小倉南区道原・春吉・頂吉地区
2008年2月9日開設(2009.4.24更新)
 1 眼鏡橋  2 国守神社  3 水ヶ手城  4 猿田彦大神
 5 69番札所  6 84番奥院  7 森林管理署  8 五輪塔
 9 道原小学校  10 細川内の立石  11 道原浄水場  12 石祠
 13 辻の道標  14 菅生寺  15 菅生の滝  16 赤松ヶ畑城
 17 石碑  18 鱒渕ダム  19 頂吉貯水池  20 福智貯水池
 21 犬甘兵庫碑  22 高畑山城  23 正福寺  
1 眼鏡橋 (めがねばし)
 大正8年(1919年)に完成した石造二連のアーチ橋です。大きさは、 長さが20.5m、幅は3.6mで、玢岩や輝緑凝灰岩等の紫川の川原石が使われています。
 この橋は、大正6年に子守をしていた女の子が、それまでの岩の上に板切れを渡しただけの簡素な橋から転落し亡くなったことから、二度と悲劇を繰り返さないため恒久的な橋を地元で建設することになりました。しかし、第一次世界大戦後のインフレによる物価高騰のため建設には大変苦労したと云われています。
 なお、橋の袂の石碑には、春吉58人の寄付者名や建設にあたった石工「道原の中山熊次郎、佐島栄治」の名前が刻まれています。
 また、平成4年3月26日に農村における庶民生活の一端を知る貴重な文化遺産として北九州市の史跡に指定されています。

 

2 国守神社
祭神:大穴牟遅命(おほなむち)
    大国主神(おおくにぬしのかみ)
    宇都志国魂神(うつしくにたま)
    八千矛神(やちほこ)
    葦原色男神(あしはらしこのを)
    大山昨神(おおやまくいのかみ)
    端山津見神(はやまつみのかみ)
    闇淤加美神
    高淤加美神
例祭:8月25日
由緒:昔、近江の国比恵大明神を勧請し、山本山の頂に鎮座しました。これにより、この山を比恵畑山、又は宮山と云うようになりました。その後、長野氏がこの山に城を築き、城内の鎮守となっていました。享禄年間(1528~1531年)に兵火に遭い、城は破棄され社殿も荒廃してしまいましたが、これを嘆いた里人は、西の山下に社殿を遷しました。寛永7年11月(1630年)、小田豊辮老内、竹森長吉承之らが社殿を国主に訴えて再建されました。

 境内には、寛政12年(1800年)寄進の鳥居や五輪塔、宝篋印塔などがあります。

 神社の神木なんでしょうか、市の保存樹に指定されている「杉の木」の大木があります。




 昔は、山王神社と呼ばれ、祭りの日には、境内で相撲が行われていたと地元の方より聞きました。(2009.4.24)
全景 寛政12年寄進の鳥居
石祠1 石祠2
五輪塔等が集約されています 五輪塔と宝篋印塔の一部
注連縄が張られた石 保存樹「杉の木」
3 水ヶ手城
 明治初期に作られた「企救郡古城址取調簿」に「山本村の西方、水上山の頂にあり。東西十間、南北十五間程の楕円形の平地で、西北三十間程を下った山腹に清水の小池があり、水ヶ手と云う。」と記載されています。なお、由来や城主は不明です。標高425mの山頂に至る各尾根に堀切、土塁等が残っています。
水ヶ手城のページへ
4 猿田彦大神
 春吉と道原の境となる道路脇に、猿田彦大神が祀られています。建設年等は、苔むしているため、判読出来ませんでした。
5 69番札所
 二市一郡新四国霊場第69番札所となっている春吉三寶堂で、本尊は不動明王です。道路脇に御地蔵さんと一緒に祀られています。
6 84番奥院
 二市一郡新四国霊場第84番奥ノ院となっている道原楽庭堂で、本尊は千手観世音菩薩です。
7 森林管理署中谷森林事務所
 市内東部地区の国有林等を管理保全している福岡森林管理署中谷森林事務所です。市内の国有林を全て管理していた直方営林署は、平成10年に福岡営林署とが統合され、福岡営林署と福岡営林署直方森林管理センタ-となっていましたが、平成11年3月1日、全国229の営林署が98の森林管理署等に再編されました。そして、暫定的に置いた直方森林管理センタ-は、平成16年3月末に廃止され、市内西部地区の国有林等は直方森林事務所が管理保全しています。敷地に設置されていた境界標には、「山」の文字が刻まれています。また、塀は鉱滓煉瓦で築かれており、川側にも出入り口が設置されています。上流のダムが建設されるまでは、細川の水量も多かったことから水運に利用されていたのでしょう。

