小倉南区城野地区
2004年12月23日開設(2012年12月13日一部更新)
1 旧女子挺身隊寄宿舎門 2 石碑 3 化龍先生墓 4 五輪塔と地蔵堂
5 檪木兵曹長の墓 6 猿田彦大神 7 旧城野医療刑務所 8 重留遺跡
9 貴布祢神社、升塚 10 若宮神社、神社縁起碑 11 天疫神社 12 砥石山古墳群
13 御堂、宝筴印搭 - - -

1 旧女子挺身隊寄宿舎門柱
 城野小学校、城南中学校及び小倉商業高校一帯には、戦前小倉陸軍造兵廠に動員された女子高校生を中心とする女子挺身隊の寄宿舎がありました。その門柱が、現代の寄宿舎「ひびき寮」の塀の中に片方のみ保存されていました。
2 石碑

 道路脇の辻に建つ石碑、文化2年(1805年)の建立記念銘が刻まれています。表面には、青面金剛(しょうめんこんごう)と彫られており、道教思想に由来し、日本では庚申信仰の中で独自に発展したものとされています。

 以前、この彫りを三日一回合剛と解釈していましたが猿田彦を研究されている方から平成24年12月12日御教示戴きました。ありがとう、ございました。
 なお、類例は遠賀町尾崎に正徳四年(1714年)「青面大金剛尊」があります。

3 化龍先生墓
 小倉藩士福島正信は、歌道、茶道、生花に通じ、寺子屋で教鞭もとっていました。また、号を「化龍」と称していた為、門人たちが明治9年にその遺徳を偲んで墓を建てました。
4 五輪塔と地蔵堂
 上城野公民館の敷地内に地蔵堂があり、一緒に一石五輪塔も大切に祀られていました。
 また、花崗岩で造られた万霊塔や、江戸墓も敷地内にあります。
5 陸軍兵曹長檪(くぬぎ)哲造の墓
 明治10年(1877年)西南戦争に従軍した小倉駐屯の熊本鎮台歩兵第14連隊(連隊長乃木 希典少佐)は、2月22日熊本へ前進中、植木南方の向坂で薩摩軍の攻撃をうけ、連隊旗を奪われました。責任を感じた乃木少佐は、自決しようとしましたが、これを止めたのが檪木兵曹長でした。この兵曹長の行動を称え、在郷軍人会をこの墓を建てました。
6 猿田彦大神
 旧城野医療刑務所の西側道路脇の辻に、文政2年(1819年)に建立された猿田彦大神が、他のお地蔵さん並んで祀られています。また、銘文の上には、○印が刻まれています。
7 旧城野医療刑務所
 旧城野医療刑務所は、小倉衛戍刑務所を始まりとして現在は、旧小倉刑務所を北九州医療刑務所へ改修し移転しました。この施設は、いつここに設置されたかは、表に出ている記録が無い為推察すると、明治21年5月12日に関連のある小倉衛戍病院が小倉北区城内に創設されています。その後 明治32年4月1日に、春ヶ丘の国立小倉病院の敷地へ移転していることから、この前後に設置されたと考えられます。
 敷地周辺に陸軍の境界石が残っていました。
8 重留遺跡
 弥生時代中期から後期にかけての集落跡で、これまで竪穴住居跡が27軒、貯蔵用竪穴が51基、掘立柱建物が11棟発掘調査されています。
 この中の弥生時代後期の竪穴住居跡から、祭祀に使われて広型銅矛が、土の中に収納された状態で発見されました。調査の結果、収納された穴は7回ほど繰り返し埋め戻されていることと、穴の上には目印の白色粘土が貼られいたことが分かり、この建物は一般の住居でなく、祭祀用の施設で司祭者を兼ねた地域の勢力者が住居とした可能性があることが窺えます。なお、この遺構は考古学史上価値深いものとして、現地に復元され公園として残されています。また、併せて福岡県の指定史跡となっております。


9 貴布祢神社、升塚、猿田彦大神
貴布祢神社

祭神 高淤加美神、闇淤加美神、
    弥都波龍売神、大山祇神
由緒 創立は不明。


升塚
 境内に、康永2年(1343年)に建立された自然石の梵字が刻まれた板碑があります。石質は結晶質石灰岩です。梵字は、阿弥陀をあらわす「キリーク」が彫られています。また、建立年をあらわす「康永第二天暦3月13日」がその左下隅に刻まれています。中世における信仰の好資料として市の有形文化財に指定されています。
 またこの碑は、「升塚」の名で地元から畏敬されています。それは、 この地方には定められた升が無く困っていたので、ある村人が升を決めてもらおうと鎌倉に上り、3年間幕府に訴え続けた。しかし村人は、目的を果たさぬまま死んでしまった。このことを聞き及んだ将軍は、不憫に思い早速升を決めさせた。これを喜んだ村人たちはお祝いをし、その記念に石碑を建てたという伝説によるものです。
 なお、この碑は神社から北側の水町橋付近にありましたが、鉄道開設等により数回移転し大正14年現在地に移設されました。
 大きさ
  高さ182cm 幅52cm


猿田彦大神
 境内に、文政7年(1824年)に建立された猿田彦大神があります。

キリーク 康永第二天暦3月13日
10 若宮神社、板碑、神社縁起碑
祭神 高淤加美神、闇淤加美神、
    象女神
由緒 延喜15年(915年)、蒲生郷の郷士「規矩太郎重行」が夢で見た奇石を得て、祠を建立したのが始まりとされています。その後、保元2年( 1121年)平康盛が豊前の守護として長野城を築くにあたり、規矩氏之は臣下として社域に丸城を築き、城の守護神としましたが、城の破却とともにほこらも廃れました。応永年間(1394〜1428年)になると、大内盛見がこの地に陣を張り、祠も復活しましたが、天文23年(1554年) 大友氏との戦いにより焼失してしまいました。以来、里人からも忘れされようとしていましたが、慶長6年( 1601年)開墾していた村人により奇石が発見され、社殿は再興され上城野村の産土神として現在まで祭られています。


板碑
 碑面上部に梵字らしきものが刻まれています。


神社縁起碑
 神社の縁起が刻まれた碑

板碑 梵字らしきもの
神社縁起碑 左の碑文
11 天疫神社
祭神 須佐之男命(高淤加美神、闇淤加美神、
    闇岡女神)、建御名方神
由緒 神社の北方、篠崎山の下にある蛇渕に住む蛇神は、里人に災いを与えていた為、疫神を勧請し祀ったこと始まりとされています。また、須佐之男命に祀る為、新たに剣を打ち、蛇渕の水を汲んで社内の岩で砥いだことから、この地を砥山と呼ぶようになったと云われています。

境内には、元禄10年?(1697年)銘の刻まれた鳥居がありました。
12 砥石山古墳群
 天疫神社の境内には、現在10数基の古墳時代後期の円墳があります。そのうち、参道脇には盛り土が無くなり横穴式石室の内部主体が露出した古墳を見ることができます。
13 御堂と宝篋印塔
 天疫神社の南側に隣接して御堂があり、そこでは宝篋印塔の笠石が大切に祀られていました。
参考文献等
復刻 企救郡誌 昭和52年2月11日発行 防長史料出版社
北九州の史跡探訪 昭和61年1月15日発行 北九州史跡同好会
北九州市の文化財ガイド(古墳編) 平成4年4月1日発行 北九州市教育委員会
北九州市の文化財 平成2年3月発行 北九州市教育委員会