小倉南区曽根地区
2006年4月19日開設
 1 間島  2 間島古墳群  3 間島の石塁と土塁  4 間島の加工石
 5 綿都美神社  6 蛭子神社  7 竜王寺  8 溺死塔
 9 荒神森古墳  10 天疫神社  11 円光寺古墳  12 学田之碑
 13 謹念寺      
1 間島
 曽根新田の東方約1.5kmの海上にあり、干潮時には歩いて渡ることが出来ます。周囲は、約1kmで三角形の形をしており、西の端から陸に向かって砂洲が延びています。
2 間島古墳群


 
古墳群は、間島の南北の山に挟まれた谷にあり、現在6基の古墳が確認されています。大半の古墳は、石室の石材が抜き取られるなど破壊が進んでいますが、形状や一部残存している腰石等から、直径10m前後の円墳、内部は横穴式石室で、それぞれ谷間に向かって開口するものと考えられています。その中で、保存状態の良い1号墳は、径約6mの円墳で天井石が無くなっている為内部を見ることが出来ます。羨道部は埋もれていますが、玄室は幅約1.3m、長さ1.95mで高さは約1.7mと推測されています。奥壁側の一部に玉砂利が残っていることから床全面に敷かれていたものと考えられています。また、築造された年代は、六世紀後半と考えられています。




1998年4月撮影時の1号墳石室内部
1号墳の全景 1号墳の内部
3号墳の全景 3号墳の腰石
2号墳の全景 2号墳の羨道部
石材が全て抜かれています
6号墳の全景 6号墳の石材
5号墳の全景 4号墳の全景
石材が全て抜かれています
3 間島の石垣と土塁
 間島の古墳群がある谷に、石垣と土塁によって囲まれた窪地があり、その入口は侵入者を妨げるようにつづら折となっています。築造時代や目的は不明です。
入口部分

下部は石垣で、上部は土塁
4 間島の加工石
 間島には、加工された石が点在しています。
①は、3号古墳から東側の鞍部に自然石の立石と並んで置かれています。
②は、3の窪地北側の斜面にあり、石材を採った後の残存石です。
③は、東側の海岸に放置された、割り掛けの石材です。
④は、東側の海岸に放置された、割り掛けの石材です。
祠のような加工石 ②矢穴の入った石材1
③矢穴の入った石材2 ④矢穴の入った石材3
5 綿都美神社
祭神:高淤加美命
    綿都見命
    闇淤加美命

例祭:4月1日
由緒:寛政8年(1796年)、犬甘兵庫が国家老の時、藩主小笠原忠苗の命により、新田開墾の工事が始まる。津田手永の各村より割当出役人夫を出し、まず潮留堤防の建設工事から始まり、8年目の享和3年(1803年)に完成。そして、曽根三村を始め、東西朽網村等から農民を移し、田畠を割当、耕作を始め一村を為し曽根新田村と称る。文化14年(1817年)7月、大風雨洪水の災害で堤防が7ヶ所決壊、同年10月より修復が始まり、翌文政元年十一月に竣工する。しかし、これらの天災事変は、海を埋めて陸を作る等海神の激怒に触れた為で、災いを再度招く恐れがあるので新田鎮守の為、神社を勧請しようとの話がでる。この話は、庄屋津田平左衛門より家老大羽内蔵助を経て、藩主へ御伺いしたところ、快諾を得、上曽根村宗像神社大宮司従五位下深田綾部助に御沙汰がでる。文政元年11月、建築が始まり、文政2年2月竣工、同3月29日夜遷宮する。

境内には、新田開墾の記念碑と国家老犬甘兵庫の顕彰碑があります。
安政3年建造の鳥居 本殿
新田碑 犬甘兵庫の塔
6 蛭子神社
 祭神、由緒とも不明ですが、文化元年(1804年)建造の鳥居がありました。
7 竜王寺
浄土宗西山派
由緒:寛政8年堤(1796年)を築き、新田を開発しようとしていましたが、台風によって堤が完成しない為、経石を投じ海神に祈り、やっと完成することが出来ました。そのお礼の為、一堂を建てたのが始まりとされています。