中谷森林事務所 1,460haを管理

直方森林事務所 1,360haを管理
 大正13年(1924年)に設置
全景 現在の事務所
川に面した出入り口 境界標
8 五輪塔
 中谷森林事務所の一角に祠が祀られています。また、一緒に五輪塔等も集約されています。
9 道原小学校
 明治7年4月、道原村楽庭に道原下等小学校を設置したのが始まりで、明治19年に道原尋常小学校に名称変更する。その後、昭和16年4月に小倉市道原国民学校と改称し、昭和22年4月には小倉市立道原小学校と改称する。そして、昭和46年4月には、鱒渕ダムの建設によって閉校となった頂吉小学校の児童を受け入れました。  現在、児童数は、3学級15人と少人数で将来とも増加が見込まれないため、平成20年4月に隣の山本小学校と統合することになり、この校舎は廃止される予定です。

 校内には、道原尋常小学校時代の校名石柱や二宮金次郎の像があります。また、玄関脇には、「腕式消防ポンプ」といわれる手動式消防ポンプが大八車に装着されて展示されています。 消防ポンプには、昭和2年「中谷村」と書かれています。
校名石柱や二宮金次郎像 校舎
消防ポンプ 消防ポンプの表記
10 細川内の立石
 菅生の滝を源流とする細川の河の中に、コンクリートで基礎固めした自然石の立石があります。何か信仰の対象となっているのでしょうか。
11 道原浄水場
 旧小倉市は、明治43年清瀧川と細川の合流地点に土堰堤の貯水池築造工事に着手し、大正2年に道原貯水池(45万トン)及び浄水場が完成し、同年5月より給水を開始しました。道原浄水場は、旧小倉市最初の浄水場で、浄水方法は、緩速ろ過方式となっています。現在でも、1日7,800の水を小倉南区に給水しています。
  なお、場所の選定及び設計は、佐世保鎮守府の吉村長策建築科長が行なったと云われ、建設費の一部に陸軍省からの補助金を受けております
 また、この施設の特徴として、貯水池の余水吐けから流れ出た水の流速を弱めることと、曝気により水質浄化を目的として水路に階段状の構造を設置しています。





※吉村長策
 万延元年(1860年)大阪府で生まれ、工部大学校(現在の東京大学)を卒業後、長崎市、大阪市、広島市、神戸市の水道施設建設に携わり、明治32年12月に佐世保鎮守府建築科長へ赴任。その後、海軍や佐世保市の水道施設建設に携わりました。水道施設ばかりでなく、海軍港湾施設建設の最高責任者になっています。また、門司、小倉、福岡等各市水道拡張工事の顧問も努めていました。
貯水池の土堰堤 貯水池と取水塔
貯水池の余水吐け 浄水場全景
浄水場内部 道原貯水池バルブ室
階段状の水路
12 石祠
 浄水場から菅生の滝への道路脇に、石祠が二つあります。どちらも、青々とした柴が供えられており、通行の安全を守る神様か山へ入る人々の安全を守る神様なんでしょうか。
13 辻の道標
 浄水場から「菅生の滝」への道と「赤松集落」への道の別れに、明治23年に建てられた道標が建っています。
14 菅生寺
本山修験宗
本尊:薬師如来
由緒:元は、天台宗寺門派の寺院で欽明天皇(539~571年)の時代に智賢上人が開基、当時は48坊の大寺院でしたが、天文年間(1532~1554年)に兵火に遭い悉く焼失してしまいました。文禄3年(1594年)小堂が再建され、元和3年(1617年)聞求法師の時、小倉藩主細川忠興に願い出て、祈願所となりました。その後、無住となりましが、寛永10年(1633年)藩主小笠原忠真の時、英彦山の法山坊を招き、祈願所となりましたる。また、二市一郡新四国霊場第81番札所となっています。なお、道原貯水池及び浄水場建設に伴い、大正元年に現在地へ移転しています。

