小倉南区合馬地区
2004年5月1日開設(2006年4月1日更新)
 1植林碑  6豊前坊・豊日神社
 2筆立地蔵  7三岳梅林
 3バチ笠地蔵  8チシャノキ
 4護聖寺  9大三岳城  
 5五輪塔墓             
1 植林碑
 明治42年、県より植林地の提供を求められた合馬地区では、地区内の69町余の山林に杉、檜、松などを植樹しました。その植樹を記念して、大正4年に碑が建造されました。
2 筆立地蔵

 護聖寺の代々の住職は、寺子屋を開き、読み書き算用を教えていました。この寺子屋に通う子供たちが、行き帰りに道遊びしないよう、子育て地蔵から思いついたのが筆立地蔵と言われています。また、字の上達を願って建てられたとも言われています。また寺子屋のお蔭で、幕末期には村人で、字の知らない者はいないと言われるほど三岳村は文化村でもありました。
 地蔵には、「安永6(1777年)丁正月吉日、三岳村弥八」と刻まれています。
 高さ、1m26cm、直径21cmで、別名「灯明地蔵墓石」という人もいると説明板に書かれていました。

3 バチ笠地蔵
 民話で有名な「笠地蔵」とまったく同じ、お地蔵さんが「バチ笠地蔵」として祀られています。
 むかし、むかし、梅の里「三岳梅林」に作造じいさん夫婦が住んでいました。ある年の歳の暮れ、畑仕事の合間に作ったバチ笠を売りに行くことにしました。家々を抜けて村の入口にある護聖寺の山門下まで来たところ、北風に吹かれて寒そうなお姿の六地蔵さんを見かけました。信仰深いじいさまは、売りに行くはすだったバチ笠を、雪を払って地蔵さんにかぶせてやりました。・・・・・・・・・・・・・
4 三岳山護聖寺
曹洞宗
由緒 応永23年(1416年)、三岳城主長野三郎左衛門尉は、豊後国東の泉福寺より璋山融珪大和尚を招き長野氏の菩提寺として開山したと云われています。仏殿僧堂が、山内に五院ありましたが、元亀・天正の時代に兵火にかかり衰退しました。その後、小倉藩主小笠原忠真等の庇護を得て、企救郡内に多くの末寺を置くほどになりました。
 また、32世大和尚の玉水氏は、森鴎外と交友があり、「鴎外日記」や、松本清張の「或る小倉日記伝」にも登場しています。
5 五輪塔墓
 護聖寺の裏に、五輪塔や宝篋印塔の形をした古いお墓があり、今でも大切に祀られていました。
6 豊前坊・豊日神社
祭神 豊日別命
由緒 護聖寺を開いた璋山和尚が、禅室に籠もっていた時、神人が現れて法を聞くので、あなたはどなたですかとたずねると「彦山の豊前坊」云う。その後、社を建て豊前坊社と名づけられました。

護聖寺の背面にあり、神仏混合の名残を留めています。
7 三岳梅林
 昭和天皇のご成婚記念に、梅を植えたのが始まりで、約350本の紅梅や白梅が咲く梅の名所として知られています。昭和54年以降、三岳梅林公園として整備されています。また、谷の奥に、護聖寺の開山璋山和尚が沐浴された跡があり、碑が建っています。
下の石碑は、梅林音頭です。
8 チシャノキ
 昭和37年、福岡県の天然記念物に指定されたチシャノキがあります。チシャノキは、暖地に自生する落葉高木で、柿の葉に似ていることから一名カキノキダマシとも呼ばれています。また、樹高は10メートル程ですが、この木は23メートルもあり、珍しい大木です。
9 大三岳城
 旧企救郡を支配した長野氏の山城の一つで、文和3年(1354年)長野義忠が築いたと江戸時代の文献に書かれています。
 
 @ 城へ登る登山道入口付近

 A いよいよ城郭への入口付近


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参考文献等
北九州の史跡探訪 昭和61年1月15日発行 北九州史跡同好会