門司区恒見・今津・吉志周辺地区
2007年9月8日開設
1 恒見八幡神社 2 西福寺 3 魚族供養塔 4 恒見の町並み
5 石灰山元祖碑 6 廣石音彦碑 7 道路開墾碑 8 森戸一族の墓
9 天疫神社 10 廣石紋太郎碑 11 旧今津海岸堤防 12 西迎寺
13 善教寺 14 八坂神社 15 友石氏上陸碑 16 今津の祠
17 津村島 18 津村明神社 19 防砂林 20 畑貴船神社
21 畑城      
1 恒見八幡神社
祭神 品陀和気命(ほむだわけのみこと)
      [「古事記」に記載されている応神天皇の諡号]
    息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)
      [応神天皇の母]
    大雀命(おほさざきのみこと)
      [「古事記」に記載されている仁徳天皇の諡号]
    大山祗神(おおやまづみのかみ)
    豊玉姫命
    事比羅社(明治41年、合祀)
      須佐之男命 大巳貴命 崇徳天皇
    疫神社(明治41年、合祀)
      大穴牟遅神(おほなむちかみ)
         
[ 大国主の若い頃の名前]
      須佐之男命 
      少名毘古名神(すくなびこなのかみ) 
    恵美須社(明治41年、合祀)
      大巳貴命(おおなむちのみこと)
      事代主神 蛭子神 
    貴布祢社(昭和2年、合祀)
      高淤加美神(たかおかみのかみ)
      闇淤加美神(くらおかみのかみ)
      彌都波能売神(みつはのめのかみ)
例祭 10月12日
由緒 天長元年(824年)恒見城主安芸入道平道金が武運長久を願って、宇佐八幡宮から勧請したのが始まりで、室町時代に大内氏支配下になると門司氏より崇敬を受けていました。江戸時代に入ると、藩主小笠原氏の崇敬を受け、六代藩主忠固は、文政5年(1822年)に神殿を再建しました。

 境内には、元禄6年(1693年)に恒見浦氏子より寄進された鳥居や文化8年(1811年)に建立された猿田彦大神があります。


門司地区最古の鳥居
です。


もともとは、光円寺橋の
畔(ほとり)にありました。
2 西福寺と合葬の碑
浄土宗
本尊 
由緒 天長元年(824年)恒見城主安芸入道平道金が、寺屋敷に天台宗と寺として開基したと云われています。その後、一時中絶していましたが、永和2年(1376年)観誉上人が、浄土宗の寺として再建する。寺は、城下中条に移転し、明治32年現在地へ移りました。



 なお、この場所には、明治6年9月小倉県監獄所の分監(懲役場)が設置されていました。そのため、この監獄で亡くなった人々を供養した合葬の碑が境内脇の墓地内にあります。
3 恒見漁港と魚族供養塔
 周防灘に面する恒見漁港では、カキの養殖が盛んで、平成10年には、県や他の漁業関係者とで「豊前海区かき養殖研究会」を結成、カキの名称を「豊前海一粒かき」と統一しブランド化を図っています。冬場の日曜日には、直売も行われています。

 直売が行われている組合作業所の一角に、生魚仲買人組合が建てた全国的にも珍しい「魚族供養之塔」があります。
4 恒見の町並み
 恒見の町が、歴史上に出てくるのは、天長元年(824年)安芸入道平道金がこの町に猿山城を築いたのが始まりで、恒見八幡神社や西福寺を設置することによって町が形成されていった考えられます。また、この時道金は備前より船大工を招き、漁船を造らしたと云われています。その後、西福寺が一時中絶していたこと等から城下町の機能はなくなったが、漁師町として営々と歴史を刻んできたものと考えられます。そして明治以降の石灰石採掘事業によって、港町として一時繁栄したものの現在は、港町の風情を残す落ち着いた町となっています。
 現在も、格子のある家や和船を解体した舟板で壁を覆っている家があります。
町並み 古井戸
舟板張りの家 舟板の状況
5 金毘羅神社と石灰山元祖碑
金毘羅神社
 祭神 不詳  例祭 不詳
 由緒 不詳
 金毘羅信仰は、海の守り神として崇められ船舶関係者によって祀られています。また、水にかかわることから農業神としても祀られています。
 境内には、天保3年(1832年)に寄進された手水鉢があります。

