小倉南区呼野・小森・市丸・石原町地区 2008年1月20日開設(2009.4.24更新) |
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1 稗粉池 | 2 大泉寺 | 3 大山祗神社 | 4 旭堂と自然銅 |
5 猿田彦 | 6 円龍寺 | 7 呼野駅 | 8 里程標・呼野 |
9 雪舟の庭 | 10 貨物線路跡 | 11 大清水神社 | 12 小野田屋敷 |
13 椋の木の神 | 14 東谷郷土資料館 | 15 原口九左衛門碑 | 16 天疫神社 |
17 木下城 | 18 大応寺 | 19 里程標 | 20 高住神社 |
21 西円寺 | 22 坪根吉太郎碑 | 23 塔ヶ峰城 | 24 棚田 |
25 法円寺 | 26 五輪塔 | 27 天疫神社 | 28 石原町駅 |
29 櫨ヶ峠隧道 | 30 大山祗神社 |
1 稗粉池(へいごのいけ) 江戸時代、この呼野地区では灌漑用水が不足し、度々干ばつで困っていました。そこで、村人は、平尾台の山裾から絶えず湧き出ている水を利用する為、ため池を築くことにしました。しかし、工事中堤防を築いても度々決壊しました。そこで、神様に工事の無事を祈願する為、人柱をたてることにしました。この時、すすんで申し出たのが14才の娘「お糸」でした。この犠牲によって、工事は享保3年(1718年)完成しました。その後、豊作が続きましたので、村人はお糸の魂を供養するため、地蔵様を奉納しました。現在、堤の上にはお糸の墓と「お糸地蔵の由来」を書いた記念碑が建っています。また、毎年8月24日「お糸まつり」が開かれています。
なお、人柱の「お糸」伝説は、広島県福山市にも残っています。遠景 湖面で奥に湧水源がある 湧水源 お糸の墓 2 大泉寺 浄土宗
本尊:不明
由緒:寛永5年(1628年)7月、身譽智應によって開基されました。なお、一説には元禄5年(1692年)の開基とも記載されています。
宝典寺の末寺となっています。全景 お糸の両親の墓 3 大山祗神社 祭神:大山津見神
木花咲夜姫神
五十猛神
須佐之男神
金山彦命 弥須波能売神
例祭:6月15日
由緒:不詳
慶長年間(1596年~1614年)に、小倉藩主細川忠興がこの山で金山開発を行った時に、守り神として祭られたのが始まりとされ、その後祗園社も祭られたため、里人は祗園社とも云っていました。
境内には、昭和37年7月に県天然記念物の指定を受けた公孫樹(いちょう)があります。この木は、県内最大級のもので、高さ30.7m、胸高幹周8.5mの大きさです。近年、樹勢が衰えていたため、平成7年と9年に、本格的な治療を行った結果、すっかり蘇り秋には沢山のギンナンも実るようになりました。4 旭堂と自然銅 二市一郡新四国霊場第65番前札となっているお堂で、本尊は弘法大師です。
本尊は、剥げた岩肌の窪みに祀られており、岩肌には、雨水や空気中の炭酸ガスと銅の反応により生成したと思われる鮮やかな緑色をした皮膜状の鉱物が付着しております。5 猿田彦 旭堂の前には、旧香春街道が通っており、道路わきに文政10年(1827年)に、建立された猿田彦大神が祀られています。 6 円龍寺 真宗本願寺派
本尊:不明
由緒:寛永元(1624年)年8月、了庵によって開基されました。なお、一説には寛永2年(1625年)の開基とも記載されています。
法輪寺の末寺となっています。7 呼野駅 この駅は、大正4年(1915年)に、小倉鉄道の駅として開業しましたが、昭和18年5月に、小倉鉄道の国有化により国鉄の駅に変更となりました。そして、昭和62年4月から、九州旅客鉄道日田彦山線の駅となっています。
