
由緒 慶安(1648~52)年間に開基されたと云われ、小倉の南方に寺号のみ残っていたものを昭和17年に、現在地へ移転しています。
   
 境内の墓地横には、太子堂があり、中には大正13年建立の石仏も安置されています。
15 地蔵堂  
 地蔵堂は、慈眼寺参道入口の脇にあります。
 堂内に、下の写真のとおり一石に二体の地蔵を刻んだものが三体あり、六地蔵を表示しているのだろうか?。
 
16 龍玉山 徳念寺  
浄土真宗本願寺派
本尊 ?
由緒 大正9年に、長野県から現在地へ移転しています。
   
17 風師神社  

祭神 志那都比古神、志那都比売神
祭日 十月十日
由緒 不明


鳥居は、天保13年に建立されたものです。

 
: 境内に、稲荷大権現が祀られています。また、脇に、蛭子尊が祀られていますが、書体は葛葉二丁目の蛭子社のものと、同じと思われます。  
  18 巨人坂(おおひとざか)
 小森江の伝説に、大昔巨人が片足を彦島にのせ、もう一方の足をこの坂に乗せて関門海峡の水で顔を洗ったところ、掌に魚が何百と入っていたとあり、 この伝説に由来する坂です。 場所は、旧風師中学と小森江東小学校の間にある坂です。
 また、昭和11年7月の古老への聞取り調査では、清水が出るところがあり、お大師様を祀っていたので、大師水と云っていたとあります。
  19 西海道跡等
 葛葉一丁目の信号から山手の狭い道路が、明治44年九州電気軌道が開通するまでの、旧道で西海道と云われている道路です。写真では、左側の道です。道路沿いには、右端写真の赤煉瓦塀や、下右の鉱滓煉瓦塀が残っています。
 旧道は、二タ松町団地前まで続いています。
 右の花崗岩切石による石垣の上が、門司税関職員の官舎敷地で、石垣の中に完成後に更に石を詰めた箇所があります。これは、間にあった通路を、何らかの理由で廃止したものか、石垣造成後に設計変更したもののどちらかと思われます。  
20 防空壕跡
 北川町の職業安定所西側の石垣の中に、防空壕の痕跡が4ヶ所残っています。
 21 丸山古墳  
 大正5(1916)年5月、鉄道拡幅工事中に発見された古墳で、墓室から五獣鏡と鉄刀3点出土しており、鏡は東京国立博物館に収蔵されています。
 この古墳は、地名から丸山古墳と云われていますが、場所が不明でした。昭和34年3月門司郷土会の聞取り調査で、九州コンクリート工業と線路の間に、3・40坪の丸い山があったと証言されています。
 北九州市史によると、墳頂下1.2mの土中から検出され、石材等は無かったと伝えられていることから、土壙墓か粘土槨のような構造と推定されています。また、五獣鏡は、復元径18.2cmで、五世紀代の古墳としている。
 右の拓本は、日本考古学大系漢式鏡に掲載されているものです。
 
22 鈴木商店  
  鈴木商店は、鈴木岩治郎が明治7(1874)年神戸に創業し、その後売上高で神戸の八大貿易商の一つとなります。明治27年、主の岩治郎が急死すると、妻よねは経営の一切を番頭の金子直吉と柳田富士松に任せますが、相場で失敗しても咎め無かったため、番頭らは商店への忠誠心を強めることとなりました。その後、台湾樟脳油の販売権を獲得し、台湾総督民政長官であった後藤新平らとの親交を深め、やがて政商とも呼ばれるようになりました。

そして、製糖から鉄鋼、造船、人絹と製造業を次々と立ち上げた金子は、大正3(1914)年第一次世界大戦が勃発すると戦争の長期化を予測し、イングランド銀行から巨額の融資を受け、投機的な買付けを世界中で行い、その後価格が暴騰し大儲けします。また、「大英帝国といえども、鈴木にとっては一介の客に過ぎぬ」と、物資調達に苦しむ連合国を相手に、強気のビジネスで、船舶、食料など大量に供給しました。

