小倉南区山本・長行・徳吉・高津尾地区
2008年3月2日開設2018.8.22更新
 1 西大野八幡神社  2 稗畑山城  3 西方寺  4 小舟山城
 5 82番前札所  6 森神社  7 水上権六翁碑  8 鏡池大明神
 9 82番奥ノ院  10 23番札所  11 意吉神社  12 切腹岩
 13 東大野八幡神社  14 猿田彦大神  15 猿田彦大神  16 37番札所
 17 箱式石棺  18 孝子吉兵衛碑  19 猿田彦  20 稲荷神社
 21 お千代・儀平の墓  22 68番札所奥ノ院  23 貴船神社  24 68番前札
 25 長尾城  26 ドルメン  27 阿弥陀寺  28 猿田彦大神
 29 板碑と五輪塔  30 八旗八幡宮  31 祗園神社  32 スサノウの古墳
 33 古川西遺跡  34 猿田彦大神  35 馬つなぎ石  36 椎山城
 37 徳力山城  38 小嵐山  39 伊崎遺跡  
1 西大野八幡神社
祭神:息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)
    品陀和気命
(ほむだわけのみこと)
    多紀里比売命
(たぎりひめのみこと)
    市寸島比売命
(いちきしまひめのみこと)
    多岐都比売命
(たぎつひめのみこと)
    大山津見神
(おおやまつみのかみ)
    誉田別尊
(ほんだわけのみこと)
例祭:9月24・25日
由緒:天智天皇5年(666年)、高津尾村の山上に鎮座しました。[なお、高津尾山麓にある大石に座して、吾は廣旗八旗神なりと宮崎守明に神託したとも云われています。]
 天喜3年(1055年)、宮殿を山本村に遷し、沼田の宮と云いました。
 享禄5年(1532年)、大友氏の兵火に遭い、宮殿を悉く焼失しました。
 天文5年(1536年)、大内氏が社殿を再建しました。その後、東西大野郷十六ヶ村の産土神となりました。
 寛文8年(1668年)4月、現在地へ遷し小森手永の大社となりました。

 境内に、宝暦3年(1753年)建立の鳥居、高津尾井堰碑、猿田彦大神があります。

高津尾井堰碑
 昔からこの付近は、川の方が低く取水が困難であったため、良田に恵まれていませんでした。この為、上流の春吉に堰を築いたことと、その後の補修について記した碑文です。

東風号のプロペラ
 このプロぺらは、大正14年に「訪欧大飛行」をした朝日新聞社機の「東風」号のもので、操縦士であった道原村出身の河内一彦氏が寄進したものです。

 また、昭和46年4月21日に市の指定文化財となっている銅製鰐口が1口あります。この鰐口は、明和2年(1765年)6月に7か村(山本、高津尾、合馬、田代、春吉、道原、頂吉)の氏子から企救郡山本邑大野八幡宮(現在の西大野八幡神社)に奉納されたものです。大きさ、直径45㎝で厚さ15㎝、吊金具ともの重さ19.6㎏で、3条の円線で3帯に分かれ中央の8葉の蓮花撞座の外周に銘が刻まれています。治工の小倉住吉村伝右衛門安次は、小倉城下鋳物師町の工人と推測されています。

