小倉北区妙見・黒原地区
2005年7月31日開設
1 猿田彦大神 8 高射砲陣地
2 忠霊塔 9 吉尾城
3 歌塚 10 登山道遺構
4 猿田彦大神 -
5 妙見神社 -
6 上宮 -
7 清麻呂像 -
1 猿田彦大神と庚申之墳
 足立公園南端に、寛政8年(1796年)の銘が入った猿田彦大神と建立年不明の庚申之墳が祀られています。
2 忠霊塔とロシア人兵卒の墓
 明治8年、小倉城内に歩兵第14連隊が設置されて以降、小倉は軍都となり多くの兵士が出兵先で戦死しました。初めは、高坊の丘の上と南小倉の丘の上(現在の南小倉小学校)に陸軍墓地を設置し埋葬していましたが、手狭となった為、昭和17年黒原周辺の住民や学生の勤労奉仕によって忠霊塔を建立し、半地下の納骨堂を設置しました。そして、明治7年の佐賀の役以降の各戦役戦死者及び公務死亡者4千数百柱を祀っています。戦前は、毎年5月3日、「招魂祭」が盛大に行われていましたが、現在は平和公園として桜の名所として多くの市民に親しまれています。
 また、西側の森の中に明治37年の日露戦争の忠霊碑と云われているストーパーがあります。この中には、ロシア兵も葬られていると云われています。
 忠霊碑の横には、昭和7年に建立された小倉出身陸軍元帥杉山元の書による「満州及上海事変戦病死者合同碑」があり、昭和6年の満州事変と、昭和7年の上海事変に出兵し、北方の陸軍病院で亡くなった人を祀っています。そして、碑の両脇に明治44年、日露戦争で亡くなった日本人兵士と、「露国俊目加〜胡薩克(コザック)チルチヤンスキー第一連隊」「陸軍兵卒ホ〜〜ースワシリー之墓」と刻まれたロシア人戦死者の墓石が祀られています。
3 歌塚
 小倉藩士で、歌人であった秋山光彪が、豊前国の和歌が盛んになるよう、和歌の師村田春海の十七回忌にあたる文政10年(1827年)に建立したもので、毎年命日の3月13日に同士が碑の前に集まり、和歌の長久を祈りました。
 昭和59年に、市の史跡に指定されています。
4 猿田彦大神
 歌塚沿いの道路脇に文政2年(1818年)銘の入った猿田彦大神が祀られています。元々は、黒原二丁目31番の旧道沿いにあったものが、移設されたとのことです。
5 妙見神社
祭神 主祭神 
    天御中主神、高皇産霊神
    神皇産霊神
    鐸石別命 和気清麿命
由緒 宝亀元年(770年)和気清麿が創祀した全国唯一の神社で、全国妙見神社の総本宮となっています。また、和気清麿の足が立った御神徳が受け継がれ足の神様として厚く信仰されています。
 清麿は、宝亀元年四男磐梨為綱(出家して妙運)を造化天神降臨の地、足立山に送り、足立山妙見宮を創建。 772年、国司大伴百世の助けを得て、足立に下宮足立山平癒寺を建立。817年、清麿の三男参議真網卿が、宇佐の帰り、下宮に清麿公と祖先の神霊を祀る。
853年、太政大 臣藤原良房(804〜872)が、虚空蔵、釈迦、薬師、阿弥陀の仏像四体を妙見宮へ寄進。1520年頃、後柏原天皇より、全国神社の紋章としては妙見宮だけのものである「うら菊」を授かる。この紋は、和気氏の流れ、和気明親が後柏原天皇(1501〜1526)から、和気氏の家紋として授かったものです。1601年、細川忠興が、眼病平癒を祈願し、この成就により妙見宮を下宮として現在地に移す。 その時、日向から取り寄せた松を植樹。1870年頃、平癒寺を御祖(みおや)神社と改称。1945年、足立山妙見宮を再称。