なお、この駅は金辺トンネルの手前にあり、トンネルまで続く登り勾配の途中にあります。そのため、スイッチバック式の駅になっていました。小倉からの下り列車は、そのまま駅ホームへ進み停車後、進行方向が逆になり小倉方向へバックしたあと、引上線へ進んで停止。そこから加速をつけて登り勾配を金辺トンネルへ進んでいました。このスイッチバックは、昭和58年まで使用されていたました。8 呼野の里程標 江戸時代、香春街道に建てられていた道標の一つで、「従是小倉迄三里弐拾四町」「従是大里迄四里弐拾七町」「従是採銅所迄壱拾四町」と刻まれています。もともとは高札場のあったお糸地蔵堂前にありましたが、昭和48年頃に現在地へ移設されました。 9 雪舟の庭 文正元年(1466年)、雪舟は英彦山に登る途中、かねて懇意であったこの村上家に立ち寄りました。その時、 この庭園が自然の山林を借景して見事なものであつたため、自ら池を掘り、石を据え、庭園を築造したと云われています。
※雪舟は、応永27年(1420年)備中国赤浜(現在の総社市)に生まれました。そして、享徳3年(1454年)頃、大内氏の庇護を受け、雲谷庵(山口市)を構えていました。その後、応仁2年(1468年)に遣明使船で明へ渡航しています。突き当りが村上家 庭園 10 貨物専用線路跡 三菱マテリアル東谷工場から採掘された石灰石を、黒崎駅まで送る貨物列車の専用線がありましたが、平成8年(1996年)3月に廃止となりました。この専用線は、石原町駅と呼野駅の間で日田彦山線から分岐していました。また、住友セメント小倉工場への専用線も、この専用線からさらに分岐していました。 11 大清水神社 祭神:志那都比古神(しなつひこのかみ)
※日本書紀では級長津彦命
弥都波能売神(みづはのめのかみ)
志那戸辨命(しなとべのみこと)
※級長戸辺命
天照皇大神
大山津見神
例祭:9月7日
由緒:平尾台の山麓で、昔から霊水が湧き出ていたため、祠を建て風と水の神様を祀っていたのが始まりとされています。その後官社となり、大宰府より毎年6月の晦日に幣が奉られていたと云われています。また、承徳2年(1098年)頃、大宰府の実質的な長官である大宰権帥(だざいごんのそち)として大江匡房(おおえの まさふさ)が、大宰府に赴任する際ここに立寄り、読んだ歌が「夫木和歌抄」に載せられています。
「ほさはやな篠打かけてほすころも清水の宮の流れ絶せて」
そして、天正13年(1585年)因幡国住人山野大学助種康が社殿を再建したと棟札に書かれていました。
このほか、寛永16年(1639年)、宝永5年(1708年)、元文5年(1740年)の棟札が残っているといわれています。
境内には、寛政6年(1794年)に建立された灯篭があり、また注連縄が巡らされた泉からは滾々と清水が湧きでいました。鳥居 本殿までの階段 寛政6年の灯篭 本殿 注連縄が巡らされた泉 泉中央の何かの基礎石 泉からあふれ出ている清水 12 小野田屋敷跡 中世の豪族「小野田」氏の屋敷跡と云われているもので、道路に面して土塁が残っています。 13 椋の木の神 江戸初期の記録に木下村の記載があり、村名の由来は隣接する道原との村境に古城があり、城下(しろした)と言われていたのが何時の頃からか木下になったといわれています。その木下村が、大火事に見舞われた時、たまたま通りかかったお坊さんが、お祈りして水の神をよび、大火を静めたました。そして、その神がこの木にお降りになったといわれています。以来、村人によって大切に祀られています。
※椋の木(むくのき)
ニレ科・ムクノキ属・落葉高木、
語源は、良く茂る木の意味の「茂くの木」であると云われています。葉っぱは、サンドペーパーが無かった頃、漆器や象牙などの研磨に使われていました。椋の木の遠景 根元の祠 現在の町並み 国道と旧道の交わり地点 14 東谷郷土資料館 東谷郷土資料館は、昭和47年この地区の公民館長が農家の改築に伴い、昔の農機具や家具等が破棄されていくのを危惧し地区の人々に呼びかけて、昭和55年(1980年)4月に開館しました。建物は、木下地区の旧高橋家を東谷興農会より無償で貰い受け、現在地に移設しました。