全景 宝暦3年の鳥居
拝殿 本殿
高津尾井堰碑 猿田彦大神
東風号のプロペラ
東風号 拝殿の礎石
※東風号の「朝日新聞訪欧大飛行」
 朝日新聞社は、大正9年に初めて日本に訪れたイタリアの訪日機に対する答礼飛行として「朝日新聞訪欧大飛行」を計画。使用する飛行機は、当初国産機を使う案もありましたが、結局、長距離飛行に実績のあったフランス製のブレゲー19型A2(偵察及び爆撃機として製作。複葉機で航続距離は、800km)を2機を購入し、中島飛行機製作所で組立て長距離用に改造しました。機名は、公募し「初風(はつかぜ)」(J-KIKU)「東風(こちかぜ)」(J-KIRI)で、搭乗数は操縦士と機関士の各2名としました。「初風」には、操縦士として陸軍大尉の安邊 浩、機関士には陸軍航空部検査官付技手の篠原春一郎、「東風」には操縦士として朝日新聞社の河内一彦、機関士には陸軍航空部検査官付技手の片桐庄平が搭乗しました。大正14年(1925年)7月25日午前9時過ぎ、東京の代々木錬兵場を出発。午前11時30分頃、大阪の城東錬兵場に到着、翌26日エンジン不調によりUターンしたため、27日に改めて大阪を離陸しました。その後、福岡の太刀洗、平壌、ハルビン、チタ、イルクーツク等シベリア各地を経てモスクワに到着。そして、ベルリン、パリ、ロンドン、ブリュッセル等の各都市を訪問し、ほぼ4ヶ月後の10月27日に、最終目的地であるローマに到着しました。4人は、11月28日フランスのマルセイユより、日本郵船の旅客船「鹿島丸」で、解体された機体と共に帰国しました。帰国後は、通信機として使用されていました。なお、登録記号はJ-KIRIからJ-BAFAに変更されました。
2 稗畑山城
 明治初期に作られた「企救郡古城址取調簿」に「山本村の東方、宮山の頂、高津尾村の境にあり。東西十間、南北十五間程の楕円形の平地で、僅かに城台の形をなし、山北一町程を下り空濠を存する。長野豊前守種盛が築き、一族の士に守らせる。三世の後、豊前守久盛の男兵部少輔義富、其の子兵部大輔義清、其の子兵部丞盛清、其の子大野太郎盛時に至るまで城主たり。」と記載されています。標高233mの山頂から南北の尾根にかけて、堀切、竪堀、切岸や郭が築かれ、主郭には櫓台と思われる高まりがあります。
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全景 主郭に至る大堀切
3 西方寺
浄土真宗本願寺派
本尊:不明
由緒:永禄5年(1562年)に建立されました。天文3年(1534年)に、円徳が開基したとも云われています。


 本堂の基礎石として、宝篋印塔(ほうきょういんとう)の基礎部下の基壇が使われていました。宝篋印塔は、墓塔や供養塔などに使われる仏塔の一種です。その中に、応永年間(1394~1428年)銘の刻まれたものもあります。 また、市内でも一番古い宝篋印塔と思われます。さらに、このことは、小舟山城の築城とも関連性が期待されます。
全景 本堂
宝篋印塔の基礎部下の基壇石1
宝篋印塔の基礎部下の基壇石2
4 小舟山城
 明治初期に作られた「企救郡古城址取調簿」に「山本村の西方、小舟山の頂にあり。東西八間、南北二十間程の長方形の平地で、僅かに城台の形を存する。長野氏の抱城で応永中、長野兵部少輔義富の第六子山本八郎義親城主たり。」と記載されています。標高149mの山頂にかけて、4段の郭が築かれ、北側と西側は堀切で防御しています。
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全景 西側の堀切
5 八十二番前札
 明治26年に設置された二市一郡新四国霊場第82番前札となっている地蔵堂で、本尊は地蔵菩薩です。
6 森神社
 高津尾井堰の建設に当り、その成否が問われ、堰は失敗すると主張した森某は、主張が破れ亡くなってしまいました。村人は、これを哀れみ神社を建立しました。
 堂内に、五輪塔の空輪が大切に祀られていました。
7 水上権六翁碑
 水上権六の家は、代々庄屋役を務め苗字帯刀を許されていました。嘉永2年(1849年)、17歳で吉兼村の庄屋となりその後山本村の庄屋を経て、維新後戸長、小学校教員等を歴任し、明治23年中谷村の助役となり、また郡会議員を兼務し企救郡の公共事業に尽くしましたが、明治38年に73歳で亡くなりました。その功績を称えて碑が建てられています。
全景
碑の横の用水路 六角形の井戸枠
8 鏡池大神宮
祭神:天照大神(あまてらすおおみかみ)
例祭:3月21日
由緒:
瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が、筑紫に天下り、岡の里に到った時、鏡を一本の杉の枝に掛けたところ、その下より泉が湧き出て鏡はその泉の底に沈み、そしてその光輝きが四方を照らしたと云います。里人は、その泉の上に一宇を建て、天照大神を祀りました。
9 八十二番奥ノ院
 二市一郡新四国霊場第82番奥ノ院となっている岡の阿弥陀堂で、本尊は阿弥陀如来です。 
10 二十三番札所
 二市一郡新四国霊場第23番札所となっている高津尾の薬師堂で、本尊は薬師如来です。
 堂内に、五輪塔の空輪が大切に祀られていました。
11 意吉(こころよし)神社
祭神:土御祖神(つちのみおやのかみ)
由緒:
元亀年間(1558~1573年) の頃、この付近もまた、川の方が低く取水が困難であったため、水田には恵まれていませんでした。この為、上流の春吉村から水を堰揚げ、山辺に用水路を掘り、この丘に引入れました。これにより、干ばつの恐れが無くなるとともに、新たに水田を造ることが出来ました。このため、村人は、心吉の神を祀ったと云われています。
 境内に、安永2年(1773年) に建立された手水鉢があります。