※和気清麻呂伝説
 奈良時代の神護景雲3年(769年)、太宰府の神司(かんづかさ)である中臣阿曽麻呂(あそまろ)は、女帝称徳天皇に「弓削道鏡を天皇にさせなかったら、天下は納まらない。」という宇佐神宮の神託があったことを報告しました。これを聞いた天皇は、後継者問題で頭を悩ましていたが、道鏡の間柄は都中に知れ渡っていたので、宮廷貴族達を納得させるには、父聖武天皇の信仰厚かった宇佐神宮の神託を再度確かめるいがいにないと考え、和気清麻呂を宇佐神宮へ派遣した。しかし、神託は、「道鏡を天皇の位につけてはなりません。」ということで、道鏡の天皇即位の望みを断たれた天皇は、清麻呂が嘘の報告をしたと言うことで、足の筋を切り、大隈(鹿児島県)へ島流しにした。大隈への途中、宇佐の海辺の村にたどり着いた清麻呂のもとに、200頭ばかりの猪が突然現れ、彼を宇佐神宮まで連れて行ったところ「企救郡(小倉南区)の山の下の温泉に入りなさい。」という神託があったので、その通りにすると足の傷は治りました。そして、近くの山に登り、造化神北辰尊星妙見に天皇の安泰と反逆者がいなくなることを祈ったところ、造化の天神が現れ『汝の願い聴きいる』という神託をうけた。 この後、この山を「足立山」と呼ぶようになったと伝えられています。また、この時入った温泉は、足立山の麓に、今も「湯川(小倉南区)」の呼び名で残っています。


※足立山
 足立山は、もとは竹和(ちくわ)山と呼ばれていたと云われています。また、現在上宮のある妙見山と足立山は別々の峰として取り扱われていますが、本来はどうだったのでしょうか。
@享和元年(1801年)に建てられた鳥居
A寛政7年(1795年)に建てられた鳥居
B文政4年(1821年)に建てられた鳥居と石段
本殿 寛政5年に寄進された石灯篭
 本殿の右奥に薬師堂があります。明治初年の神仏分離令によって取り壊された、平癒寺時代の名残が残っている大変珍しいものです。堂内には、右より薬師堂如来・釈迦如来・阿弥陀如来・大日如来・ 不休息菩薩・虚空蔵菩薩の六体の木像が安置され、昭和二十年 の終戦後「かかえ地蔵」(おもかりさま)も一緒に祀られています。この内、薬師如来・釈迦如来・阿弥陀如来・虚空蔵菩薩の四体の 木像は、仁寿3年(853年)太政大 臣藤原良房が妙見宮に奉納したもので 、上宮に安置されていましたが、天文21年(1551年)大友宗麟が門司城を攻めた時に上宮にも火を放ち、仏像は谷へ投げ捨てられられられました。その後、長く放置されていましたが、明和2年(1765年)、樵によって発見され妙見宮に再び納められ、明治8年現在地に安置されました。なお、昭和34年に調査したところ、現在の仏像は奉納当初のものでなく、室町時代中期頃に当初の仏像を模作したものと考えられています。
 また、虚空蔵菩薩は「こくうくら」とも読めることから、小倉の地名の起源は、虚空蔵即ち妙見さまからの仏名から起こったと云われています。

 堂の前に、文政5年(1822年)三月建立の観世音菩薩の座像が安置されています。



堂内の仏像



文政5年建立の観世音菩薩
6 妙見神社上宮
 元々の妙見神社があったところで、現在は妙見神社上宮となっています。標高519mの妙見山の山頂に位置し、風除けの為か、山頂を一段掘下げて祠などを配置しています。また、本殿への参道は、石畳で整備され、安永3年(1774年)に建立された鳥居や、江戸時代の津田手永上長野村在住の松井氏より寄進された狛犬が設置されています。








※また、山頂から古鏡が出土

 寛政7年(1795年)、小倉藩五代藩主小笠原忠苗が、妙見神社上宮に参拝したおり、家臣がお茶の用意にと同社の後ろを掘ったところ、古鏡が出土。古鏡は、9面あり、中国南宋時代の湖州鏡が6面、流水飛鳥や梅鳥の模様がある和鏡が3面で、その中の1面に刻まれている追銘から、承安4年(1174年)妙見信仰によって奉納されたことが判明しています。なお、古鏡は、昭和37年に福岡県の有形文化財に指定され、市立自然史・歴史博物館に寄託されています。
 また、承安4年の銘文から当時安立妙見大菩薩が眼病にも霊験ありと信仰されていたことと、宇佐氏が関係していたことを示しています。