15 菅生の滝

五輪塔

 菅生の滝への入口に、お地蔵さんが沢山祀られています。その中に、五輪塔の一部が集められ一緒に祀られていました。
全景 五輪塔
一字一石経塚
 お地蔵さんの中に、平安時代に英彦山の座主法蓮上人が法華経八巻を写経してこの地に宝蔵したと書かれた説明柱と苔むした自然石の立石が祀られていました。

※法蓮は、弘仁10年(819年)英彦山中で飛んで来た鷹が落とした羽に「日子を彦と改めよ」と書かれてるのを見て、それまでの「日子山」を「彦山」に改めたと云われています。
全景 経塚
菅生寺奥之院
 滝壺の横に、菅生寺の奥之院があります。記録では、寛永9年(1632年)藩主細川忠利公、万治3年(1660年)小笠原忠真公、元禄9年(1696年)小笠原忠雄公、享保16年(1731年)小笠原忠基公の時に造営されたと伝えています。
須川神社
祭神:高淤加美神(たかおかみのかみ)
    闇淤加美神(くらおかみのかみ)
    闇御津羽神(くらみつはのかみ)
   例祭:10月13日
由緒:宣化天皇(535~539年)の時に鎮座し、福智山を中心とする雨乞い社として信仰されています。
 滝壺の横に、菅生寺奥之院と並んで社殿があります。かっては、菅王子三社の上宮で「菅王子権現」と称していました。他の二社は、中宮で「北山権現」、下宮「観世音」と称していました。
※ 菅王子(すがおうじ)伝説
 百済(くだら)の国の皇子「菅王子」が、神の教示によってこの滝に来て住むことになり、ある時菅生寺の開基智見(ちけん)上人が皇子を訪ねてきて「菅王子こそ薬師の化身である。」と言って菅権現と呼ぶようになりました。また、あわせて滝も「菅王子の滝」と呼ぶようになったと云われています。

菅生(すがお)の滝
 この滝は、落差が約30mあり、市内で最大の滝で一ノ滝から三ノ滝まで三段に分かれています。川の水源は、福智山から発しております。
 現在は、「 菅生の滝」と表記されていますが、「菅王の滝」「須賀(菅)王子の滝」「巣川の滝」「清川の大滝」と書かれたこともありました。

 また、応永年間(1394~1427年)に、大内盛見が見物したとあります。

※菅生の滝伝説
 悲恋の末、この滝つぼに身を投じた男性が亡くなってから、高熱に悩まされていた元恋人の姫が、滝つぼに入ると気分がよくなる夢を見ました。滝に向かう姫を見て、「姫は蛇に見込まれているから、顔が分からないよう墨を塗って行きなさい」と古老が進言したので、そのとおりにして滝つぼに近づきましたが、水しぶきで墨は落ち素顔があらわになってしまいました。すると白蛇が現れ、姫を滝つぼに引きずり込んでしまいました。それからというもの、女性が滝に近づくと化粧が落ちて素顔になることから、「素顔の滝」と呼ばれるようになったと云われています。このほか、菅の草が生い茂った清々しい場所など様々な伝説があります。

16 赤松ヶ畑城

  明治初期に作られた「企救郡古城址取調簿」に「道原村の南、城山の頂にあり。東西八間、南北十二間の楕円形の平地で、西北一町程の麓、東ヶ谷の叢の中に面積五歩ばかりの段があり、その中に五輪塔が二基、野石の碑が四基あり、里人は城主赤松氏の墓標と云う。」と記載されています。なお、豊前国志や豊前古城記には、城主赤松太郎義祏とあります。標高539mの山頂から北東に延びる標高300mの尾根に、郭、土橋、土塁等が残っています。
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遠景 堀切

