小倉南区沼・葛原周辺地区
2004年2月6日開設
1 高倉保塁跡 4 安部山公園
2 猿田彦 -
3 茶屋本翁碑 -
1 高倉保塁跡
 下関要塞の一つとして明治32年2月に着工し、明治33年12月に竣工。
 12cmカノン砲4門、15cm臼砲8門を設置していました。右の写真は、砲台跡東側から周防灘を見たところで、手前の平野は曽根地区です。
 この時代の要塞としては、唯一周防灘に面して造られています。
 貯水施設

 長方形の貯水施設と円形の井戸状の水槽があります。この他倉庫前広場の中央付近にも長方形の貯水施設があります。
 広場前の倉庫?群

 平野部から見えないように造成された広場に面して倉庫?が、8基造られています。その内No2〜No7までは内部の通路で繋がっていました。また、No7は、後世に別の用途に使用しようとしたのか入り口部分が大きく破壊されていました。各倉庫入口上部の花崗岩には、「手向」や「笹尾」に見られる番号は刻まれていません。なお、下の写真にあるよう壁面中央上部に花崗岩の埋め込みが一箇所ありますが、「手向」のような竣工年等の碑文は削られたのか見ることは出来ませんでした。この倉庫の換気口は、一般的に多く見られる円形状に造られています。また、雨樋受けは、石製で形状は下の写真のとおり二種類ありました。
No1 No2
倉庫群の全景 No3 No4
倉庫内の換気口 No5 No6
額石と雨樋受け 雨樋受け No2〜No7の倉庫内通路 換気口出口 No7 No8
 砲座に付属する倉庫?群

 深さの差はあるが、全て半地下式となっており、形状は全て同じである。
No1 No2
No3 No4
鑿跡が残る入口の花崗岩 No5 倉庫内部 換気口(屋外出口から)
 砲台座跡

 「矢筈」と同様な上部煉瓦製の窪みが造られた砲台座や、砲座内壁面に掘られた方形の窪み、階段等が見られます。なお、方形の窪みの左右の花崗岩には鉄製の楔状の物が打ち込まれていました。何に使われたのでしょうか?。
上部が煉瓦製の窪み 砲座内壁面に設けられた方形の窪み
砲座内壁面に設けられた階段 砲座への階段
 軍用道路

 高倉保塁を造るための軍用道路を辿っていくと沼方面ではなく、小倉北区富野方面の山中へ伸び、企救遊歩道に接する地点から現在の陸上自衛隊富野駐屯地の中へ入っておりました。そこは、陸軍省の弾薬庫があった場所で、現在は防衛庁の管轄となっており入る事は出来ませんでしたが、関連を伺う事が出来ました。また、軍用道路も自然石のガードが設けられていたり、道の途中にある清水を保護していたと思われる煉瓦製のドームがあったりで、大変興味深いものがありました。


富野駐屯地内へ続く道路



駐屯地用地境にある陸軍の境界石柱
道路の状況 煉瓦製のドーム
石積みの法面が崩れている 花崗岩製のガード
2 猿田彦
 沼から高蔵森林公園へ向って左側の道路脇に、文化4年(1807年) に造られた猿田彦が今も大切に祀られていました。
3 茶屋本翁石碑
 中津街道に面して、茶屋本翁の功績を讃える碑が二基あります。 左側は、真古流華道の先生として右側は庭師の匠として区民等によって建てられた顕彰碑です。
4 安部山公園
和気清麻呂像

 奈良時代、皇位を狙う僧侶道鏡を阻止しようとした和気清麻呂は、足の筋を切られ大隈(鹿児島県)に配流となりました。その途中、湯川水神社にある霊泉で足を治療し、この付近に住んだと言われている。また、後方の山は、足の傷が治り足が立ったことから足立山と名づけられたと伝えられている。なお、清麻呂は道鏡の失脚後、光仁・桓武天皇に仕え平安遷都に尽力しました。像は、こうしたいわれから大正11年(1922年)、安部熊之輔が建立しました。
和気清麻呂像 葛原八幡宮が元あったことを示す碑
安部熊之輔頌徳碑

 安部氏は、文久元年(1861年)小倉長浜に生まれ、明治38年曽根村湯川に移り原野を開墾し、果樹と各種の桜苗を育成しこの農園を安部山と呼んでいました。また、福岡県の農政改革に力を入れると共に県会議員、衆議院議員も勤めていました。生前の功績を称え、昭和3年に顕彰碑が建てられました。

安部熊之輔が、大正13年に建立した。
安部熊之輔頌徳碑 明治天皇御製碑
参考文献
北九州の史跡探訪 昭和61年1月15日発行 北九州史跡同好会
北九州の史跡探訪 平成2年9月1日発行 北九州史跡同好会