小倉北区富野地区
2005年6月5日開設(2010年9月19日更新)
1 企救の高浜 8 光清寺
2 旧東小倉駅 9 徳蓮寺
3 赤レンガの橋台 10 観広寺跡
4 五輪塔 11 石祠   
5 須賀神社 12 天疫神社
6 大谷池
13 常盤橋橋脚
7 安楽寺 -
1 企救の高浜
 小倉から門司の大里にいたる海岸は、「企救の高浜」と呼ばれていました。 現在の国道199号線から山側で、臨海埋立造成によってその姿は全く消していますが、当時は白砂と美しい根上り松が群生し、古くは万葉の昔から太宰府へ行交う人や、大里宿へ通じる街道として多くの人々の心を慰めたものでした。
 また、万葉集の中に、この浜のことを詠んだ歌が載せられています。

 「豊国の企救の高浜たかだかに
      君待つ夜らは小夜ふけにけり」
旧街道筋 延命寺川河口
2 旧東小倉駅跡
 東小倉駅は、大正4年(1915)4月1日小倉鉄道添田線の始発駅として開業し、昭和18年に国有化され、昭和31(1956)年には路線名を日田線と改称されました。そして、同年に日豊本線城野駅と日田線の水町信号場の短絡線が完成したことにより、東小倉駅から水町信号場までは貨物線化され、昭和37年10月には廃止となりました。
 駅舎やホームは、全く残っていませんが、国道脇に残る駅への階段のみが当時の面影を残しています。
3 JR赤レンガの鉄橋橋台
 赤坂から高浜への道を横断するJR鹿児島本線の下り線橋台は、赤レンガと花崗岩で造られており、明治24年(1891年)4月1日 門司駅(現在の門司港駅)から黒崎駅まで間通した当時のものと考えられます。
4 宝樹寺境内の五輪塔
浄土真宗木辺派

由緒 昭和4年に赤坂教会として設立され、昭和17年に開基しました。

境内に、五輪塔が一基祀られていました。
5 須賀神社
祭神 須佐之男命
    伊邪那岐神
    伊邪那美神
由緒 平安時代初期の元慶元年(877年)9月8日創建と云われている。この年、三鏡山(小文字山)に怪火があり、富野村では悪疫が流行し多数の死者がでていました。そんなある日、村人が山中で出会った童子に「我は須佐之男命の化身なり、悪疫を終わらせたくば、我が宮を建てよ」言われた。村人たちは、相談して山中に神社を建て「若一王子社(にゃっこうじしゃ)」と呼びました。すると、悪疫は治まり平穏な村になりました。
 その後、応永年間に若王子城の城主となった門司一徳斉俊親は、山中にあった神社を今の場所に移しましたが、戦乱によって荒廃していました。
 江戸時代になって、村人たちは藩主細川忠興に神社の再興を願い出て、元和3年(1617年)再建されました。
 明治4年、若一王子社は須賀神社に改称されました。
 社殿は、昭和28年の大水害によって、流されたため、昭和47年に鉄筋コンクリートで再建されました。
 参道入口にある石段に組み込まれている、文政6年(1823年)銘の石碑。
社宝鳥居門
 小笠原藩主五代忠苗(ただみつ)が、享和2年(1802年)に奉献したもので、前後側面どちらから見ても鳥居の形をしています。

社宝鳥居門

側面に組み込まれた鳥居
 神社入口の狛犬一対。
 
 花崗岩の台石と一体に刻まれた、市内では唯一の狛犬で他に例を見ません。特に、右側は台によじ登ろうとしている姿で刻まれています。

 上段は、向かって左側の口を閉じた「吽像」です。
 下段は、向かって右側の口を開いた「阿像」です。


 宝暦6年(1756年)に造られた鳥居。
宝暦6年
 天明4年(1784年)に、寄進された手水鉢。
 左は、基壇上に祀られた猿田彦。

 右は、形態から見て石臼と思われますが側面に多くの方形の穴が、歯車状に穿たれており、何に使用されていたのでしょうか。
 文化2年(1805年)に造られた、猿田彦大神。

※ 猿田彦大神は、日本神話に登場する神で、天孫降臨のとき道先案内をつとめ、天孫ニニギノミコトを高千穂の嶺に案内した神とされています。この神は、江戸時代になると、道の守護神として、古代中国から伝来していた道祖神などと同一視され、疫病・悪霊などを村境や峠・辻・橋のたもとなどで防ぎ止める神として、また旅行の安全を守る神として広く信仰されるようになりました。