※道原楽と赤松ヶ畑城
 道原楽は、道原の里に伝わる雨乞い祈願の太鼓踊で、稲作儀礼の田遊びから起きた田楽に、「風流」や「念仏踊」が影響して出来た民俗芸能です。構成は楽引3・旗持1・縁起読1・杖2・笛4・鉦4・うちわ4・太鼓24(頭楽1・向楽1)の総勢43人からなり、豊前地方では最大の楽です。なお、 雨乞い祈願が目的となっているため、天明7年(1787年)以降、現在までわずか20数回しか踊られていません。また、昭和29年12月13日に福岡県の無形民俗文化財の指定を受けています。
 この道原楽は、大友氏が赤松ヶ畑城に攻め入った時、難攻不落の城であったため篭城攻めに入りました。そのため、城主は、赤、白等色とりどりの幟を立て、太鼓や鐘を打ち鳴して楽を演奏し舞を舞わせました。これを見た大友氏は、城の囲みを解き引き上げました。その後、この舞楽が、道原の里人に伝わって現在の楽になったと云われています。

17 石碑

 道原サイクリングターミナルから鱒渕ダムへの道の途中に、自然石の立石が、道の脇に大切に祀られています。何を祀っているのでしょか、文字等は一切刻まれていませんでした。

18 鱒渕ダム

 鱒渕ダムは、紫川の洪水調節、かんがい用水や上水道用水の、貯水池として造られた多目的ダムで、総貯水量は1,360万㎥の重力式コンクリートダムです。工事は、昭和43年に着手し、6年の歳月と約35億円の事業費を要し、昭和48年に完成しました。ダムの高さは60m、堰堤の長さは205mで、ダムの周りには一周10.3kmの周回道路が造られています。
 この、工事によって25戸の家や頂吉小学校が湖底に沈むこととになり、立退きや廃校となりました。また、集落では信仰心も豊かで一部移転したものを除き、下記のとおり多くの神様も一緒に沈みました。

 豊前坊(牛馬の神、火の神様)4箇所
 地主様(地神、開拓先祖)4箇所
 厄神(ホウソウ神)4箇所
 権現(福智権現)3箇所
 観音堂2箇所
 八坂神社・ 薬師堂・ 妙見様
 十三仏2箇所

下流より見た提体 提体
福智橋 建設中の福智橋
湖底に沈んだ福智橋
 福智貯水池建設に併せて造られた赤煉瓦造りの眼鏡橋で、明治43年に完成しています。
19 頂吉ダム

 旧門司市は、福知貯水池、小森江貯水池に次ぐ水源開発として、昭和10年8月に頂吉貯水池(ダム)の築造工事に着工し、昭和15年3月(1940年)にを完成させました。門司市初の重力式コンクリートダムで、構造は、粗石コンクリート造、堰堤の外面は割石張り、総貯水量は184万㎥でした。




現在の堰堤 堰堤の内側
沈む前の探偵 堰堤外面の割石張り

20 福智貯水池

 福智貯水池は、現在鱒渕ダムの一部となっており、土堰堤は一部を残して、壊されていますが高さ29m、長さ123mの土堰堤で、総貯水量は76万9209㎥で、当時110日分の貯水量でありました。築造の場所は、標高140.3mで、堰堤中心は12m余り掘り下げ、幅3.6mの刃金粘土を入れて漏水防止を行っています。また、堰堤の内法は石張りを行い風波に耐える構造としています。取水塔は高さ30m、満水面上1.8mで煉瓦積円筒となっており、堰堤内法の法先に設置され、それから煉瓦及びコンクリートで出来た延長176mの暗渠(高さ2.4m、幅3.6m)を堰堤中心部につくり、取水塔に設けた3箇所の受水口より口径約400ミリの鉄管をその中に通し送水管に接続していまはた。また、併せて濁水を排出するため、排水口1箇所と同じく400ミリの排水管を設置していました。なお、幅30mの溢水路を堰堤左側に設置するとともに、貯水池左右の山腹側面に、また満水面から約2m上にして幅員2.7mの巡回用通路を設置しその外側に幅員1.8mの溝を設け土水が貯水池内へ浸入するのを防いでいました。

