門司区大里周辺地区
2007年6月17日開設
門司往還 
1 西生寺 2 大専寺 3 大里宿場跡 4 猿田彦
5 八坂神社 6 仏願寺 7 明治天皇上陸碑 8 住吉神社
9 旧サッポロビール工場 10 黄金塚 11 門司駅 12 関門鉄道トンネル
13 柳の御所 14 戸ノ上神社 15 風呂の井戸 16 静泰院跡
17 大乗妙典塔      
1 西生寺
浄土宗西山派
本尊 阿弥陀如来
由緒 総本山光明寺(京都府長岡京市)の末寺で、康正2年(1456年)に建立されました。開山は、等阿弥陀慧門大和尚です。江戸時代初期(1670年代)まで、大里宿場内の祇園社(今の八坂神社)前にありましたが、小笠原藩二代藩主忠雄の命により、細川忠利のお茶屋敷浜御殿があったこの地に移転しました。この寺は、企救郡の判行寺(キリシタン取締りの為の踏絵寺)でありました。なお、慶応2年(1866年)の豊長戦争で焼失したため、明治16年に再建されています。また、境内には、浜御殿時代の古井戸が残されています。


 福間元明は、天文8年(1539年)に生まれ16歳の時、毛利元就のお側元に勤め、度々の合戦で武勲を揚げました。その中でも尼子氏の勇将山中鹿之助を討ち取ったのは有名でした。そして、天正14年(1586年)、豊臣秀吉の九州出兵に参加し、大里の浜で戦死しました。享年48歳でした。元明の遺体は大里の浜に葬られ、松を植えて標としました。文化3年(1806年)、元明の子孫にあたる福間政方はその武勲を表す為松の傍に石碑を建立しました。 その後 石碑は転々としましたが、昭和15年頃境内に移されました。


 萬世一夢の碑は、神戸の合名会社鈴木商店が明治36年(1903年)に、大里製糖所 を設置しましたが、その際敷地内にあった無縁墓を 西生寺境内に移し建立したものです。
武将福間元明の碑 萬世一夢の碑
安永6年に造立された地蔵尊 一石五輪塔
久留米藩士の墓1 久留米藩士の墓2
久留米船屋敷
 久留米藩は、領内に良港がないため黒田藩より若松の港を借りて、参勤交代に使用する船舶を繋ぎ止めていましたが、寛永20年(1643年)即刻立退きを命じられたため、大里の浜を小倉藩から借用し船屋敷を設置しました。詰番の下級役人は常詰で、多くが相続によっていました。そのため、浄土宗関係者は西生寺、浄土真宗関係者は大専寺を菩提寺とし、墓は屋敷の海岸六本松や西生寺境内にありました。なお、屋敷は、元冶元年(1864年)廃止となりましたが、大専寺文書によると常詰の下級役人は、その後もこの地に滞在していたようです。屋敷の大きさは、宝暦7年の賃借証文写しによると縦35間、横25間とあります。また、屋敷地内には46〜50軒の屋敷があったようです。なお、明治時代の末まで船入りの跡が残っていました。
2 西光山大専寺
浄土真宗本願寺派
本尊 阿弥陀如来
由緒 永照寺の末寺で、昔は禅宗で柳村風呂にありましたが、慶長年間に開基浄欣によってこの地へ移転し真宗道場となりました。なお、慶応2年(1866年)の豊長戦争で焼失したため、明治11年に再建されています。
3 大里宿場跡
 江戸時代に入り街道の整備が進められ、寛永12年(1635年)武家諸法度により参勤交代が始まると、九州の諸大名は本州へ渡海するのに有利な大里の地を利用することになりました。そのため、寛永20年頃から宿場の整備が行われました。大里宿は、小倉から大里までの門司往還に沿って、小規模ですが直線の町並みで、本陣、番所、人馬継所等が建ち並んでいました。また、 参勤交代は、大変費用が掛かったため「いやなお客は鍋島薩摩 いつも夜泊り七ツ立ち」と当時の歌にあるように、宿に夜遅くついて朝早く出かけ、宿泊費を節約していたようです。慶応二年(1866年)長州軍の上陸により、この宿場は大火災となり焼失しました。宿場のすぐ北側は、関門海峡(大瀬戸)の波打ち際でしたが、現在は国道や工場等によって埋め立てられていますが、宿場内の道路は殆どそのままの姿を残しております。
 なお、この地は中世から本州への渡海地として知られ、当時の領主である大内政弘は「大内家壁書」[文明19年(1487年)]の中で、関(赤間関)から門司までの船賃を1文と定めていました。 なお、文化10年(1813年)に書かれた野田成亮の「日本九峰修行日記」には、大里から下関までの渡し賃は80文とあります。
人馬継所跡
 問屋場とも言い、旅行者の便宜を図るための施設で、人足や馬、籠が常備されており、人々は料金を支払って次の宿まで旅行しました。