 祭神の「土御祖神」は、地主神で水田を営むうえで治水をもっもと大切にしていたことが伺えられます。また、心吉の神については、石見国の神社に祭神として祀られていますが、詳細は不明です。
全景 拝殿
本殿 手水鉢
12 切腹岩
 香春城主原田氏の家臣であった山川式部は、永禄4年(1561年)頃大友氏との戦いに敗れ、城主に代わり、丸山の東の麓にある、この石の上で切腹したと云われています。
13 東大野八幡神社
祭神:息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)
    品陀和気命
(ほむだわけのみこと)
    多紀里比売命
(たぎりひめのみこと)
    市寸島比売命
(いちきしまひめのみこと)
    多岐都比売命
(たぎつひめのみこと)
    闇淤加美神
(くらおかみのかみ)
    高淤加美神
(たかおかみのかみ)
    闇御津羽神(くらみつはのかみ)
例祭:9月25日
由緒:寛文7年(1667年)、東大野郷九ヶ村の村人は現在地の花枝山に宮殿を建て、西大野八幡大神を勧請し、東大野八幡宮と称し東谷九ヶ村の産土神となりました。寛延2年(1749年)2月20日、藩主小笠原忠基が奉幣し、里人に社殿の再建を命じたと云われています。また、寛文7年4月の棟札があったと云われています。


 本殿は、切妻造りの平入り形式で複雑な斗(ます)や肘木(ひじき)の組物(くみもの)が美しい外観となっています。
 また、境内には、文化14年(1816年)に建立された猿田彦大神があります。
全景 拝殿
本殿 本殿の組物と装飾
本殿の組物 本殿の装飾
本殿の狛犬 猿田彦大神
14 猿田彦大神
 文政4年(1822年)に建立された、猿田彦大神が道路脇に大切に祀られています。

15 猿田彦大神

 猿田彦大神が、道路脇に大切に祀られています。建立年は、江戸時代と思われますが表面のカビがひどく判読が難しくなっています。

16 三十七番札所と五輪塔

 二市一郡新四国霊場第37番札所となっている奥畑の釈迦堂で、本尊は釈迦如来です。

 境内に、一石五輪塔や五輪塔の空輪が大切に祀られていました。

17 箱式石棺(菅生中学校内)

 昭和28年(1953年)、長行小学校の校舎改築にともない発掘された3基の箱式石棺のひとつが、菅生中学校の校庭に、展示保管されています。発掘当時、この棺の中から刀子、鉄鏃、槍鉋等の鉄製品が発見されていす。また、時代は古墳時代の初期とされています。

18 孝子吉兵衛之碑

 この「孝子吉兵衛之碑」は、明治41年(1846年)に親孝行の者として、小倉藩から表彰を受けていた吉兵衛を顕彰するため、企救郡有志によって建てられたものです。
 吉兵衛(1716~1781年)は、企救郡吉兼村の者で、寒い冬に合馬川に水ごりして、母の眼病が治ることを祈願したり、母を背負って伊勢参りした話で評判となっていました。また、大庄屋中村平左衛門は、弘化4年(1846年)に吉兵衛の徳を称えて作った「索縄(なわない)口説」は、盆踊り歌として現在も歌い続けられています。
 碑の銘は、旧小倉藩の当主小笠原長幹(ながよし)伯爵の揮毫で、裏面には漢学者村上佛山の漢詩「孝子行」と友石文斐の解説文が刻まれています。

 碑の右側には、天宝5年(1834年)大庄屋中村平左衛門が、吉兵衛の孫「吉左衛門」と再建した吉兵衛の墓があります。墓銘は、藩校思永館の学頭布施晦息(ふぜかいそく)の筆で、裏面には小倉藩の儒学者増井玄覧が宝暦9年(1759年)に吉兵衛の徳を称えた文章と晦息の解説文が刻まれています。