現在、東谷地区まちづくり協議会の 専門部会「東谷郷土資料館運営委員会」が所蔵品整理等を行っています。資料館全景 展示農機具 幕末から明治初年にかけて企救郡一円は、長州藩の占領下でした。そうした中、戦場となったことや天候不順による不作が続き、農民は年貢の減免を願い出ましたが、村役人等の腐敗や不正が横行していたため、農民の不満が募り、明治2年(1869年)11月新道寺村に端を発した一揆は次第に拡大し、企救郡全域に及ぶ企救一揆となりました。この一揆の責任者として新道寺村の原口九右衛門は、明治4年3月、日田にて処刑されました。享年36歳、その義心、徳を顕彰して昭和49年に社団法人東谷興農会が碑を建立しました。 祭神:素戔嗚尊(すさのおのみこと)
大己貴命(おほなむち)
少彦名命(すくなひこなのかみ)
由緒:不詳
木下村の名前の由来となった山城で、旧木下村と旧道原村の境になっている尾根にあります。従って、木下城との名称は木下村となってからのものであるため、築城当時の名称は不明です。 また、築城者は麓の中世館の主、小野田氏とも云われています。
木下城へのページ浄土宗西山派
本尊
由緒:不詳
天正7年(1579年)に、護念寺の末寺として建立されたと云われています。なお、保元2年(1157年)に蓮心が開基したとも云われています。
境内に、一石五輪塔が二基祀られています。
19 石原町の里程標 江戸時代、香春街道に建てられていた道標の一つで、「従是小倉迄弐里弐拾五町」「従是大里迄参里弐拾五町」「従是呼野迄壹里十四町」と刻まれています。現在の高さは1.5mで、30cm角の石柱となっています。昭和30年代に倒れ、四つに割れてしまい、永らく大応寺に保管されていましたが、平成12年にほぼ元の場所に修理建立されました。なお、頭部の「従是」は、倒れた時に紛失しております。
祭神:豊日別命(とよひわけのみこと)
闇淤加美神(くらおかみのかみ)
闇御津羽神(くらみつはのかみ)
高淤加美神(たかおかみのかみ)
例祭:8月3日
由緒:不詳
なお、明治13年、境内に河内神社と山神社が移転しています。
河内神社 北山社とも云いますが、詳細不明。
尻ふり祭り終了後に使用した木剣を
奉納していました。
山神社 祭神 大山津見神
土蜘霊社とも云いますが、詳細不明。
※ 井手浦の奇祭「尻ふり祭」
毎年1月8日、村人が庭先(近年は井手浦公民館前広場)に祭壇を設け、藁で造った長さ4m、高さ3m程の大蛇を奉納し、その前で神主、当番座元、翌年の座元の三人が腰をかがめお尻を振ります。大きく振るほど大豊作と言われる大変珍しい祭りです。これは、昔平尾台に大蛇がいて悪さをするので、神様がこれを退治したところ尻尾が井手浦の里に落ち、ピンピンと振ってその年は大豊作に恵まれたという故事に由来すると云われています。浄土宗西山派
本尊:阿弥陀如来
由緒:不詳
応永25年(1418年)に、護念寺の末寺として建立されたと云われています。なお、保元2年(1157年)に蓮心が開基したとも云われています。
光明寺及び護念寺の末寺となっています。
また、現在二市一郡新四国霊場第78番札所となっています。
境内には、六地蔵が祀られています。22 坪根吉太郎碑 軍艦初瀬は、明治34年(1901年)イギリスの造船所で建造され、明治37年(1904年)日露戦争に於いて第1戦隊の旗艦として参戦しましたが、旅順港外を哨戒中、ロシア軍が敷設した機雷に触れ沈没しました。
その時、乗員834名中493名が死亡、この碑は亡くなった坪根吉太郎を偲んで日露戦友軍人によって明治39年(1906年)に建立されたものです。 ※ 現在、井手浦浄水場となっている付近から明治44年12月に、「至徳二年 豊前規矩郡大野庄井手浦西光寺鐘」と刻まれた梵鐘が掘り出されました。この鐘は、貫山権現に同じく梵鐘を奉納した願阿の孫「沙弥祖西」が鋳工安宗に鋳造させ、至徳2年(1385年)奉納したものです。天正年間(1573~1592年)、長野氏が築いたが大友氏より攻め落とされたと云われています。
