小倉南区金辺峠地区 2004年3月31日開設(2010年1月31日追加) |
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1 旧金辺トンネル | 7 新金辺トンネル | |
2 金辺峠 | 8 JR丸山トンネル | |
3 嶋村志津摩碑 | 9 JR水路跨線橋 | |
4 郡境石 | 10 吉原鉱山碑 | |
5 金辺観音堂 | 11 JR金辺トンネル | |
6 竜ヶ鼻 | 12 茶臼山城 |
1 旧金辺(きべ)トンネル | ||
旧金辺トンネルは、大正6年金辺峠の約10メートル下に造られ、現在の新金辺トンネルより上を走る道となっています。北九州市側の入口は創建時のまま、赤煉瓦造りですが、香春町側はコンクリート造に改修されています。また内部の壁は、赤煉瓦が積まれた状況を見ることが出来ますが、道路面には土砂などが溜まっていたり、深い水溜まりが出来ており、通行する車両もほとんどない状況でした。さらに、トンネル入口上部に右書きで「金邊隧道」と書かれた銘板がありますが、蔦等に覆われ大変読みにくい状態でした。 | ||
2 金辺峠 | ||
金辺峠は、小倉と秋月を結ぶ香春街道の要衝の地であり、もともとは「木辺」と書かれていましたが「金辺」と変えられたものの、読み方は昔のまま「きべ」と読まれています。写真の峠道は、昔の面影がよく残っている香春町側で、北九州市側は鉱山開発等により改廃されていました。 |
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3 嶋村志津摩碑 | ||
小倉藩の筆頭家老であった嶋村志津摩は、慶応2年(1866年)の第二次長州征伐において小倉藩の総大将となりました。そして金辺峠を最後の砦と死守し、田川郡を戦禍から守ったこと等から、死後の明治19年に志津摩の人徳を慕って碑が峠に建立されました。 | ||
4 郡境石 | ||
志津摩の碑の反対側の斜面に、郡境を示す石柱が立っています。 従是北企救郡 従是南田川郡 |
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5 金辺観音堂 | ||
小倉藩主細川侯の頃、呼野地区で金が採掘され、金辺峠に金の観音像を安置し、茶屋の伝七じいさんに管理をまかせていました。細川家は熊本に移封され、観音像も共に熊本へいきましたが、その夜から、細川候と伝七じいさんの両方の夢枕に観音様が立ち、「金辺へ返してくれ」という。金の観音像を返す訳にもいかず、困り果てた殿様は同じ姿の観音様を木彫りで造らせ金辺に返したと伝えられている。その舞台になったのが、この観音堂で、また木辺の地名が金辺に変わった由来でもあると伝えられています。 | ||
6 竜ヶ鼻(りゅうがはな) | ||
竜ヶ鼻は、登山口から山頂まで急斜面の登り一辺倒で、市内では一番キツイ山です。名前の由来は、風土記編纂の際に山の形が竜の鼻に似ていることから付けられたと云われています。 山頂は、クマザサ等に覆われており、江戸時代には小倉藩の猪狩場となっていました。 また、ここからは行橋市内の平野が一望できます。 |
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香春方面から見た全景 | 登り一辺倒の登山路 | |
クマザサ等に覆われた山頂 | 行橋市が一望 | |
7 新金辺トンネル | ||
新金辺トンネルは、上下2車線・全長590mで、昭和47年(1967年)に開通しました。その後、増加する交通量に対応する為、全長850mの第二金辺トンネルが、平成元年(1989年)新金辺トンネルの隣に開通しました。現在、第二金辺トンネルは上り、新金辺トンネルは下り専用となっています。 |
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新金辺トンネル | 第二金辺トンネル | |
8 JR丸山トンネル | ||
丸山トンネルは、着工及び完成の時期は不明ですが、複線の断面を持つことから金辺鉄道時代の明治30年前半に建設されたものと考えられます。なお、全長は、110mです。 | ||
小倉側入口 | 香春側入口 | |
9 JR呼野水路跨線橋 | ||
丸山トンネルと金辺トンネルの間に、鉄道開設により寸断される水路を維持するため建設された煉瓦アーチ橋で、水路と道路が併設されています。こちらも着工及び完成の時期は不明ですが、複線の断面を持つことから金辺鉄道時代の明治30年前半に建設されたものと考えられます。 | ||
丸山トンネルを望む | 水路部分 | |
10 吉原鉱山碑 | ||
吉原鉱山の隆盛を記録として残す為に大正4年7月に建立された碑文です。碑文には、発見者の妹尾卯一と鉱長の岩津清三郎の名が刻まれています。また、書は、当時臨時朝鮮派遣隊司令官であった陸軍少将白水淡(しろうずあわし)によるものです。 | ||
白水淡: 文久3年6月、現在の福岡県春日市に生まれる。明治13年、満17歳の時に陸軍教導団歩兵科の生徒となり、その後陸軍士官学校に入校、明治20年7月満24歳で歩兵少尉となる。そして、第九師団参謀長、第十四師団長を経て陸軍中将となり、昭和7年1月25日69歳で死去。なお、司馬遼太郎の「坂の上の雲」に登場しています。 |
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11 JR金辺トンネル | ||
金辺トンネルは、金辺鉄道のトンネルとして明治30年(1897年)に着工されましたが、複線化等による難工事と経営難により、明治33年(1900年)工事は中断しました。その後、小倉鉄道が引継ぎ大正元年(1912年)に工事を再開しましたが、落盤事故で犠牲者を出す等難工事のすえ大正4年(1915年)に全長1,444mの煉瓦トンネルが完成しました。なお、小倉側は、複線サイズの大きさで、アーチ部は扁平三心円の断面(小倉鉄道乙式)となっています。また、入口上部には小倉鉄道社長牟田口元学の揮毫による「贔屓擘?(ひきはくとう)」の扁額があります。 | ||
小倉側入口 | 下部は花崗岩の積石で上部は赤煉瓦積となっています。 | |
12 茶臼山城 | ||
金辺峠から焼立山(759m)への登山路に標高408mの茶臼山城があります。山頂の主郭には、帯曲輪がめぐっています。 茶臼山城のページへ |
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参考文献等 | ||
北九州の史跡探訪 昭和61年1月15日発行 北九州史跡同好会 三谷むかし語り 平成9年4月21日発行 むかし話をする会 北九州の近代化遺産 平成17年11月25日発行 北九州地域史研究会 |