小倉南区貫地区
2006年6月4日開設
 1 貫山  2 芝津神社上宮  3 水晶山  4 芝津神社
 5 猿田彦神社  6 加工石  7 徳善院  8 棚田
 9 西専寺  10 八皇子神社  11 薬師堂  12 荘八幡神社
 13 御座古墳群  14 松尾神社  15 両岡様古墳群  16 上ん山古墳
 17 茶昆志山古墳  18 貫城    
1 貫山
 貫山は標高712mで、貫地区のシンボルとして「企救富士」とも呼ばれ、多くの市民に親しまれています。また、別名「芝津山」「祢疑山」とも呼ばれ、日本書記等にも記載されており、古くから歴史の中に出ています。そのことを裏付けるように山頂からは、土師器等の土器片も採取されています。
 さらに、この山は、隣接する平尾台が石灰岩で形成されているのに対して、火成岩のひとつである花崗岩で形成されており、石材として利用されていました。
 山中には、土地の境界を示す境界塚が尾根筋等に造られています。
平尾台ルートからの貫山山頂 山頂西側の花崗岩の巨石
西側山腹の境界塚 境界塚に立つ立石
2 芝津神社上宮
 貫山山頂から北側に少し下った所に、芝津神社の上宮があります。石造りの大きな祠は江戸時代に津田手永の人々の寄進で、ここで造られたのでしょう。参道の石段に使われている花崗岩には、石割の為に穿たれて矢の跡が沢山残っていました。
 また、参道の脇には石材切り出しに使われた大岩が、庇の様に残っていました。石段下の平坦地には、地蔵菩薩が大切に祀られていました。これも、神仏混合の名残でしょうか。そして、脇には宝篋印塔の相輪が立てかけられていました。湧き水の横に、苔むした四角く加工された石があり、これが宝篋印塔の基礎石であったかもしれません。
 なお、この平坦地には社坊があった可能性が高いところです。

石祠の全景 石祠に刻まれた銘
参道の石段 矢跡
石材が切り出された大岩 地蔵堂
地蔵菩薩と相輪 宝篋印塔の基礎石か?
3 水晶山
 山頂より水晶石が出るため、水晶山と名付けられています。しかし、貫山から連なる尾根筋に似た山があることから、一般的にこちらが水晶山と呼ばれることが多かった為、本物と分ける為「偽水晶山」と名付けられました。 
水晶山

偽水晶山
4 芝津神社
祭神:伊邪那岐命
    伊邪那美命
例祭:10月11日
由緒:不詳ですが、明治維新の神仏分離までは貫山権現と云われていました。昔は、社坊や田地を保有しており、それらが「池坊」「高畑坊」「石坊」「正月田」等の地名となって残っていました。中でも、時の領主であった中左衛門尉助経が延応元年(1239年)に開基し、僧阿聖が創建した真光寺は、文和4年(1355年)足利直冬(足利尊氏の子)が、足利家の安泰を祈念、また尊氏も大般若経を転写させて寄進させたと伝えられる由緒ある寺であった。

 境内に、願阿(西光寺に梵鐘を奉納した沙弥祖西の祖父)が、正平20年(1365年)に貫山権現に奉納した梵鐘があります。貫山中の社坊は、、天正年間(1573~1592年)に大友氏の兵火によって消失しましたが、この梵鐘だけは残り、寛永年間(1624~1644年)僧栄尊が小倉領の修験所であった岳音寺を建立したとき、この寺の軒先に吊るしたと云われています。梵鐘には、鋳工の名は刻まれていませんが、竜頭の作風から、小倉鋳物師の作と推定されています。なお、昭和34年に県の有形文化財に指定されています。
全景 本殿
梵鐘の全体像 梵鐘の竜頭
5 猿田彦神社
 祭神及び由緒等不明ですが、「猿田彦神社」と呼ばれている神社が、芝津神社の南側登山道脇の斜面上の平坦地に大切に祀られていました。ここも、貫山権現の社坊のひとつだったのでしょうか。
6 道路脇の加工石
 登山道脇の林の中に、置き忘れられたかのような花崗岩が横たわっていました。何かの碑文を刻もうとしたのか、四角く加工され碑面の彫り込みがされていました。
 貫地区は、朽網地区と同様、山中に花崗岩が多くあることから、石材の産出場所として繁盛していたようです。
7 徳善院
本尊:十三佛
由緒:不明

二市一郡新四国霊場の第21番札所となっている徳善院ですが、現在御堂等の建物は無く、岩上に石仏が祀られているだけです。また、境内の自然岩には水盤が彫られていました。ここも、貫山権現の社坊のひとつだったのでしょうか。


また、境内の岩には石割の為に穿たれて矢の跡がありますが、途中で断念したのでしょうか、未切り出のまま残っていました。
林の中が寺院 岩上の石仏
水盤が彫られた岩 石割の矢の跡がある岩
8 棚田
 貫山を背景に貫の谷には、棚田が広がっています。市内でも、井手浦、合馬地区と数少ない山間の田園風景が、ここにはまだ残っていました。
9 西専寺
浄土宗西山派
本尊:阿弥陀如来
由緒:創立は不詳ですが、応永21年(1414年)に栄覚が中興する。初めは禅宗であったとの云われもあります。

 本尊の阿弥陀如来座像は、桧材の一木造りで藤原様式を残す鎌倉時代初期の彫刻として昭和57年に市の有形文化財に指定されています。
10 八皇子神社
祭神及び由緒等は、不明ですが、寛政5年(1793年)銘のある鳥居の扁額には「八皇子神社」と刻まれていました。
11 薬師堂
本尊:薬師如来
由緒:不明