本陣跡
 小倉藩の宿泊所で、九州の諸大名、日田代官、オランダ使節等が江戸への往還の際に利用しました。

御番所
 本州への渡海口に当たる為、船の出入りや人馬の切手改め、抜荷の取締りを行っていました。

大里村庄屋石原宗祐屋敷
 石原宗祐は、宝永7年(1710年)にこの大里村に生まれ28才で庄屋となり、宝暦7年(1757年)辞任するまで29年間庄屋を勤めた。その後は、猿喰新田の開拓に専念する等、生涯に門司区の六本松・小倉南区の新田開発を行いました。

重松彦之丞屋敷跡
 本陣に次ぐ武士や公家用の宿泊、休憩場所であった脇本陣に指定されていた屋敷です。伊能忠敬が文化7年1月12日に、測量に際し止宿したと日記に記載されています。
4 猿田彦
 八坂神社の境内隅に、大里地区の各所にあった猿田彦等が集められており、今も大切に祀られていました。
5 八坂神社
祭神 櫛名田比売命
    須佐之男命
例祭 7月28日〜7月29日
由緒 享保8年(1723年)に京都郡神田浦より住吉神社を合祀し、小倉藩主小笠原忠雄が社殿を建立したと云われています。なお、祇園社とも呼ばれています。

 
境内には、天保15年(1844年)に建立された鳥居や文化2年(1805年)石原宗祐によって建立された石灯篭があります。
 C57形蒸気機関車が八坂神社横に静態保存展示されていましたが、2005年おしくも解体されました。C57は、日本国有鉄道の旅客用テンダー式蒸気機関車で、ほっそりとした車体であることから、「貴婦人」という愛称が付けられた日本を代表する蒸気機関車です。なお、展示されていたC57 158は、1941年から1942年の間に製造された2次形でした。
6 仏願寺
浄土真宗本願寺派
本尊 阿弥陀如来
由緒 浄土真宗本願寺派に属し、慶長年間に当地に教化伝道の道場を創建したのが始まりとされ、開基は常称院釈教心大徳です。その後、寛永20年小笠原藩より、更に延宝5年本願寺より佛願寺の寺号が免許され永照寺の末寺となりました。慶応2年(1866年)の豊長戦争で本堂等は焼失しまししたが、本尊は猿喰に持ち出されていたため無事でした。その後、明治17年に再建されています。
  大里町消防組員犠牲者記念碑
7 明治天皇上陸碑
 明治天皇が、明治35年熊本で行われた陸軍大演習を統監するため、大里の浜に上陸されました。それを記念して、陛下が馬車に乗った辺りに松を植え「明治天皇記念之松」の石碑が建てられました。 その後、松は枯れ 石碑も突堤に移されていましたが、港湾工事によって現在地へ再移転されました。
突堤にあった時の石碑 現在の石碑
8 住吉神社
祭神 底筒男神 中筒男神
    表筒男神 神功皇后
例祭:7月28日・29日
由緒:小倉藩二代藩主小笠原忠雄が、享保8年(1722年)に京都郡苅田の神ノ島に鎮座する住吉神社を勧請したのがはじまりで、海上鎮護や異国船追討を祈願していました。また、 海峡を往来する多くの藩主も、海陸交通の守護神として海上より遥拝していました。
9 旧サッポロビール九州工場
 門司市の合資会社九州興業等が、神戸市の鈴木商店の援助を受け、明治45年に帝国麦酒鰍設立、大正2年工場が竣工し「サクラビール」を販売開始する。その後、「桜麦酒」「大日本麦酒」「日本麦酒」「サッポロビール」と社名変更や合併等の変遷を経ましたが、平成12年大分県日田市の新九州工場竣工とともに九州工場は閉鎖され87年間の歴史に幕を閉じました。
 現在は、北九州市立門司麦酒煉瓦館として、麦酒の歴史を紹介するミュージアム等として整備されています。
事務所棟

