小倉南区朽網地区
2005年1月20日開設
 1 貴船神社  2 水上文之助翁碑等  3 船石  4 宗林寺
 5 朽網城  6 昭和池  7 水神様  8 山の神
 9 御祖神社  10 豊若権現  11 洗子窯跡  12 大師堂
 13 帝踏石      
1 貴船神社
祭神
大山祇神(おおやまづみのかみ)
 [※山の神様]
高淤加美神(たかおかみのかみ)
(この神社では、日本書紀と同様に「おかみ」の字に、雨冠に下は龍、そして間に口が3つある字(?)が使われています。)
 [※山の上にいる水の神又は龍神様]
闇罔象女神(くらみずはのかみ)
 [※水の神又は井戸の神様]

由緒
太古、貴船大神は船で来田見浦(くたみうら)に着き、この丸山の東麓に船をつなぎ、この山の嶺に住むと言われ、その後八尋殿を造り、来田見村の産土神となりました。


 また、この神社には、古来より神田植えの行事があって、鐘、太鼓、笛にて唄囃し数十頭の牛を使って田植えが行われていましたが、明治5年(1872年)の地租改正によって神田は村有のものとなり、神田植えの行事も歌謡も廃絶したと言われています。

 社殿は、寛永3年(1626年)に細川忠利によって建立されたものと云われています。

文化4年の鳥居 拝殿
本殿
本殿の彫刻
 文化4年(1807年)に造られた鳥居と文化5年(1808年)に建立された石灯篭が階段下にありました。
 なお、企救郡誌には、第一の鳥居は、元禄17年(1704年)に建てられたと記載されています。その鳥居は、どこへ行ったのでしょうか。
 
 境内には、天保の年号が刻まれた大塚明神社の石碑と、寛政2年(1790年)に造られた庚申塚があります。
 大塚明神社は、もと福永と言われる所にあったと言われています。
 その他、境内には、明治39年、出征軍人によって献納された日露戦争での捕獲弾や、この地を歌った万葉歌碑があります。

 「朽網山夕いる雲の薄れ往かば
      我は恋むな君が目を欲り」
                   (詠人しらず)
2 水上文之助翁碑と柳田治太郎碑

 水上文之助は、42年間に亘って朽網区長を務め、道路改修、用水改良、造林等村の発展に大きな功績を残したことから昭和20年7月彰功碑が朽網区によって貴船神社境内に建てられています。
 また、並んで村議、県議として村の発展に貢献した柳田治太郎の彰功碑が建てられています。この碑は、昭和3年に建てられたものです。

3 船石
 貴船大神が乗って来た船が、着いた来田見浦(くたみうら)で、そのまま石になったといわれているのがこの船石です。貴船神社境内の東側にあります。
 花崗岩の大きな岩で、石割の為の楔溝が数箇所刻まれており、中央の石は既に3分割に割られていますが、運び出されなかったようです。小倉城の築城の為に、準備されたのでしょうか?。
4 宗林寺
浄土宗西山派 光明寺末
由緒 永正3年(1530年)、朽網領主松野中務大輔[法名林善種居士・享禄4年(1531)年3月7日卒]が宗林寺の前身である宗源庵を開基したと太宰管内志に書かれています。
 なお、松野氏は長野氏の氏族であったとも云われています。

 また、境内には、東九州縦貫自動車道の建設に伴い発掘調査された、宗林寺の墓地にあった宝篋印塔や五輪塔等が移設されていました。
 この墓は、寺から西側へ100mほど登った山中にあったもので、室町時代後半に造られたものです。
 石塔の下には、木製の棺に遺体を納めた土葬の墓や、火葬の墓が設けられ、棺内には素焼きの皿や六道銭が副葬されていました。これらのことから、墓に葬られた人々は、中世末期の在地武士や僧侶などの有力者層が考えられています。
 なお、この中に松野氏の墓と云われているものもあります。

1号墳
 南北2.4m、東西2.6mと墓地の中では最大の規模で、三段の基壇の上に宝篋印塔が設置されています。笠の形式から室町時代のものと考えられています。また、この基壇には、玉石がびっしりと敷き詰められていることから非常に強い力をもった人の墓と考えられています。

2号墳
 南北1.5m、東西1.2mの規模で、二段の基壇の上に五輪塔と、宝篋印塔が設置されていますが、右側は五輪塔の地輪の代わりに宝篋印塔の基壇が使われています。また、左側は、五輪塔の火輪の上に宝篋印塔の相輪が差し込まれており、また地輪がありません。このように、長い年月の間に倒れてしまった石塔を、墓を守る人々によって形式は忘れられても何とか形を保って大事にしたいとの気持ちから、別々の石を組合わせた結果だと考えられます。
5号墳 4号墳
3号墳 2号墳
1号墳
右端の三角形の石は、墓地全体の供養塔
発掘調査時の右の宝篋印塔
5 朽網城
 標高約50mの丘陵に築かれた、室町時代後期の城で、南東から北西方向に向かう全長約48m、幅約24mの狭い範囲に曲輪等の遺構があり、非常に小規模な城です。従って、戦さがあった時だけに一時的に使われてもので、砦のような機能をもっていたものと考えられます。