 上と同じく文化2年(1805年)に造られた、猿田彦大神ですが、書体と年号の表記が違っています。
 寛政6年(1794年)、赤坂村に造られた猿田彦大神。
 天明2年(1782年)に、寄進された石灯篭。
6 大谷池
 水田の潅漑用水を確保するため、大谷川を堰き止めて造られている農業用ため池で、江戸時代に造られたものです。なお、この上流に中池、上池の二つの池がありますが、今は陸上自衛隊の敷地となっており行くことは出来ません。
 中村平左衛門日記には、この池が天保2年(1831年)、天保11年(1840年)に決壊し、田畑に損害を与えたことが記載されています。特に、天保11年(1840年)6月5日の決壊では、下流の若一王子下橋が倒壊したと書かれています。
7 安楽寺
浄土真宗本願寺派

由緒 開基宗哲は、大内家の仁保加賀守弘政の男で、元和2年(1616年)6月17日、本山より木仏及び寺号を許可される。元々は、小倉城下町内の米町にありましたが、大正5年に現在地へ移転しました。
8 一向山光清寺
真宗大谷派

由緒 行橋市今井の浄喜寺の末寺で、元和元年(1615年)照玄が開基する。
元々は、小倉城下町内の門司口、現在のJR鹿児島本線線路の中に徳蓮寺と道を挟んで建っていましたが、昭和27年線路拡幅の為現在地へ移転しました。
山門は、解体して移転されたもので、明治末期に書かれた「龍吟成夢」によると、この門は左甚五郎が建てたと云われている。また、彫刻されている龍は、夜になると浜辺に塩をなめに行ったと言い伝えられています。
9 白雲碧水山徳蓮寺
真宗大谷派

由緒 行橋市今井の浄喜寺の末寺で、小倉藩主細川忠興が小倉浄喜寺を京町に建立し、今井の良慶に与え住職となる。忠興が中津に隠居した時、良慶は寺を嫡男慶安に譲り、同行する。寛文元年(1661年)、小倉浄喜寺は小倉藩主小笠原忠真に献上され、忠真は馬借町にあって寛永14年(1637年)焼失した母の菩提寺「峰高寺」をその跡に移転する。代わりに、門司口に土地を与えられ、ここに徳蓮寺と光清寺を建立する。
昭和27年、小倉駅移転に伴う線路拡幅の為現在地へ移転しました。
10 観広寺跡
詳細不明

 境内跡にあるお堂と、延享5年(1748年)に寄進された手水鉢。

延享5年
経塚「法華一字一石書写之所」
  
一石五輪塔や地蔵尊
11 石祠
文化5年(1808年)の銘が刻まれています。
12 天疫神社
祭神 須佐之男命
    天之忍穂耳命 天之菩卑命
    天津日子根命 活津日子根命
    熊野久須毘命 多紀理毘売命
    市寸島比売命 多岐都比売命
    弥都波能売命 保食神
由緒 創建は、天慶3年(940年)と云われています。登美(とみ)の住民は、氏族繁栄、五穀豊穣、災厄消滅の祈りをこめて、須佐之男命をはじめ諸神を由緒あるこの地へ勧請し祀ったと伝えています。また、ある時悪疫が大流行したが、この神社の神によってたちまち病魔は退散したことから、領主や庶民の信望が高まり、遠近からの崇敬者で門前は賑わったと云われています。
 明治13年、福智神社と水神社を合祀し、弥都波能売命 保食神を祀るようななりました。

興玉神
 境内に、寛政11年(1799年)と刻まれた興玉神が祀られています。この神は、猿田彦大神と同じ系列の神とされており、旅の守護神として市内では八幡西区黒崎と木屋瀬に「興玉神」を祀った祠があります。また、興玉神は船では船玉と言い、船の守護神として信仰されている女性神です。なお、この神は、猿田彦大神に比べると、数は大変少なく、珍しい石碑です。

興玉神

寛政11年
13 常盤橋の橋脚
 長さ5.2m、直径0.6mのほぼ原形をとどめている橋脚で、石材は、山口県三田尻産の花崗岩です。常盤橋は、寛永11年(1634年)に架けられ、文政10年(1827年)と、天保3年(1832年)の2回にわたって橋脚の修理、建て替えが行われています。右の写真は、橋脚上部の欠けた部分で、木柱を乗せる為のかきこみがされているのがよくわかります。
 この、橋脚は、昭和15年の皇紀2600年を記念して須賀神社の燈籠を造る為に運ばれたが、上部の笠石があまりも大きすぎたため断念され神社入口横に笠石とともに置いたままになっていると伝えられています。
参考文献等
小倉市誌 復刻版 昭和50年7月10日発行 名著出版
北九州の史跡探訪 昭和61年1月15日発行 北九州史跡同好会
北九州の史跡探訪 平成2年9月1日発行 北九州史跡同好会
北九州市史 近代・現代・教育文化 昭和61年12月10日発行 北九州市
足立山麓文化資源基礎調査報告書 平成8年3月発行 北九州市
足立山麓の史跡を探る 2004年3月吉日発行 足立山麓文化村
中村平左衛門日記 北九州市立歴史博物館