その結果、大正6年には、GNP1割相当の売上を計上し、日本一の総合商社となります。また、そのお陰で日本は大量輸出により、膨大な外貨を取得し、開国以来の債務国から債権国に転じ、名実共に先進国の仲間入りを果たすことになりました。一方、鈴木商店はあまりの急成長ぶりで妬みを買い、米騒動の際には本店を焼き打ちされることになりました。

 第一次世界大戦が終わると、反動不況から急拡大策も裏目に出てしまい、海軍拡張計画に起死回生を賭けますが、大正11(1922)年ワシントン海軍軍縮条約により頓挫します。さらに、翌年の関東大震災が苦境に拍車をかけ、昭和2(1927)年鈴木商店は、経営破綻してしまいます。

 しかし、元鈴木商店の高畑誠一は、台湾銀行や三菱財閥などの支援を得て、子会社だった日本商業会社を日商(後の日商岩井で、現在の双日)と改め再出発し、屈指の総合商社に育て上げました。その他、神戸製鋼所などの企業も自主再建を遂げ、また現在のニップン、Jオイルミルズ、サッポロビールなども鈴木商店を源流とし、日本を代表する企業となっています。

大里地区での工場建設
  明治36年 大里製糖所
  明治44年 大里製粉所
  明治45年 帝国麦酒
  大正3年  大里酒精製造所
  大正6年  神戸製鋼所
  大正7年  日本冶金、大里製塩所、大里精米所

23 大里製糖所 (現・関門製糖)   
   鈴木商店は、日本精製糖に対抗するため、明治36(1903)年大里製糖所を大里に創業します。
設置場所の選定に当っては、良質な水、豊富な石炭、労働力及び交通の便を条件にしたところ、製鐵所建設地の最終候補地であった、大里が最適地として選定されました。
そして、製造された砂糖は、良質であった為、日本精製糖を席巻する勢いでした。その為、大里製糖所に脅威を感じた日本精糖(大阪)は、日本精製糖(東京)を買収し、大日本製糖に改称しましたが、大里製糖所の勢い止まらず、合併を申し入れます。
 鈴木商店は、合併しない代わりに、明治40年(1907年)大日本製糖に買収させることで応じます。
 その結果、鈴木商店は250万円で建設した製糖所を、650万円で売却、差引き約400万円の余剰金を得ると共に、見返りに砂糖の専売権を取得しました。

 鈴木商店は、こうして得た巨額の資金を元手に、大里に一大工場群を建設すると共に、神戸製鋼所への設備投資にも廻され、重工業化へ進むきっかけとなりました。


 その後の大里工場は、昭和57(1982)年三菱商事と共同で設立された生産受託会社「西日本製糖」の工場となります。そして、平成13(2001)年には、大日本明治製糖と日本甜菜(テンサイ)製糖の共同生産受託会社として、関門製糖に社名変更され現在に至っています。

 工場の概観は、ほぼ当時の煉瓦造を維持しており、道路を挟んで海側の原料用倉庫も当時の建物を使用しています。
また、煙突には、創業当時から使用している、中心部に「S」と書かれた菱形のマークが、描かれています。 
24 日本冶金(現・東邦金属)
 

鈴木商店は、電球の国産化に必要な、タングステンを材料とする、フィラメントを製造する為、大正7(1918)年日本冶金を創業します。
 製造については、米国インディペンデント社の協力を得て、粉末冶金によるタングステン・モリブデンの電球用フィラメントを一貫製造しています。

日本冶金は、昭和24年解散し、新たに東邦金属を設立し、現在に至っています。

 
25 神戸製鋼所門司工場 (現・門司メタルプロダクツ)