※湖州鏡
鏡に刻まれた銘文が、湖州で始まることからつけられた名称で、日宋貿易を通して多く輸入されています。
7 和気清麻呂の銅像
 妙見神社の境内に、清麻呂伝説を彷彿させる「猪に乗る和気清麻呂」の像が建立されています。昭和4年(1929年)、地元小倉の津田三代吉、米谷勘吉の両名によって、銅像として建設されましたが、戦時中の昭和19年に行われた鉄製品の供出により除去され、そのままとなっていました。その後、1953年に再び、米谷勘吉、津田金治、山田一次氏らによって、今度は石像として建設されました。
8 高射砲陣地跡
 標高442mの通称砲台山は、第二次世界大戦中、軍都小倉の市街地と昭和19年9月1日に開港した旧陸軍の曽根飛行場(戦闘機基地)く現在の北九州空港>を敵機から守るため、高射砲陣地が築かれていました。今でも、砲座跡や宿舎跡と思われる煉瓦積が 林の中に残っています。














※曽根飛行場
 昭和12年(1937年)、旧陸軍は周防灘に面するかつて塩田があった所に、本土決戦に備えた戦闘機基地として建設。戦後は、米軍によって接収されましたが、昭和32年(1957年)5月に、1,500m滑走路の公共用飛行場(小倉飛行場)と告示され、翌昭和33年(1958年)7月、空港整備法に基づき運輸大臣が設置し管理する第二種空港として指定され、昭和36年(1961年)4月供用を開始しました。その後、昭和48年(1973年)2月に、名称が北九州空港と変更され、1973年度には大阪、松山の2路線で27万人に達しましたが、1975年3月山陽新幹線の全面開通などの影響により減少し、1983年11月唯一存続していた大阪線も休止しました。1988年新北九州空港が開港するまでのつなぎとして現空港での定期便復活が決定され、7年5ヶ月ぶりにジェット機による定期便が再開されました。
砲座が設置されていた広場 砲座
建物の基礎 水槽
トイレの基礎か? 十四丁と刻まれた石柱
9 吉見城
 妙見城、足立山城とも呼ばれているこの城は、標高440mの吉見陣ノ山にあり、妙見山の西尾根筋に位置する。「企救郡古城取調簿」に「東西二十間、南北三十間許、楕円形ノ平地ニシテ、僅ニ石垣及濠渠ノ跡猶存セリ」と、戦術的な役割を持つ単郭状の城の姿が記載されています。しかし、第二次世界大戦中に高射砲陣地が築かれたため、大半の遺構は、その際に破壊されたものと考えられます。また、山頂部を取り巻く石垣が、今でも残っていますが、城築造時のものかどうか判明していません。
 延文元年(1356年)、武家方の下総修理亮親胤の軍忠状に「今度御敵取、足立嶽於陣之間」と書かれている足立嶽の陣が吉見城にあたるといわれています。

1984年3月に撮影した石垣
1984年3月に撮影した石垣
2003年に撮影した石垣 2003年に撮影した土橋状遺構
10 妙見山から吉見城への登山道に残る遺構
 妙見山の上宮を少し下ると石段や整備された登山道そして、両脇には宿坊跡と思われる平坦地などが点在しています。また、湧き水を保護する為の石の覆いや等が整備されており、数世紀の間、ここは祈りの霊山として機能していたことが判ります。
 しかし、系統的な調査が行われていない為、全貌は未だ不明です。
湧き水を保護する為の石の覆いや 1984年3月に撮影した左のもの
参考文献等
北九州の史跡探訪 昭和61年1月15日発行 北九州史跡同好会
北九州の史跡探訪 平成2年9月1日発行 北九州史跡同好会
北九州市史 近代・現代・教育文化 昭和61年12月10日発行 北九州市
北九州市史 古代・中世 平成4年1月25日発行 北九州市
足立山麓文化資源基礎調査報告書 平成8年3月発行 北九州市
足立山麓の史跡を探る 2004年3月吉日発行 足立山麓文化村