石灰山元祖細石伴吉碑
 安政5年(1858年)肥後天草の惣右衛門は、浦中海岸の石灰岩を見て「これを焼けば、いい肥料になる」と村人に説いたところ、恒見村の細石謙吉が興味を示し、水田の肥料として実験したところ良い結果がでました。謙吉は、これを事業とするため、天草に渡り採石方法や石灰製造方法を学び、安政6年石灰製造所を浦中に開設しました。明治8年、謙吉が亡くなると息子伴吉が跡を継ぎ、石灰石採石業開発やセメント製造開発まで尽力したため、「石灰山元祖」と言われるようになった。また、販路拡大も行い、恒見石灰石採掘事業隆盛の基となった。
6 廣石音彦碑
 松ヶ江村の村議、信用組合理事を務め、また漁業組合長として組合の発展に功績があったとして顕彰碑が建てられていました。
7 道路開鑿記念碑
 大正14年11月に竣工した、恒見から浦中までの道路の開作記念碑が道路脇に建っています。
8 森戸一族の墓
 森戸長義(通称:弥市右衛門)は、代々小笠原家に仕え、元禄6年中西勘兵衛の後を受けて企救郡筋奉行に就任する。また、吉志村に在宅中に櫛毛ため池(長谷池ともいう)の修造に尽力したため、村人はその徳に報いるため、毎年墓地清掃料として「森戸給」を支給し、現在も森戸氏の墓を清掃しています。なお、森戸弥市右衛門は、享保8年8月29日になくなっています。

※ 小倉藩は、企救、田川、京都、仲津、築城、上毛の六郡に筋奉行を各一人配置し、その下に代官と山奉行を置いていました。[筋(すじ)とは、地形等によって区分された行政区画のことを指します。]
9 天疫神社
祭神 須佐之男命(すさのおのみこと)
    天之忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)
    天之菩卑命(あめのほひのみこと)
    天津日子根命(あまつひこねのみこと)
    活津日子根命(いくつひこねのみこと)
    熊野久須昆命(くまのくすびのみこと)
    多岐理比売命(たきりひめのみこと)
    市寸島比売命(いちきしまひめのみこと)
    多岐都比売命(たきつひめのみこと)    
例祭 9月12・13日
由緒 不詳

 境内に文政13年(1830年)に吉志村庄屋小田平次郎より寄進された鳥居があります。また石祠、猿田彦大神や森下弥吉の碑があります。

 毎年4月26日、境内で「ろくや」と呼ばれている五穀神の春祭りが行われています。この祭りは、御神幸に高さ約2.5mの先端に白い幣を立て、その下に60本の造花を直径約2mの大きさで傘形に仕上げた「花傘鉾」という飾り物をお供させることが特徴となっています。御神幸は、御輿を先頭に花傘鉾がお供し、吉志村内を巡り、1km離れたお旅所の「笠松」まで行き、再び神社へ戻ります。祭りの起源は不明ですが、干ばつの時「笠松」の元で雨乞いをしたところ霊験があったため、この恩に報いるため天疫神社の境内に五穀神を祭るようになったと云われています。なお、昔は、雨が降った旧暦7月26日に行っていましたが、いつの頃か4月26日に変わりました。

森下弥吉の碑(福井陂[つつみ]之碑)
 森下弥吉は、区長であった明治29年、この地区は干ばつにあったので村民の反対を押し切ってため池(稗畑池・福井ケ迫池とも言う)造りに奔走し、ついに完成させた。その功績を顕彰して明治33年に碑が建てられました。
福井陂[つつみ]之碑
10 広石紋太郎碑
 広石紋太郎氏は、松ケ江南小学校の施設改善に、私財を投じて寄与したことから、その功績を称えて学校内に碑が建てられています。
11 旧今津海岸の堤防
 旧今津海浜に沿って築かれた堤防ですが、現在は、更に海側が埋立てられています。堤防が築かれる前の状況は、下の20番畑城の写真を参照して下さい。
12 西迎寺
浄土宗西山派
本尊 阿弥陀如来
由緒 不詳
 小倉南区長野の護念寺の末寺で、長空貞山西堂が元禄10年(1697年)に開山したと云われています。また、一説では、法空貞波西堂が貞享元年(1684年)に開山したとも云われています。
 境内には、一石五輪塔、隅飾りのある笠のみになった宝篋印塔、火輪のみの五輪塔、板碑や六地蔵が大切に祀られています。
 宝篋印塔は、五輪塔と同様密教系の供養塔・墓碑塔で、鎌倉時代以降に宗派に関係なく造立されるようになりました。
一石五輪塔 宝篋印塔と五輪塔の残欠
板碑 六地蔵
13 善教寺
浄土真宗本願寺派
本尊 阿弥陀如来立像
由緒 大友義統の家臣冨来氏が出家し浄蓮と号し、天正2年(1574年)北岳の麓に懲悪山善教寺を開基する。その後寛文年間に現在地へ移転する。
 小倉北区の永照寺の末寺となっています。
 