また、ここの境内にも国家老犬甘兵庫の碑があります。

寺への道標

本堂
犬甘兵庫の碑
8 溺死塔
 文化14年(1817年)7月2日夜の台風によって、堤防が決壊し、民家40数戸が水没、溺死者十有五人を出した。その災難を供養する為、その年の秋建立された碑です。
9 荒神森古墳と荒神社(浮津島神社)
 北九州市内最大の前方後円墳で、全長約68m、幅約41mの大きさです。墳丘は、前方部に比べて後円部が大きく、円筒埴輪がめぐっていました。また、周囲は濠で囲まれていましたが、現在では埋め立てられており当時を窺い知ることは出来ませんが、西側に一部ですが周庭帯が残っています。
祭神:経津主命
   須佐之男命
   武甕槌神
   御都波能売神
例祭:8月16日
由緒:創立は、景行天皇13年に勧請したと云われています。また、御都波能売神は、明治13年に合祀されました。

その他、境内社として八坂神社があります。
祭神:須佐之男命
   櫛名田比売命
由緒:創立は、文明2年と云われています。
猿田彦 文化11年に寄進された手水鉢
10 天疫神社と碑
祭神:御津波能売神
   宇迦之御魂神
   保食神
   大穴牟遅神
   少彦名神
   市寸島比売神
例祭:8月16日
由緒:創立は、応永元年(1394年)と云われています。御津波能売神
字松塚に水神社として、宇迦之御魂神、食神は字下塚に稲荷神社として、市寸島比売神は字平松に厳島神社として祀られていましたが、大正7年に合祀されました。


津田翁碑
 津田手永の大庄屋津田維寧は、企救郡初代の郡長に就任し小倉波止場の築造、門司の築港に着手、門司新報の創刊等に功績を残しています。


自在陂(つつみ/堤防)の碑
 津田手永の中村平左ヱ門は、水不足で旱魃の心配が絶えなかったため、天保の頃、自在池(大池)を貫に完成させました。住民はこのことを顕彰して、明治14年この碑を建立しました。


大池(自在池とも呼ばれている)の碑
 水不足を解消するため、享和年間に潤崎に池を作ったが水溜が悪く、文化年間に大熊に池を作ったが水利が不便であった。さらに、大久保に池を作ったが水溜が悪く、人々は潤崎・大久保の二池を邪魔が池と呼んだ、そして天保四年に薬師堂に池を作ったが、ここも小池で水に乏しかった。そのため、遂に津田迫の地を選み、大池を作りました。
文化6年建造の鳥居 本殿
左は、鳥居の銘で右は狛犬。 津田翁碑
自在陂の碑 大池の碑
11 円光寺古墳
 以前から古墳の存在は知られていましたが、最近の発掘調査で全長約42mの前方後円墳であることが判明した古墳で、荒神森古墳、丸山古墳と3代続く曽根古墳群の存在が明らかとなりました。
 この古墳からは、朝顔形円筒埴輪等が出土しています。
円光寺・道路より高くなっている
のがわかります。
発掘調査後の状況
12 学田之碑
 明治4年、廃藩置県によって企救郡の大里正(大庄屋)の制度は廃止となりました。そのため、それまで大里正を務めていた人々は、職分(手当て)として与えられていた16町歩余(16ヘクタール)の田畑からの収益を今後どうするか話し合った結果、その頃開校したばかりの学校に贈ることを決定しました。この資金によって、村民の負担も半分になったので、感謝の気持ちを記念してこの碑を建てました。
※資金を送られた学校
承休(明治6年中曽根に開校)、進成(下曽根)、朽網(明治7年東朽網に開校)、貫(明治7年上貫に開校)、長野(明治7年下長野に開校)
13 謹念寺
真言宗醍醐派
本尊:
由緒:永正年間(1504~1520年)、曽根の社司別府氏が霊感から得た観音像を祀りお堂を建てて木樒堂と名付けました。また、参詣の人々が多く集まったので、この地を市場と言うようになりました。その後、大友の兵乱に遭い焼失しましたが、天正18年(1590年)一宇が再建されたのが始まりとされています。


境内には、板碑、一石五輪塔、五輪塔、宝篋印塔が集積されています。
参考文献等
北九州の史跡探訪 昭和61年1月15日発行 北九州史跡同好会
北九州市史 近代・現代(教育・文化) 昭和61年12月10日発行 北九州市
復刻 企救郡誌 昭和52年2月11日発行 防長史料出版社