小倉南区志井地区
2009年12月30日更新(2009年8月19日開設)
 1 多賀八幡神社  2 四つの井戸の一  3 福楽寺  4 四つの井戸の二
 5 志井小学校跡  6 田園風景  7 堀越の十三塚  8 恵比須神社
 9 五輪塔  10 子身神社  11 交通科学館跡  12 四つの井戸の三
 13 宝篋印塔   14 猿田彦大神   15 四つの井戸の四  16 興玉神
17 志井鉱山開発記念碑  18 岩倉観音  19 石灰窯跡No1  20 興玉神
 21 一石五輪塔  22 塚と宝篋印塔等  23 石灰窯跡No2  24 阿弥陀寺
1 多賀八幡神社
祭神:伊邪那岐命
例祭:9月8日9日
由緒:元慶6年(880年)近江国多賀神をこの地に勧請したのが始まりとされています。その後、長野豊前守種盛が椎山に城を構えてから長くこの地の鎮守とするため、椎山の頂に宮柱太く敷き立てて鎮座しました。応永年間に、この山の麓に社を移しました。また、この社は山上にあった時北殿に並んで「天之御中主」の神を祀っていたことにより妙見社とも呼ばれてきました。


 境内に、寛政12年(1800年)建立の鳥居の柱や文化14年(1817年)建立の猿田彦大神、弘化3年(1846年)寄進の灯篭があります。
全景 本殿入口
本殿 文化14年建立の猿田彦大神
弘化3年寄進の灯篭 寛政12年建立の鳥居
2 四つの井戸の一
 多賀神社の神様へお供えする新米を、洗い清めるため、清水を汲んだ井戸の一つです。多賀神社から北側の谷を降りたところに所にあり、現在も清水が滾々と湧いています。
 また、この地区に、これらの井戸が四つあることから、四つの井戸(志井)という地名がついたと言われています。
全景 清水が滾々と湧いています
3 福楽寺
浄土宗西山派
本尊:
由緒:不詳


 境内には、六地蔵や五輪塔が沢山祀られています。なお、五輪塔の一部は、志井6丁目の宅地造成によってこの地へ持ち込まれたと言われています。
全景 本堂
六地蔵 五輪塔1
五輪塔2 五輪塔3
4 四つの井戸の二
 志井の地名の由来となった四つの井戸の内の一つです。県道井手浦徳力線に面しており、現在でも清水が湧いています。
全景 井戸
5 志井小学校跡
 明治10年3月に、企救郡東紫村志井小学校がここに設置され、明治23年10月には志井尋常小学校となりました。その後、明治36年3月には、企救郡東紫第三尋常小学校と改称しましたが、東紫村・城野村及び西紫村一部が合併し企救町となり志井尋常小学校に戻りました。そして、昭和15年3月現在地へ移転しました。
6 田園風景
 志井地区の平野部には、まだまだ水田等古きよき小倉の原風景が残っています。
7 堀越の十三塚
 志井地区の東端、堀越の小高い丘に、県指定有形民俗文化財となっている塚があります。現在12基が残っていますが、1基は道路拡幅によって消滅しており、合計13基の塚があったことから十三塚と呼ばれています。また、中央の塚に「堀越太郎義長之墓」と刻まれた石碑があり、戦国時代に毛利勢によって滅ぼされた堀越城主と12人の部下の墓と伝えられています。
 塚は、南北約70mの間に、高さ35~111cmの盛土が一列に並んでいます。
 十三塚については、怨霊慰撫、死者供養、境界指標、鎮護祈念、仏教の十三仏信仰によるなど諸説がありますが、定説はまだありません。
全景 一・二基
三基 四基
五基 六基
七基 八基
九基 十基
十一基 十二基目があった場所
十三基 堀越太郎義長之墓の石碑
8 恵比須神社
祭神:事代主命 闇淤加美命 大山祇命
例祭:11月3日
由緒:
大永7年(1527年)に、この地に勧請されたと云われています。また、企救郡誌によると、この場所は肥後往来(?)に面しており市が立っていたと書かれています。
9 五輪塔
 上志井公民館近くの丘陵先端にある墓地内に五輪塔が3基祀られています。
10 子身神社
祭神:木花咲耶比売命 大山祇命
例祭:6月11日、11月11日
由緒:
不詳