 鈴木商店は、明治38(1905)年小林製鋼所を買収し、神戸製鋼所を創業します。

小林製鋼所は、東京の出版業者小林清一郎が明治38(1905)8月、神戸市に3.5トン規模の平炉を備えた「小林製鋼所」を開設したのが始まりです。
 鉄鉱石を原料とする近代製鐵所としては、釜石鉱山田中製鉄所、日本鋳鋼所、官営八幡製鉄所に次ぐものです。しかし、小林は旧知の海軍技監に勧められて創業した経緯もあり、呉海軍工廠の職工らを英ビッカース製鋼会社に派遣し、工法を習得させたものの、技術は確立できず、出鋼式では炉の口が塞がり失敗します。そして、翌日以降も出鋼できず、創業から1カ月で売却することになりました。


 神戸製鋼所は、大正6(1917)年小森江に、非鉄金属の門司工場として設立します。設立時は、銅や黄銅の伸線工場として、後にアルミニウムやマグネシウムの合金鋳物の国産化にも成功します。

 門司工場は、昭和63(1988)年神戸製鋼所から分離、門司伸管工業と統合し神鋼メタルプロダクツとして発足します、そして令和4(2022)年、株主の変更に伴い、門司メタルプロダクツとなります。

 社章は、創業当時大里製糖所で使用していた、中心部に「S」と書かれた菱形のマークを社章にしていましたが、昭和12(1937)年菱形の頂点が突き出るように改められました。そして、太平洋戦争がはじまった昭和16(1941)年、敵国のアルファベットを避けるため、社員から公募した結果、「S」を「日の丸」へと置き換えました。


昭和8年建築の事務所棟

神戸製鋼所時代の大理石銘板

円形窓

改修した跡が残る社章
 
26 大里製塩工場跡
 鈴木商店は、中国関東州及び台湾から粗製塩を輸入し、精製してウラジオ、南洋、中国向けに輸出する為の再製塩工場して、明治43(1910)年大里再製塩工場を設置します。
 生産額は、明治45(1912)年の1,300万斤から大正5(1916)年には、2,000万斤まで達しましたが、その後専売局による直営が決定したことから、大正8(1919)年廃止されました。
27  大里酒精製造所(現・ニッカウヰスキー)   

 鈴木商店は、大日本製糖、大里製粉、帝国麦酒から発酵原料(糖蜜、フスマ、ビール酵母)を容易に調達できることから、大正3(1914)年大里税関仮置場に、大里酒精製造所を創業します。醸造した焼酎は、朝鮮、中国に輸出していました。

 大正6(1917)年には、日本酒類醸造(宇和島)を吸収して、社名を日本酒類醸造に改称し、日本最大の焼酎会社となります。
 さらに、大正14(1925)年には、同業6社を合併し、大日本酒類醸造を設立します。
 その後も合併を繰返し、昭和35(1960)年合併による改称に伴って、協和発酵の門司工場となります。 
 協和発酵は、平成14(2002)年アサヒビールと合弁でアサヒ協和酒類製造を設立、焼酎乙類の主力工場となります。
 そして、アサヒビールグループは、平成18(2006)年再編を行い、現在のニッカウヰスキー門司工場となります。
 工場内には、鈴木商店時代の境界杭が残っています

 
 28 大里製粉所倉庫(現・ニッカウヰスキー)
 大里製粉所は、大正4(1915)年火災で焼失した倉庫を、新たに建設しますが、その倉庫は、現在もニッカウヰスキーの倉庫として使用されています。
 倉庫の海側は、石積の岸壁となっています。
 
 
 船から、倉庫へ搬入する階段が岸壁に設置されています。
 
29 大里製粉所(日本製粉門司工場) 消滅 
 鈴木商店は、発展する近代製粉業に参入する為、明治43(1910)年所有する大里税関仮置場隣接地8,000坪に、工場240坪、製品倉庫500坪、原料倉庫2,000坪の建設しました。なお、同所は江戸時代に久留米藩の船屋敷があった所です。
 また、香港から中古機械を輸入し、明治44(1911)年に、大里製粉所を創業しています。