本堂1 本堂2
鐘楼 びゃくしん(ヒノキ科)
14 八坂神社
祭神 櫛名田比売神(くしなだひめ)
    須佐之男命(すさのおのみこと)
    天之忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)
    天之菩卑命(あめのほひのみこと)
    天津日子根命(あまつひこねのみこと)
    活津日子根命(いくつひこねのみこと)
    熊野久須昆命(くまのくすびのみこと)
    多岐理比売命(たきりひめのみこと)
    市寸島比売命(いちきしまひめのみこと)
    多岐都比売命(たきつひめのみこと)    
例祭 6月10日
由緒 今からおおよそ四百年前、今津浦の漁師が夜に出漁中、御神体が3回も網にかかった為、持ち帰り門司社に見てもらったところ、八坂神体といわれたので、当浦に祀ったのが始まりと云われています。
15 友石氏上陸之碑
 友石氏は、天保10年(1839年)小笠原氏に召し抱えとなり代々子供役を務め、その後片野手永の大庄屋となった時にそれまでの大内姓を友石姓に変えたと云われています。なお、友石の名は、津村島に対面する今津の浜に大きな岩石がひとつ海中にころがっていて人々は、友石と呼んでいたことに由来すると云われています。現在、その石を祀り、併せて友石氏上陸碑が建てられています。 
16 今津の祠
 今津の浜近くに、石祠が2箇所あります。一つは浜の北側にある山の中腹に祀られています。二つ目は、浜の中央小高い丘の上に祀られています。

 村誌には、今津浜に天疫神社と恵比須社があることになっていることから、そのどちらかと思われますが、確認が取れていません。
浜の北側の祠
浜の中央の祠
17 津村島
 津村島は、もともと大島と小島の二島でしたが、今は陸続きとなっています。この島は、周防沿岸の各港から小倉へ年貢米を運搬する船の風待ち、汐待ちに重要な場所とされ、目印となる樹木の伐採は禁じられていました。そのため、木及び竹は、郡中一の大きさで、島の神木であった松の木の周囲は三抱えもあったと云われています。
 また、この島は、石灰岩からなっていたため、明治4年勝兵八郎が採掘を始め、明治6年恒見に懲役場が設置(明治5年に監獄則が制定)されると囚人を使って採掘を行い、柳田藤之が監督していたと云われています。その後、石灰業の隆盛とともに、今津、畑、恒見や広島県からも移り住むがあり、明治41年には戸数39、人口200人余りを数えたとなりました。
 現在、この島は西側以外の周囲が埋立てられ陸続きとなっています。また、島の東側は石灰岩の採掘によって出来た大穴に海水が流れ込み大きな池となっています。

 また、津村島には、周防灘の諸島神に知られていた美しい女神がおり、われこそは「その女神を申し受けんと」と時を窺っていました。その中で、もっとも熱心であったのが、苅田沖の神ノ島と大積の蕪島の神でした。二島の神は、女神を巡って争いとなり、……と云う神話伝説もあります。
今津側の海浜 周防灘側の海岸
石灰岩採掘跡 石灰岩採掘跡と海岸
18 津村明神社
祭神 津經羅昆古神
    津經羅昆売神
    大倉主神(おほくらぬしのかみ)
例祭 10月朔日 2日
由緒 不明

 境内に、嘉永7年(1854年)氏子より寄進された灯篭があります。

津村明神祭
10月12日の夕刻、祗園社の大幣(おほぬさ)を勧請し、地官宮田家がこれを受け取り神輿へ納めるとともにお迎え神として恵比須社の御神霊を遷し、友石の磯より直ちに神幸船に載せます。神幸船は漁船2艘を並べ横木で結び合わせ、雄竹を四囲に立て〆飾りをし、社旗、五色のばん旗を立て、太鼓や鐘を囃しながら供船をつれて島へ渡ります。島では。津村社の御神霊を迎え遷し、直ちに神幸船に載せ祗園社へ戻ります。祇園社では、神輿を神殿に安置し、神楽を奉納しました。そして、翌日津村明神は、島へ還幸しました。
19 防砂林と堤防
 市内に唯一残る砂防林で、塩害、飛砂害から農地や家屋等の財産を守るために、古くから海岸に沿って松を植樹して林の造成を行ってきました。
 その後、旧海岸側に堤防が出来、そして現在は更に海側は埋立てられ、海岸は遥か先となりましたが、今でも地域住民によって林の清掃が行われていました。
20 畑貴船神社
祭神 高淤加美神(たかおかみのかみ)
    闇淤加美神(くらおかみのかみ)
    彌都波能売神(みつはのめのかみ)
例祭 9月12日
由緒 不詳
 境内に安永7年に氏子より寄進された鳥居があります。
21 畑城
 畑村村誌に、本村の西北にあって東西二十七間、南北七間と記載されているのみで、詳細は不明です。なお、門司城の支城で大内氏の家臣柳田氏が詰めていたと云われています。


 現在、山頂の東側は土取りによって削られているため、遺構らしきものは物見櫓といわれている土塁のみです。


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現在の山頂 昭和30年代の全景
今津から見た全景 山頂から津村島を望む
参考文献等
北九州の史跡探訪 昭和61年1月15日発行 北九州史跡同好会
北九州の史跡探訪 平成2年9月1日発行 北九州史跡同好会
門司郷土叢書 昭和56年9月30日発行 国書刊行会