二市一郡新四国霊場の第34番奥ノ院となっている御堂です。御堂の脇に五輪塔の水輪が残されていました。
御堂の全景 五輪塔の水輪
12 荘八幡神社
祭神:譽田別尊
   息長帯媛命
   多紀理毘賣命
   市寸嶋比賣命
   多岐都比賣命

例祭:10月14日

由緒:貞観元年(859年)宇佐八幡宮の御分霊を山城国に御勧請の途中、境内にある鈴石の上に一夜祀られたのがはじまりで、元慶7年(883年)貫城主石川朝臣直木が祠を建てて「鈴石八幡宮」と称した。
後に、この地に荘園があったことから荘八幡神社と改称されました。
鈴石(すずいわ)
猿田彦大神 文久3年に造られた狛犬
狛犬
寛保3年(1743年)銘の手水鉢 燈籠
13 御座古墳群
 弥生ヶ丘団地内の貫中央公園内に、昭和60年に発見された前方後円墳と円墳が保存整備されています。
 前方後円墳は、全長約22メートルで前方部と後円部の端に周溝が設けられていました。調査の結果、後円部に木棺と粘土槨の二つの棺が埋葬されていました。また、中国の魏で製作したと考えられている三角縁獣文帯三神三獣鏡の破片が副葬されていました。古墳の築造年代は出土遺物などから4世紀後半から5世紀初頭と考えられています。 


        発見当時の、状況写真
14 松尾神社
祭神:木花咲屋比売命
    大山咋命
    大穴牟遅命
例祭:9月29日   
由緒:
景行天皇が、この地に来た時に鎮座したと云われているが詳細は不明。その後、慶安元年(1648年)、小笠原忠真公が鷹狩の際、祠を見つけお参りしたところ、獲物が多く獲れたこと、また翌二年春忠真公が目の病を患い、またこの祠にお参りしたところたちまちに治癒したことから、直ちに殿社を造営しました。
三方を山に囲まれた社地全景 拝殿と本殿
天皇井跡
 景行天皇が、景行12年土蜘蛛討伐の時、手を洗ったとされる井戸が残っています。



また、境内に一石五輪塔が祀られていました。
天皇井跡 一石五輪塔
境内には、文久3年(1863年)に、造られた狛犬と、文化2年(1805年)に、寄進された燈籠がありました。
 拝殿は、多くの彫刻が刻まれており、その中でも龍は左甚五郎の作と云われています。また、天井板にも、兜等の絵が描かれていました。
三階菱 天井画1 天井画2
15 両岡様(もろおかさま)古墳群
 貫川に面する丘陵の先端に、前方後円墳と円墳が築かれています。前方後円墳は、すでに後円部の3分の1が削られていますが、復元規模は全長約27m、後円部径約18mと考えられています。また埋葬施設の構造は、発掘調査が行なわれていないため不明ですが、墳丘の形などから古墳時代後期に造られたものと考えられています。
 円墳は、前方後円墳のくびれ部東側に隣接して造られており、墳丘の径約10m、高さ約1.7mです。こちらも埋葬施設等内部の構造は分かっていません。

 

 
16 上ん山(うえんやま)古墳
 上ん山古墳は、曽根平野中央部の洪積台地上に築かれており、全長約51m、後円部径約30m、前方部幅約31m、後円部の高さ約7.5m、前方部の高さ5.5mの前方後円墳です。後円部の西側及び南側、前方部南側各裾部は削られていますが、墳頂部及び北側裾部は原形を留めており、比較的均整のとれた墳丘です。埋葬施設の構造は、発掘調査が行なわれていないため不明ですが、表面採集された埴輪片や墳丘の形などから6世紀前半に造られたものと考えられています。この古墳は、曽根平野を支配していた豪族の墓で、茶昆志山古墳と同系列の首長だと考えられています。時期的には、茶昆志山古墳より後に築かれたものです。なお、昭和51年に市の史跡に指定されています。
17 茶昆志(ちゃびしやま)山古墳
 茶昆志山古墳は、上ん山古墳の南東約40mの同じ台地上に築かれています。前方部は土取りによって削られ無くなっていますが、復元規模は全長約54m、後円部径約30m、後円部の高さ約12メートルの前方後円墳です。墳丘は、三段に築成されており、埋葬施設の構造は、発掘調査が行なわれていないため不明ですが、土取りの際に石室の石材が一部露出したことがあり、古式の横穴式石室と考えられています。土製模造鏡、円筒埴輪片などが採取されており、墳丘の形などから5世紀後半から末頃に築かれたものと考えられています。また、この古墳は荒神森古墳についで、市内2番目の大きさです。なお、昭和46年に市の史跡に指定されています。
18 貫城
 馬ヶ岳城(京都郡犀川町)の城主新田義基が、応安年間(1368~1375年)に築き、、養子の貫掃部介宗景に千八百貫を与えてこの城を守らせたのが始まりとされています。

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参考文献等
北九州の史跡探訪 昭和61年1月15日発行 北九州史跡同好会
北九州市史 近代・現代(教育・文化) 昭和61年12月10日発行 北九州市
復刻 企救郡誌 昭和52年2月11日発行 防長史料出版社
北九州市の文化財 昭和56年3月発行 北九州市教育委員会
北九州市の文化財ガイド(古墳編) 平成4年4月1日発行 北九州市教育委員会
福岡県の城 1995年4月14日発行 廣崎篤夫著 海鳥社