 企救郡誌によると、この社の名称は、「木実神社」「小野見神社」と記載されています。また、社殿の配置は、参道から直ぐに本殿が後ろ向きにあり、その奥に拝殿となっており通常であれば、参道の位置が全く逆の川の方にあるべきであります。
全景 本堂
11 交通科学館跡
DD118ディーゼル機関車
車体の長さ 10.4m 幅 2.785m
車体の高さ 3.76m
車体の重量 33.92㌧ 最大速度 53km/時
 このD11形ディーゼル機関車は、日本で最初に液体変速機を使ったものとして9両しか製造されていません。なお、この機関車は、昭和32年3月に大阪で製作され昭和49年まで国鉄の長崎早岐機関区で使用されていました。その後、住友金属工業小倉製造所で再使用されていましたが、昭和60年交通科学館の開館を記念してここに保存展示されました。
旧交通科学館と機関車 DD118ディーゼル機関車
ワンマン(ボギー)車100型
車体の長さ 12.08m 幅 2.28m
車体の高さ 4.022m
車体の重量 17.6㌧ 定員 70人
 昭和15年に製作された10台のうちの1台で、車体は流線型が採用され、当初前消燈が上部に埋め込まれていましたが、昭和36年現在のように改造されました。
また、昭和46年に初めてドアが自動化されました。昭和60年10月、西鉄電車の戸畑線・枝光線・北九州線の一部(門司 - 砂津間)廃止にともない、ここに保存展示されました。
ワンマン(ボギー)車100型
12 四つの井戸の三
 志井の地名の由来となった四つの井戸の内の一つです。集落の山際に、人頭大の大きさの石で、囲いがされているだけで井戸といった風情は全くありません。しかし、現在でも清水が湧いていました。
13 宝篋印塔
 3番目の井戸から山際に少し入ったところに小さな祠があり、その傍らに、石灰岩製の宝篋印塔の笠石のみが保存されていました。
14 猿田彦大神
 集落内の道の辻に、板石で組まれた小さな祠があり、その脇に、文政5年(1822年)に建立された猿田彦大神が祀られていました。
15 四つの井戸の四
 志井の地名の由来となった四つの井戸の内の一つです。井の谷池に面しており、最近まで隣接してあった民家の方が使用されていたとのことで、一昨年写真のように新たしく井戸枠を整備したとのです。また、現在でも清水が湧いており、池の水源ともなっています。 
16 興玉神
 井の谷池に面して、4番目の井戸の脇に文化元年(1804年)6月に建立された興玉神があります。現在でも大切に祀られていました。
17 志井鉱山開発記念碑
志井鉱山は、昭和34年8月㈱八幡化学工業が石灰石の鉱業権を取得し、清新産業㈱が採掘と輸送を行うこととなった。しかし、採掘に先立ち、搬出に必要な道路が狭隘であったため、県の許可を得て徳力から志井までの5kmに亘って用地買収と道路拡幅を行い県へ寄付。また、国道322号線に接続させるため新高美橋を建設するなどして輸送体制を確立し採掘を開始。しかし、昭和41年採掘総量160万㌧をもって廃止となり、これらのことを後世に伝える為、昭和52年6月に記念碑が建立されました。
記念碑 碑文と向こうに見える山が、志井鉱山の採掘跡です。
18 岩倉観音
本尊:観世音菩薩
由緒:不明

 現在は、二市一郡新四国霊場の第30番奥の院となっている御堂です。
 土地の人の話では、以前はお坊さんが住んで居たとの事で、お堂には「法蔵寺」の額が掲げられていました。また、福楽寺の末寺とも言われています。

 境内には、文政13年(1830年)に建立された「神社仏閣宝塔」があります。
全景 神社仏閣宝塔
19 石灰窯跡と採石場No1
 山裾の斜面に、大規模な石灰窯が残されています。農業生産に化学肥料が多用される昭和30年代まで、この地で産する石灰石を焼いて生石灰等を作っていたとのことで、ここでは、無煙炭をベースに石灰石と石炭を交互に積み上げ焼いていたと言われています。
 また、釜の上段東側に隣接して石灰岩の採石場があり、ここで採石した石灰岩を釜の上部から投げ込んでいたようです。
全景1 全景2
横から 採石場
20 興玉神
 道路の辻に面して、石組みで基壇を造って、文化年間に建立された興玉神があります。
21 一石五輪塔
 民家の塀際に、石灰岩製の一石五輪塔が大切に祀られています。
22 塚と宝篋印塔等
 東谷川の支流茶屋川に接して現在は楕円形となっていますが、直径約20mの塚が田んぼの中にあります。地元の方の話では、昔ここで即身成仏になった僧侶を祀るため塚を築いたと云っていました。現在は、五輪塔の一部と宝篋印塔の笠石が祀られています。なお、当初は円形の塚であったのが、川の流れに南側が削られ現状の楕円形になったと考えられます。
全景 五輪塔等
23 石灰窯跡と採石場No2
 井の谷池横の山裾斜面に、NO1と同規模の石灰窯が残されています。こちらは、釜の中央部に向かって赤煉瓦で組まれたトンネル状の構造物が残っており、焚き口ではないかと思われます。
 また、こちらも、釜の上段南側に隣接して石灰岩の採石場があります。
奥の森が窯跡です 焚き口1
焚き口の内部 採石場
24 阿弥陀寺と五輪塔
真宗本願寺派
本尊:
由緒:元和元年3月、専教寺の第4代住職の時、この地区に多数の信徒がいたので草庵として阿弥陀堂を建立したのが始まりとされています。

 境内には、一石五輪塔が2基と五輪塔及び宝篋印塔の笠石等が数点保存されています。
本堂 一石五輪塔
五輪塔と宝篋印塔1 五輪塔と宝篋印塔2
参考文献等
北九州の史跡探訪 昭和61年1月15日発行 北九州史跡同好会
北九州市史 近代・現代(教育・文化) 昭和61年12月10日発行 北九州市
復刻 企救郡誌 昭和52年2月11日発行 防長史料出版社