小倉北区長浜地区
2003年9月7日開設
1 門司口門跡 8 庚申塚
2 貴布祢神社 9 東京製綱小倉工場
3 万葉歌碑 -
4 岩松生誕の家跡 -
5 閻魔堂等 -
6 門司への街道筋 -
7 共同井戸 -
1 門司口門跡
 小倉城の門司口門があったところで、赤坂を経て、新町大里より門司に至る街道(門司往還)への出入口でした。しかし、昭和28年の鹿児島本線の拡幅や新幹線の建設で、現在は新幹線の高架下となっています。この道は、九州諸藩が参勤交代した街道で、大里で船を降り赤坂、高浜、長浜を経てこの門に入りました。
2 貴布祢神社
祭神 高淤加美神、闇淤加美神、
    上筒之男神、中筒之男神、
    事代主神、綿津見神 
由緒 創立は不明。

 境内には、延宝7年(1679年)に造られた鳥居が建っています。
 中の写真は、文化十年(1813年)に造られた八大龍王の碑で境内にあります。


 右の写真は享和四年(1804年)に造られた手水鉢です。
3 万葉歌碑
 貴布祢神社の境内に、この地を歌った万葉歌碑が建っています。

  「豊国の企救の長浜ゆきくらし
      日の暮れぬれば
            妹をしぞ思ふ」
4 岩松助左衛門生誕の家跡
 長浜の庄屋であった岩松助左衛門は、文久元年(1861年)海上御用掛、難波船支配役に命じられる。助左衛門は、響灘の藍島沖、白洲付近での難波船が多ことを憂い、灯台建設を決意しました。慶応二年(1866年)十一月には設計書を作成する等、明治五年69歳で没するまで灯台建設に尽力しました。
5 閻魔堂と一石一字塔
 閻魔(エンマ)堂は、鹿児島本線の拡幅により昭和28年この地に移転しました。お堂には、幕末の画家村田応成が画いた地獄極楽の掛軸が二幅あり、1月16日、8月16日の祭の日に一般公開されています。
 また、境内に「法華経一石一字塔」と刻まれた石碑があります。これは、文政十一年(1828年)長浜の船頭及び舵子らが乗船していた小倉藩伊勢屋の利生丸が、呼子から小倉へ向かう途中筑前沖で遭難したことから文政十三年(1830年)供養のため建立されたものです。
6 門司への街道筋
 長浜は、江戸時代上方への小早舟の船頭や漁師の町で、明治時代には格子のはまった家が並んでいました。また、この街道から北側は遠浅の浜辺で、漁船が繋がれていました。さらに、長浜の町の南側から中津口に至るまでは、砂畑と云われ四季折々の野菜が作られ城下へ供給されていました。
7 共同井戸
 長浜の町筋には、江戸時代に造られたと云う共同井戸が今でも数基残っています。清掃すれば、今でも清らかな水を飲めると住民の方は言っていました。
8 庚申塚
 天保年間(1830〜1843年)に造られた庚申塚で、中の写真の左側道路の傍らにあります。
9 東京製綱旧小倉工場
 東京製綱小倉工場は、明治39年に操業を開始し、筑豊炭田等の鉱山に鋼索、鋼線を供給していました。工場の事務所は赤レンガ造りの二階建で、窓回りに装飾を施した白い石がはめ込まれ、屋根の隅の小さな球状突起装飾が、シンプルな建物にアクセントをつけています。
参考文献等
小倉市誌 復刻版 昭和50年7月10日発行 名著出版
北九州の史跡探訪 昭和61年1月15日発行 北九州史跡同好会
北九州の史跡探訪 平成2年9月1日発行 北九州史跡同好会
北九州市の建築 平成元年9月30日発行 北九州市