大正2年竣工    
鉱滓煉瓦造二階建塔屋付
建築面積 210u 延床面積446u
 
 鉱滓煉瓦建物では、最初期のもの現存最古の本格的鉱滓煉瓦建築です。
醸造棟

大正2年竣工 
煉瓦造七階建
建築面積 1211u
延床面積 3029u

 平成12年度まで醸造所として稼動していたため、内部にはドイツ製の醸造機器等が残されています。
倉庫棟

大正2年竣工 
煉瓦及び鉱滓煉瓦造平屋建
建築面積 950u 延床面積950u

 
10 黄金塚

 黄金塚古墳は、明治30年(1897年)畑地を広げようと盛り上がった土を削っていた時に発見されたもので、人骨、剣、中国古銭等が出土したと云われています。現在、石槨の一部で造られた記念碑が道路脇にあります。この他、大里地区には丸山古墳群や大里古墳群などがありましたが、道路工事等によって消滅してしまいました。
11 門司駅
 明治24年(1891年)4月1日、九州鉄道の開通とともに、大里駅として開業しました。そして、昭和17年(1942年)、関門トンネルの開通に伴い、大里駅を門司駅に、門司駅を門司港駅にそれぞれ改称しました。
 また、関門トンネルは蒸気機関車の運行が出来なかったため、昭和36年(1961年)に電化されるまで門司駅で機関車の交換が行われていました。
 駅舎は、平成16年(2004年)に建替えられましたが、ホームには古レールを利用した上屋があり、昭和25年3月30日取得の財産標がつけられています。

12 関門鉄道トンネル
 世界最初の鉄道海底トンネルとして、昭和11年(1936年)に起工し、昭和17年(1942年)に開通しました。全長 は、3.6kmで、その内海底部は1.1kmです。
 なお、工事は当時最先端のシールド工法で行われました。また、開通当初より直流1500Vで電化されており、EF10形機関車が運行していました。
13 柳の御所と柳神社
 寿永2年(1183年)山鹿(芦屋町)から、当時柳ヶ浦と呼ばれていたこの大里に逃れてきた平氏は、この地を仮の御所「内裏」と定め、 安徳天皇の屋敷等を急ごしらえで造りました。
 この頃平家が、都を偲んで詠んだ歌碑が境内にあります。  
  分けてきし 野辺の露とも 消へすして
     思はぬ里の 月をみるかな
            平 経正

  君住めは ここも雲井の 月なるを
     なお恋しきは 都なりけり
           平 時忠

 大里(だいり)の地名は、内裏(だいり)の名残りで享保の頃に改められたと云われています。 

柳神社
祭神 安徳天皇
    平宗盛卿
社殿は、明治天皇が明治35年(1902年)に熊本へ行幸の際、大里駅の御休憩所として新築されましたが、翌年地元要望によって移築されたものです。

 その他、境内には、文政元年(1818年)の寄進された手水鉢、文化2年(1805年)に造られた石祠や文化12年(1815年)に建立された庚申尊があります。
全景 社殿
歌碑 手水鉢
石祠 庚申尊
14 戸ノ上神社と満隆寺
祭神 天御中主神
    伊邪那岐神
    伊邪那美神
例祭 5月13日
    10月20日〜10月23日
由緒 寛平年間(889〜896年)に、柳ヶ浦の漁師重松大江が海中の網を引くと、光輝く玉がかかったたので、それを根二の浜の松の根元に置いたところ、馬寄村の伊古野大学に「我はこの浦の氏神なり」と天御中主神のお告げがありました。そこで、邸内に鳥居の宮を創設しました。その後、馬寄村の一坂の前立山に社を建て鎮座していましたが、峰刑部を祭主として枝折戸に奉し山上に祀り、戸上権現と称しました。後に山上を、上宮として山麓を本宮とし、柳ヶ浦七ヶ村の氏神として戸上神社と改めました。江戸時代になると、小倉藩主の細川氏や小笠原氏の尊崇篤く、社殿の造営や社領の寄進等がありました。また参勤交代で大里の宿場を通過する九州諸大名は、武運長久と海陸の交通安全を祈願していました。旧柳郷(大里)の氏子は古くより、戸上権現と呼び、開運長寿や産業興隆の鎮守の社として崇め奉っています。社宮は、平成13年7月火災により焼失したため、平成15年9月に再建されました。