その後、工場は大正4(1915)年火災に遭い、工場1棟、倉庫2棟が焼失した為、新たに建設された倉庫が、現在もニッカウヰスキーの倉庫として使用されています。

 大里製粉所は、大正9(1920)年日本製粉と対等合併し、日清製粉と二分する規模となります。
 そして、鈴木商店破綻後は、三井物産の援助により回復しますが、平成9(1997)年工場の集約化により、門司工場は廃止され、倉庫を除いて建物は解体されました。  

 30 大里倉庫

大里製糖所は、輸入する原料ジャワ糖の通関手続等を、迅速かつ簡便に行うため、保税倉庫として、明治37(1904)年大里倉庫を設立します。
 設立に当たっては、大里製糖所の設立に1/3出資した、大阪辰巳屋藤田商店の名義を使っていました。

 しかし、大里製糖所が明治40(1907)年大日本製糖へ売却されたことから、藤田商店は大里倉庫から撤退します。その後、経緯は明らかでありませんが、旧大里倉庫の建物の一つは梶山倉庫となった後、岡野バルブ製造・第二機械工場として使用されています。
 また、もう一つの建物は、住宅設備機器商社飯野物産の倉庫として使用されています。


 右上2枚の写真は、岡野バルブの工場。

 右下は、飯野物産の倉庫。

 
31 帝国麦酒
 

 帝国麦酒は、明治451912)年に九州最初の本格的ビール会社として、鈴木商店の援助をうけ設立され、サクラビールのブランドで出荷していました。

 第一次世界大戦中は、戦場となった欧州からのビール輸出が途絶えた為、鈴木商店のネットワークにより、サクラビールは世界各地に輸出されました。

鈴木商店破綻後、経営の危機を乗り越えたサクラビールは、日本第3位のビール会社として、国内で約1割のシェアを持ち、約30年間販売されていました。

 その後の昭和41929)年、帝国麦酒から桜麦酒に社名変更しますが、昭和181943)年大日本麦酒に統合されました。

 戦後、過度経済力集中排除法により、昭和24(1948)年朝日麦酒と日本麦酒の2社に分割され、門司工場は日本麦酒となります。
 日本麦酒は、昭和39(1964)年サッポロビールに名称変更しましたが、老朽化により平成12(2000)年日田へ移転し、門司工場跡は門司麦酒煉瓦館として九州唯一のビール資料館なっています。

 
 

 32 旧小倉税務署出張所(現・和幸運輸事務所)   

 現関門製糖海側の倉庫群の南西隅に、岸壁に沿って煉瓦造の平屋建物があります。

 この建物は、明治3725日付け門司新報の製糖会社近況蘭に
 「精製糖事業開始後、税務当局者と同社の便宜を図り、構内に小倉税務署の出張所を建設すべき計画あることは己■を経たりしが、右は愈よ決行することとなり昨四日より、四間に五間の煉瓦造の建物工事に着手せしといへば数日中には竣成を見ん。」と記載されている、小倉税務署出張所です。

 建物の西側には、暖炉用の煙突が残っており、窓などの建具は入れ替わっていますが、建設当時の構造が良く保存されています。
 

 
参考文献等
北九州歴史散歩 豊前編 平成31年5月20日発行 特定非営利活動法人北九州市の文化財を守る会編
門司市史 昭和8年3月31日発行 門司市役所
北九州市史 総論 先史・原始 昭和60年12月10日発行 北九州市
北九州市史 近世 平成2年12月1日発行 北九州市
北九州市史 近代・現代 行政 社会 昭和62年10月20日発行 北九州市
門司郷土叢書 第三巻 昭和56年9月30日発行 国書刊行会
門司郷土叢書 第五巻 昭和56年9月30日発行 国書刊行会
北九州の近代化遺産 平成18年11月25日発行 北九州地域史研究会
北九州の史跡探訪 昭和61年1月15日発行 北九州史跡同好会
北九州の史跡探訪 平成2年9月1日発行 北九州史跡同好会
小倉市誌 上巻 昭和50年7月10日発行 名著出版
鈴木商店記念館 http://www.suzukishoten-museum.com
 日本考古学大系 漢式鏡 大正15年4月20日発行 雄山閣