 その傍らには、安政4年(1857年)大庄屋友石宗左衛門が建立した吉兵衛の両親の墓と妻の墓があります。

 なお、この碑と墓はもともとは現在地から東南約50mの中腹にありましたが、宅地造成により昭和50年に移されました。

吉兵衛之碑 墓碑
吉兵衛と妻の墓 吉兵衛の両親の墓

五輪塔の空・風輪
19 猿田彦

 住宅街の町角に、猿田彦が大切に祀られていました。建立年は、江戸時代と思われますが表面のカビがひどく判読が難しくなっています。

20 稲荷神社

祭神:保食神(うけもちのかみ)
    豊磐間戸神
(とよいはまどのかみ)
    櫛磐間戸神
(くしいはまどのかみ)
例祭:9月18・19日
由緒:元慶4年(880年)、稲荷の神を山城の国より吉金山に勧請しました。応永年間(1394~1428年) に至り、三岳の城主長野三郎左衛門尉義基が、徳光山に神殿を再建し産社としました。永禄12年(1569年)、三岳の城主長野三郎左衛門尉胤盛、落城に及んで社殿は荒れはててしまいました。慶長年間(1596~1614年)に長野吉辰の子孫「大野氏」は、徳光村に住んでいましたが時の藩主細川氏に嘆願し、宮を徳光山に遷し再興を果たしました。

 境内に、寛政2年(1790年)に建立された鳥居があります。

全景 本殿
鳥居 灯篭

21 お千代・儀平の墓

 「能行口説(のうぎょうくどき)」の主人公である「お千代」と「儀平」の墓で、お千代は、19歳の娘で幼少の時、能行村の五平次の家に萩から幼女として迎えられていました。また、儀平は、21歳の青年で、筑前田代村からこの村の庄屋の家に養子として迎えられていました。二人は、恋に落ちましたが、いずれも自分の家を引継ぐことになっていた為、結婚は諦めざるを得ませんでした。しかし、諦めきれなかった二人は「心中」という悲劇的な結末をたどってしまいました。「能行口説」は、天保6年(1853年)に起ったこの心中事件を題材に作られました。
 墓には、大道無学信士と釈妙円信女の戒名が刻まれています。
二人の墓碑 一石五輪塔
22 六十八番札所奥ノ院

 二市一郡新四国霊場第68番札所奥ノ院となっている能行たぶの木の地蔵堂で、本尊は地蔵菩薩です。

 地蔵堂への入り道に、道標があります。また、境内に、五輪塔が大切に祀られていました。

道標 御堂
五輪塔1 五輪塔2
23 貴船神社
祭神:闇淤加美神(くらおかみのかみ)
    高淤加美神
(たかおかみのかみ)
    闇御津羽命(くらみつはのみこと)
由緒:不詳

 境内に、明和6年(1769年)に建立された猿田彦大神が大切に祀られていました。
 また、境内の楠の木は、神功皇后がこの村にやってきた時、物部膽昨宿禰、大田坂上に植えさせた三株の楠の木であると云われています。また、慶長6年(1601年)小倉城の普請に当ってこの大楠を伐採しようとしましたが、お告げにより中止されました。しかし、寛政の頃(1789年~1800年)、小笠原候が城の用材として伐採したところ、村中の牛馬が悉く死に、村人も悪疫にかかり、天守も焼失しまったため、陰陽師がこの木は神木であるので、これ以上の伐採を禁じたと云われています。そして、残ったのが現在の一本の木です。なお、この木は市の保存樹に指定されています。
神社の祠 猿田彦大神
楠の木
24 六十八番札前札
 二市一郡新四国霊場第68番札前札となっている能行の地蔵堂で、本尊は火除地蔵菩薩と薬師如来です。
 昔、飛幡村に大火があった時、信仰厚い人が一心に祈っていると炎の中に能行の地蔵尊が現れ、忽ち鎮火し其の家は無事難を逃れました。それより、火除地蔵尊と言われるようになりました。
    