鳥居
 大里の浜にあった久留米藩の船屋敷が、正徳元年(1711年)に海運の安全祈願を願って寄進した鳥居です。

灯篭
 文化五年(1808年)に、網屋九郎七によって寄進されたものです。

大乗妙典塔
 文政11年(1828年)に、当村の重松寿七守義夫妻によって造立されたものです。塔上には、観音像が置かれています。
本殿 鳥居
灯篭  大乗妙典塔
満隆寺
 平城天皇の大同元年(806年)、遣唐使から帰朝中の空海が、戸ノ上山に霊感を感じたため上陸し密法を修行され山麓に一宇を建立し、満隆寺と号したと云われています。その後戦国時代に大友氏の兵によって僧坊等悉く灰燼に帰しましたが、江戸時代に復興しました。しかし、明治時代の神仏分離令により廃寺となりました。
15 風呂の井戸と地蔵堂
 寿永2年(1183年)、「内裏」となったこの地で、天皇の旅の疲れをいやすため、夏涸れもせず底より玉のように泡とともに湧いていたこの「鏡ヶ池」の玉水を風呂の用水としたことから、この泉を「安徳帝風呂の井戸」と云われています。また、この周辺の地名は風呂と言われていましたが、大正時代に不老に変えられ町名となっていました。また、泉に横には、寿永4年(1185年)壇ノ浦の戦いで滅亡した平家一門の霊を祀った風呂禅院西光山大専寺の地蔵堂があり、安徳天皇の霊を弔らっています。
16 静泰院(じょたいいん)跡 
 小笠原藩初代藩主忠真の弟小笠原出雲守長俊は、徳川家光に仕え五千石を領していましたが、寛永2年(1625年)職を退きこの地に住んでいました。このことから、この辺りは出雲山と呼ばれていました。その後、万治元年(1658年)に亡くなり、この山中に葬られたため、その子である小笠原長繁が父を供養するため建てた寺が、父の法号「静泰院殿」をとって静泰院と名づけました。
 靜泰院が北豊一の学園と言われるようになったのは、山形出身の禅僧蘭山が小倉城内の開善寺より明和7年(1770年)この寺に移ってから、全国から教えを請う僧が集まったことによります。蘭山は、その余生を彼らの練成に注ぎ、在院28年間にその数は数千にも及んだと云われています。その後、京都竜安寺に招かれましたが、わずか1年で亡くなり、時の高格天皇より「円妙応禅師」の称号を賜っています。なお、江戸時代の終わり頃には衰退を始め、明治時代になると本堂(七間四方)は、行橋市沓尾の法円寺へ、鐘楼は大里の西生寺へ、経堂は数千巻の経巻ともに何れかへ売却されたと云われています。
静泰院跡 蘭山の墓
諸国より集まった僧の墓
17 大乗妙典塔
 寛政3年(1791年)に、企救郡赤阪邑の中村新七義規夫妻より奉納された大乗妙典塔と寛政6年(1794年)に建立された三界万霊塔が現在も大切に祀られています。これらの塔は、元々靜泰院内の馬場にあったものです。
参考文献等
北九州市史 近世 平成2年12月1日発行 北九州市
北九州市史 近代・現代 昭和61年12月10日発行 北九州市
北九州の史跡探訪 昭和61年1月15日発行 北九州史跡同好会
北九州の史跡探訪 平成2年9月1日発行 北九州史跡同好会
門司郷土叢書 昭和56年9月30日発行 国書刊行会