現在の土堰堤の全景 残っている土堰堤の一部
建設中の貯水池 建設中の取水路

※旧門司の水道の始まり
 旧門司町は、地形上用水に乏しく毎年のように伝染病が流行していました。このため、上水道の必要に迫られ明治25年7月内務省衛生工師バルトン氏に水道布設の調査を依頼し、大久保及び清滝の渓谷に堰堤を築き給水することの調査結果が提出されました。しかし、地元から難色の声が挙がるとともに、水道百年の大計としては適切でないとして立ち消えとなった。そして、明治32年に市になり、明治37年再び内務省の中島鋭治技師へ水源地の調査を依頼したところ、将来の門司の発展を予測して企救郡中谷村福智渓が水量、水質ともに優れているとの調査報告がありました。これを受け、明治38年より下関水道工事長であった滝川技師に調査設計を依頼するとともに水利権について県との協議に入り、明治40年着工、同43年度完成の計画で国庫補助申請を行いましたが、国の財政難により1年間延長することになり明治42年3月(1909年)に工事着工し、45年3月に完成しました。
 また、明治45年4月1日から給水開始の計画で工事を進めていたが、明治44年11月10日明治天皇が陸軍大演習を御統監するため行幸途中門司に立ち寄ることとなりました。門司市では、明治35年11月、同じように明治天皇が立ち寄る予定でありましたが、コレラ流行のため取り止めになった痛い思い出があったため、急遽明治44年11月4日に一部給水を行い、無事天皇の歓迎会を終えることが出来ました。

21 犬甘兵庫(いぬかいひょうごともひろ)

 犬甘兵庫知寛は、安永6年(1777年)家老に就任し、様々な改革を行い財政再建に成功しましたが、農民の不満は募り享和2年(1802年)の洪水被害を契機に怒りが爆発し、享和3年(1803年)1月家老犬甘の免職と減税を求めて強訴を行ないました。このため、犬甘は失脚し2月6日頂吉福智(かぐめよしふくち)の土牢に幽閉され、その後11月18日死去しました。なお、この騒動を「小笠原騒動」といい、後に歌舞伎の題材にもなっています。また、墓は開善寺にあります。
 幽閉された土牢(地元の古老は大きな屋敷であったと伝えています。)は、福智貯水池の湖底となっている場所にあったと云われています。また、大正9年福智貯水池の傍らに、追悼碑が有志によって建立されましたが、鱒渕ダム建設によって現在地へ移転しております。 (左下写真の矢印下が当時の碑で大山津見神社の境内にありました。)
 その他、一緒に移転してきた小笠原の三階菱が陽刻された地主様の石祠も祀られています。なお、この石祠は明治時代の建立ですが、元々は鱒渕の地名の由来となった旧家にあったものです。
 また、犬甘碑の傍らにあった昭和3年奉建立の十三仏も一緒に移転しています。
十三仏と犬甘碑 犬甘兵庫碑
湖底に沈んだ大山津見神社 地主様の石祠
22 高畑山城

  明治初期に作られた「企救郡古城址取調簿」に「道原村の南、高畑山の頂にあり。東西八間、南北八間ほどの円形の平地で、東方一町程の山腹に百二十間あまりの平地がある。馬場の址と云う。」と記載されています。標高442mの山頂を主郭に、南北及び東へ延びる各尾根に3つの郭が築かれています。
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23 正福寺
真宗本願寺派
本尊:
由緒:寛永8年、僧了慶が開基しました。明治12年に、寺号公称が許可となっています。
参考文献等
北九州の史跡探訪 昭和61年1月15日発行 北九州史跡同好会
北九州市史 近代・現代(教育・文化) 昭和61年12月10日発行 北九州市
復刻 企救郡誌 昭和52年2月11日発行 防長史料出版社
頂吉 昭和47年3月発行 北九州市教育委員会 北九州市文化財調査報告書第10集
小倉市誌 補遣 (復刻版) 昭和48年6月13日発行 名著出版
門司水道史  昭和38年2月5日発行 門司市水道局
門司・小倉の古城史 平成13年10月1日発行 八木田謙著