25 長尾城
 明治初期に作られた「企救郡古城址取調簿」に「長尾村の西方、高野山の頂、能行村の境ににあり。東西二十五間、南北二十間程の長円形の平地で、僅かに城台の形が残る。北四間程の麓に野石の碑がある。高野三郎の墓と云う。長尾小次郎景通が在城する。土地の人は高野三郎能行の居城と言う。」と記載されています。標高122mの山頂に主郭が築かれ、主郭には帯曲輪がめぐっています。
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26 ドルメンと虚空蔵菩薩
 お堂の境内に、「泣き石」と呼ばれてる扁平の大石があります。これは、小倉城築城の際、この石を拠出しましたが、蒲生の里まできた時動かなくなり、村人達は熱が出たり腰が抜けたりし、さらに夜になるとこの石が泣くため、遂に元の場所に戻したとの言い伝えに由来しています。また、この石はドルメン(支石墓)といわれる墓の一種ではないかと言われています。ドルメンは、基礎となる支石を数個並べ、その上に大きな扁平な石を載せ地下には、石棺や甕棺を持つ弥生時代の墓です。しかし、このドルメンについては、調査が行われていない為、箱式石棺の蓋石ではないかとも言われています。なお、この石の大きさは、長さ3.25m、幅1.85m、厚さ25cmです。
 地蔵堂に祀られている本尊虚空蔵菩薩は、米や麦の粉を供えると咳や喉の痛みが止まると言われており、そのためいつも粉にまみれいるため「粉(こ)びき地蔵」と呼ばれています。また、粉仏様(こぼとけさま)とも言われています。
ドルメン1 ドルメン2
地蔵堂 虚空蔵菩薩
27 阿弥陀寺
浄土宗西山派
本尊:阿弥陀如来
由緒:文亀3年(1503年)に建立されたと伝えています。また、宝暦10年(1760年)に、文応によって中興されたとも伝えています。
 境内に、一石五輪塔があります。
28 猿田彦大神
 道路の辻に、文化3年(1806年)に建立された猿田彦大神が祀られています。
29 板碑と五輪塔
 道路脇のお堂の中に、お地蔵さんと一緒に板碑と五輪塔の一部が大切に祀られていました。
30 八旗八幡宮
祭神:息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)
    品陀和気命
(ほむだわけのみこと)
    多紀里比売命
(たぎりひめのみこと)
    市寸島比売命
(いちきしまひめのみこと)
    多岐都比売命
(たぎつひめのみこと)
    
興津彦神(おきつひこかみ)
    大山祗命
(おおやまつみのみこと)
例祭:10月6・7日
由緒:貞観年間(627~649年)に、国々が山城の国の岩清水社を勧請していた時に、豊前守良道は、徳力村長尾の岡に勧請しました。文治2年(1186年)の頃、長野豊前守長盛は、平氏の族として国司の職を解かれ領地も失われることとなりましたが、この神に願掛けを行ったところ企救郡の地頭職に補されることとなりました。慶安7年(1374年)、大内周防介義弘は、鳥居を建立し、神領を捧げました。明応元年(1492年)、門司主計允氏頼は、頭(頂)吉兵部氏武を奉行として神殿を再建し封田の免状を捧げました。天正年間(1573~1592年) の頃、大友氏の家臣田原近江入道の為に別当金剛寺を始め社殿残らず焼失してしまいました。慶長(1596年~1615年)の始め、領主毛利氏によって、現在地へ遷し再建されました。その後、藩主細川忠興によって拝殿が建立され七ヶ村の氏社と定められました。

 境内には、寛政6年(1794年)建立の鳥居、明和年間(1764~1772年)に寄進された手水鉢、安政2年(1855年)建立の狛犬があります。
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 また、境内となっている森の中に、古墳時代後期の横穴式石室古墳3基からなる八旗神社古墳群があります。この内南側斜面にある1号古墳は、斜面を掘下げて副室の横穴式石室を築いています。ここからは、金メッキを施した刀の柄頭、耳環の金銅製品が出土しています。
全景 本殿
鳥居 手水鉢 
  