 城の構造は、二つの曲輪(くるわ)と一条の堀切からなっています。曲輪のうち主郭は、最も高い位置にあり長さは約36m、幅は約12から16mで約504uの広さがあり、南端から西端にかけて土塁が築かれていました。土塁の最も残りの良いところで、幅約4.8m、高さ約40cmの大きさで、堀切を造る時に出た土で盛った事が分りました。もうひとつは、腰曲輪で主郭の周り一段低い位置に造られており、主郭の腰の辺りにあるようにみえることからこの名が付いています。
 堀切は、南側の谷部から攻めて来る敵を防ぐため、尾根を横断するように溝状に掘られています。大きさは、幅約8m、深さ約3〜4mです。



 なお、現在は下の写真のとおり東九州縦貫自動車道の建設に伴い削られ道路になっています。
北東側から主郭を見る 主郭から北東側の間島を望む
堀切 1 堀切 2
主郭から北側斜面を見る 1 主郭から北側斜面を見る 2
西側から堀切の手前 左の大石に刻まれた楔溝
6 昭和池
 昭和9年の旱魃を契機に、県・国に対して貯水池築造の運動が展開され、昭和12年曽根、新田地区の農業用水確保のため、県が工事を行うことを決定し、昭和14年3月工事着手し、戦争中の物資難の中、昭和19年ようやく完成しました。池の大きさは、約10万u、貯水量76万dで、導水路の延長は、約2.5kmです。この池を築造するに当たって、6世帯の人々が移転したとのことです。
 昭和31年と32年に池の周辺に桜が植えられ、現在では花見のシーズンには多くの市民によって親しまれています。
 また、毎年4月上旬に水を管理している曽根中央土地改良区の人々によって水神祭が行われています。


 堤の下には、昭和39年に建てられた昭和池の碑があります。題字は元小倉市長の林信雄の書で、碑文は北田到津が書かれたとのことです。
余水吐け 昭和池の碑
7 水神様と猿田彦
 用水路の分岐点に水神様が祭られていました。なにか、懐かしさの感じられる場所です。また、その横に、文化6年(1809年)に造られた猿田彦大神と寛政3年(1791年)に造られた庚申塚が大切に祭られました。

 大正時代の始めまで、水神様の横に水車小屋があり、精米・粉引きをしていたと言われています。


8 山ノ神
 昭和池横の林道脇に山ノ神が祭られていました。
9 御祖神社(妙現神社)
 集落から遠く離れた、標高170mの山中にあります。

祭神
高御産巣日神(たかみむすびのかみ)
 [※高天原の根本神]
天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)
 [※古事記で最初に出てくる神様]
神産巣日神(かみむすびのかみ)
 [※出雲系の根本神]

由緒 
 天長8年(831年)8月の建立で、東朽網の産土神となるが、何時の頃か貴船神社の摂社となりました。この神社の神威盛んで、近づく者は神罰を蒙ると言われ、慶安(1640年代)の頃まで社参する者はなかったが、宝暦年中(1750年代)からようやく社参するようになったと言い伝えられています。再興は、文化3年(1806年)とされています。毎年11月馬祭りと言う行事がありました。

 
本殿より山側の林道沿いに、東九州縦貫道路建設のため、鳥居と灯篭が移設されています。

 鳥居は、天明2年(1782年)に造られたもので、額には玄に少の字が刻まれていますが、妙と同じ字です。
 
 石灯篭は、文化5年(1808年)に造られたものです。
 本殿前に狛犬が一対設置されていますが、あまり類例のない形態をしています。
10 豊若権現
 洗子窯跡から西側標高150mの林道沿いに豊若権現と名付けられた大岩と清水があります。
11 洗子窯跡(あらいごかまあと)
 標高約180mの山中にある奈良時代後半から平安時代初頭に使われた須恵器を焼いた窯があり、林道建設のため平成13年に発掘調査がおこなわれました。この窯跡がある水晶山系山麓には古墳時代終末から律令時代にかけての須恵器を生産した窯跡が多く存在しており、豊前北部地域における一大窯業地でした。
 洗子の名称は、岩の窪みに溜めた湯水で赤ん坊を洗ったという伝承の岩が付近にあることに由来しています。
現在の状況 発掘調査前の状況
12 大師堂

朽網 大師堂
本尊 聖観世音菩薩
二市一郡新四国霊場の大85番札所になっています。
13 帝踏石(ていとうせき)
 景行(けいこう)天皇が、景行12年土蜘蛛討伐の時、この岩の上で戦勝祈願されたので帝踏石と言われるようになったと言い伝えられています。なお、土蜘蛛とは天皇側に従属していなかった部族の蔑称です。

 なお、この石は花崗岩の一枚岩ではなく四、五個の大きな塊が連なっており、中央の岩の上に昭和8年に造られた石碑が建てられています。

 また、この神聖な石にも石割の為の楔溝が数箇所刻まれており、一部の石は既に割られ運び出されています。
参考文献等
北九州の史跡探訪 昭和61年1月15日発行 北九州史跡同好会
わが郷土朽網 昭和62年9月15日発行 朽網郷土史会
洗子窯跡 北九州市埋蔵文化財調査報告書第299集 2003年3月31日発行 財団法人 北九州市芸術文化振興財団
宗林寺墓地跡 北九州市埋蔵文化財調査報告書第319集 2004年3月31日発行 財団法人 北九州市芸術文化振興財団
復刻 企救郡誌 昭和52年2月11日発行 防長史料出版社