西光寺は、塔ヶ峰城と同じく天正年間(1573~1592年)に大友氏の兵火によって消失しましたが、その際梵鐘を守るため埋められたと云われています。また、鋳工安宗は小倉鋳物師です。なお、昭和34年に県の有形文化財に指定されています。
塔ヶ峰城のページへ井手浦から見た全景 尖った先端の尾根に城があります 24 井手浦の棚田 平尾台の麓「井手浦」には、棚田や清流など美しい里山の風景が残っています。また、ここで生産される米は、盆地になっているため気温が低く、おいしいと評判です。昔は、小笠原藩主の御用米専用の田んぼだったと云われています。 真宗本願寺派
本尊:阿弥陀如来
由緒:天正元年(1573年)8月23日 に、善永が開基したと云われています。はじめは、丸山という場所にありましたが、明治10年(1877年)現在地へ移転しました。山家先生之碑
この碑は、中谷高等小学校の設立に功績があった山家徳象を称えて東谷村が建立したものです。山家氏は、明治31年(1898年)に28歳の若さで亡くなっています。また、碑の表の文字は、森鴎外の書によるものです。
※中谷高等小学校は、明治25年に設立され、明治43年に東谷第一尋常高等小学校に改称されています。現在は、新道寺小学校となっています。現在、山門横の鐘楼にある梵鐘は、近年寄進されたものですが、昭和34年に県指定有形文化財となった梵鐘が大切に保管されています。この梵鐘は、もともと国東半島の盛福寺のものでしたが、明治10年(1877年)に門徒が京都の寺にあったものを購入し法円寺に寄進しました。その時、元々あった銘の上から追銘を刻みましたが、わずかに原銘の一部が残っており、このことから南北朝時代の永徳元年(1381年)に造られたことが明らかとなりました。
※梵鐘の大きさ 総高86.5cm 口径50.1cm 総重量110kg道路の辻脇に、4基の一石五輪塔が大切に祀られています。
27 天疫神社 祭神:須佐之男命(すさのおのみこと)
大穴牟遅命(おほなむち)
少彦名命(すくなひこなのかみ)
由緒:不詳28 石原町駅 この駅は、大正4年(1915年)に、小倉鉄道の石原町(いしわらまち)駅として開業しましたが、昭和18年5月小倉鉄道の国有化により国鉄の駅となり、駅名を(いしはらまち)に変更しました。そして、昭和62年4月から九州旅客鉄道日田彦山線の駅なっています。
駅舎は、外装の塗り替えなど改装や増築が行われていますが、開業当時からの駅舎で門司港駅に次いで2番目に古いものとなっています。その面影は、待合室天井の意匠や換気孔に見ることができます。
また、この駅は三菱マテリアル東谷鉱山で採れた石灰石を積出していたため、九州最大の石灰石発送駅でしたが、国道バイパス完成により、トラック輸送に切り替えられ、貨物列車は廃止されました。天井の意匠 29 櫨ヶ峠(はぜがとうげ)隧道 道原と石原町を最短で結ぶ峠道に、昭和6年(1931年)トンネルが竣工しました。このトンネルは、煉瓦からコンクリートへと変わる昭和初期の山岳トンネルで、入口は馬蹄形ですが内部は素掘りで壁面はコンクリートの吹付となっています。
幅員は3.7mで、長さ約280mとなっています。
戦時中、このトンネルは弾薬庫として使われていたと地元の方より聞きました。(2009.4.24)櫨ヶ峠への山道の途中に、ひっそりと小さな鳥居と祠があります。 祭神:大山津見神
例祭:不詳
由緒:不詳
参考文献等 北九州の史跡探訪 昭和61年1月15日発行 北九州史跡同好会
北九州市史 近代・現代(教育・文化) 昭和61年12月10日発行 北九州市
復刻 企救郡誌 昭和52年2月11日発行 防長史料出版社
三谷むかし語り 合本第一巻 平成9年4月20日発行 むかし話をする会
小倉市誌 補遣 (復刻版) 昭和48年6月13日発行 名著出版