安政2年の狛犬  
古墳群
31 祗園神社(八坂神社)と古墳群
祭神:須佐之男命(すさのうのみこと)
    櫛稲田媛命(くしなだひめのみこと)
    天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)
    天菩日命(あまのほひのみこと)
    天津彦根命(あまつひこねのみこと)
    活津彦根命(いくつひこねのみこと)
    熊野奇毘命(くまのくすびのみこと)
    多紀里媛命(たぎりひめのみこと)
    市寸島媛命
(いちきしまひめのみこと)
    多岐都媛命
(たぎつひめのみこと)
例祭:3月14・15日
由緒:天慶9年(946年)の社記に、貞観12年(870年)より3年に及ぶ疫病が流行し、人々の半分が死亡したため、国守代豊前介仲直は、山城の国より八坂の神を長尾の丘に勧請したのが始まりとあります。その場所は現在地の道を隔てた西南数百歩の場所であったと云われています。保元2年(1157年)長野山に城を築いた平康盛が奉幣しました。元暦年中(1184~1185年)に至り平家が滅びる頃、長野長盛は、この社に願掛けを行ったところ企救郡の地頭職になりました。このお礼として、現在地へ社殿を遷し、企救一郡の総鎮守としました。またその後、この地区を祇園町と呼ぶようになりました。天文2年(1533年)、大内義隆の兵によって灰燼となってしまいました。その後、里人によって小さな祠が建てられ祭事は続けられていました。慶長年間に至り藩主細川忠興が、鷹狩にこの地に訪れ、この社にて休憩した際、戯れに杖で祠の扉を押し開けたところ、たちまちに両目が見えなくなってしまいました。そのため、新たに神殿を造営したところ目が見えるようになったことから、片野村三本松に分社を創立、元和3年(1617年)には小倉城下鋳物師町に遷しました。
 境内には、直径8~10mの古墳時代後期の円墳が5基残されています。発掘調査が行われていないため、副葬品等は不明です。
 また、寛政2年(1790年)に建立された鳥居と、文化2年(1805年)に建立された猿田彦大神があります。
鳥居 本殿
円墳1 円墳2
円墳3 猿田彦大神
32 スサノウの古墳
 祗園神社古墳群から西南約100mの位置にある、直径約10m、高さ約2mの円墳で墳頂部に石材が露出していますが、この古墳のものかどうかは発掘調査が行われていないため不明です。 また、現在はこの一基のみですが、もともとは数基の古墳群であったと云われています。
全景 墳頂部の石材
33 古川西遺跡
 この遺跡は、紫川の西岸に面した小高い場所にあり、発掘された溝、竪穴住居跡等から古墳時代前期のものであることがわかりました。また、この他、奈良時代や平安時代の溝も発見されています。
34 猿田彦大神
 道路脇の住宅地内に、猿田彦大神が祀られていました。建立は、明治10年となっていました。
35 地蔵堂と馬つなぎ石
 二市一郡新四国霊場となっている古川の地蔵堂で、本尊は地蔵菩薩です。
 また、傍らに駒繋ぎの柱と言われている立石があります。村人は、馬つなぎ石と呼び、また馬頭観音とも云われています。椎山城が山城であったため、姫等はこの石に馬をつなぎ、縁台に乗り換えて、城に入ったと云われています。このため、この場所を「姫下ろし」とも云われています。
36 椎山城
 明治初期に作られた「企救郡古城址取調簿」に「志井村の西方、古川山の頂にあり。東西十五間、南北二十間程の楕円形の平地で、僅かに城台の形を残している。また、西方一町程の山腹に駒繋ぎと言う所があり、切り石の柱が存在している。長野豊前守種盛が築き、応永年中は同兵部少輔義富の第四子左兵衛佐義衛が城主である。同六年大内盛見から攻められて落城する。」と記載されています。標高223mの椎山山頂に主郭を築き、北側に延びる尾根筋に堀切、曲輪群が築かれ、また、主郭から東南と南西及び北東に延びる三つの尾根にも曲輪群が築かれており、椎山全体が城郭となっています。
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全景 堀切
37 徳力山城
 明治初期に作られた「企救郡古城址取調簿」に「徳力村の南、大鍋山の頂にあり。東西六間、南北十間程の長円形の平地で、僅かに城跡の形を残すのみ。応永年中、長野城主長野氏の支城と云う」と記載されています。昭和60年以前に宅地開発等で周辺が破壊されている為、全容は不明ですが、現在標高90mから101mの尾根にかけて、土橋や曲輪の遺構が残っています。
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全景 曲輪
38 小嵐山
 小倉藩主細川忠興は、この桜橋付近が京都の嵐山の風景に似ていることから、京都嵐山から桜の木を取り寄せ、この山一帯に移植したと云われています。その後、この山は、小嵐山と呼ばれ、忠興の父である細川幽斎がこの地で遊んで詠んだ歌が残されています。
  豊国の嵐の山の麓川
    岩越す波は桜なりけり
39 伊崎遺跡
 この遺跡は、紫川の西岸に面した小高い場所にあり、発掘された貯蔵穴群等から弥生時代前期及び後期の集落跡であることがわかりました。写真は、地層の断面に露出した土器群です。、
参考文献等
北九州の史跡探訪 昭和61年1月15日発行 北九州史跡同好会
北九州市史 近代・現代(教育・文化) 昭和61年12月10日発行 北九州市
復刻 企救郡誌 昭和52年2月11日発行 防長史料出版社
西谷-その歴史と民俗- 昭和40年発行 小倉郷土会
小倉市誌 補遣 (復刻版) 昭和48年6月13日発行 名著出版
北九州市の文化財ガイド(古墳編)  平成4年4月1日発行 北九州市教育委員会
門司・小倉の古城史 平成13年10月1日発行 八木田謙著