小倉北区三萩野地区 2005年10月12日開設 ■香春(秋月)街道 ■■小倉裏線(推定) ■旧道 ■小倉城外堀(一部推定) |
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1 猿田彦大神 | 8 東岸寺 | |
2 足立停車場 | 9 猿田彦大神 | |
3 綿津美神社 | 10 お堂 | |
4 西宗寺 | ||
5 競輪発祥地 | ||
6 角神社 | ||
7 常徳寺 | ||
地域の歴史 1 町の変遷 明治20年:三郎丸村、萩崎村、片野村、片野新町村が合併して三萩野村となる。 明治22年:赤坂村、富野村、足原村、砂津村、三萩野村が合併して足立村となる。 昭和2年:小倉市と合併する。 2 町名の由来等 (1)三郎丸 文永9年(1272年)、門司関六ヶ郷名々図田注文に「三郎丸七町片野郷」として、でてきます。 このことから、鎌倉時代の名(みょう)の名前でした。 (2)萩崎 寒竹川の左岸に位置し、古くは州崎で、博士が住んでいたことから「はかせ崎」といっていた。 後に「はき崎」となり、萩の字を当てて萩崎となったという。また、占い者が住んでいたことから 「八卦崎(はっけさき)」と言っていたのが、訛って萩崎となったとも云われています。 (3)片野 紫川の右岸に位置し、古くはこの辺りまで海辺の野原であったことから潟の野の意味が地名に なりました。また、日本書紀にでてくる「肝等屯倉(かとのみやけ)」は、片野のことで「等」は「多」 と「野」に変わり、この付近は広々とした田が広がり、名前の由来とも云われています。 |
1 猿田彦大神と旧道 | ||
国道3号線と10号線が交差する三萩野交差点から東南側住宅地の中に、旧萩崎村と旧片野村を結ぶ江戸時代からの道が、現在も往時のまま残っていました。そして道沿いに、享和4年(1804年)に作られた猿田彦大神があります。この付近が、両村の堺となっていたようです。 |
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2 小倉裏線と足立停車場 | ||
明治24年開業した九州鉄道は、現在の鹿児島本線とほぼ同じ経路で、当時は海岸線に沿っていたため、明治政府より艦隊攻撃を受けやすいことを理由に、小倉市街地の南側に路線変更するよう求められていました。このため、明治36年旧東小倉駅付近から三萩野交差点を通り、紫川を渡り、南小倉駅までを開通し、日露戦争が始まった2日後の翌37年2月12日には、九州歯科大学辺りを通り、後の大蔵線に接続し小倉裏線は全線開通となりました。また、この路線の駅として、中間地点に当たる三萩野交差点付近に「足立停車場」が設置されました。なお、この停車場は、政府からの要望により、駅地35,000坪、駅前広場180坪など小倉停車場をはるかにうわまわる規模で、現在もその広大な敷地からその大きさが伺えます。しかし、大蔵線が明治44年廃止になったため、順次路線は部分廃止され、大正5年には全線廃線になりました。 なお、全線開業日の翌日、日露戦争に出征する小倉城内の12師団は、本線の小倉停車場より規模の大きかったこの停車場から長崎へ出征することとなり、本線及び豊州線の各列車は総て足立停車場からの乗降となりました。しかし、兵員輸送が一段落した2月19日、一般乗客の乗降は行わないようになり、その後、もう二度と賑わうこともなく足立停車場はひっそりと姿を消しました。 |
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3 綿津美神社 | ||
祭神 綿津美大神 由緒 創建等は不詳ですが、毎年1月16日に行われる「わいわい祭」は、有名です。この神社、元々は、現在の明和町5番市立三萩保育所が建っている場所にあり、八大龍王社と呼ばれていました。そして、明治43年、妙見神社に合祀されましたが、地元の人々は、萩崎町の中央の現在地に再建しました。 ※わいわい祭 「わいわい」は、わいわい騒ぐと言う意味ではな、「祝い祝い」または「祝う祝う」が転訛したものだといわれています。正保2年(1645年)、この村に疫病がはやったとき、神徳によってようやく止んだので祭の締めくくりに「祝う祝う」と言っていたのが、「わいわい」の形になったと言われています。この祭は、太鼓を打ち鳴らしながら神主さんの先導で、賽銭箱を担いだ子供を従えて、町内を巡行し、四つ角に来ると、神主がお払いをして「おーい、一つ祝うてくれ」というと、世話役は持っている堤燈を高くかざして「わーい、わーい」と応え、また神主の「もう一つ祝うてくれ」の声に、再び皆で「わーい、わーい」と大声で応えます。こうして、旧萩崎村の区域を一周します。 |
八大龍王社の扁額 |
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4 西宗寺 | ||
浄土真宗本願寺派 由緒 天正年間に了円(俗姓毛利)が開基し、寛永13年(1636年)11月、本願寺より寺号を許されました。もとは、永照寺の寺家でした。大正9年、米町から現在地へ移転しています。 |
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5 競輪発祥の地 | ||
第3回国民体育大会が、昭和23年10月福岡県で開催されることが決まり、旧小倉市が自転車競走を引き受けました。また、昭和23年7月戦災都市復興及び自転車産業振興を目的とする自転車競技法が国会で可決されたこともあり、国体のために建設する競技場を、そのまま競輪に活用しようという考えから、旧小倉市長浜田良祐などの努力によって、全国初の競輪事業を誘致しました。そして、国体終了後の同年11月に第1回のレースが開催されました。 | ||
6 角(須美)神社 | ||
祭神 主神 伊邪那岐神 (いざなぎ) 伊邪那美神 (いざなみ) 合祀神 高淤加美命 (たかおかみのみこと) 闇淤加美命 (くらおかみのみこと) 闇御津波命 (くらみづはのみこと) 馬幸神(ばこうしん) 由緒 貞観2年(860年)宇佐神宮より門司甲宗八幡神社へ、神宮皇后が使われた甲を神霊として運ぶ際に片野に一泊されたことを起源としています。従って、角神社は、門司甲宗八幡神社の小倉第一の氏子となっています。また、古来より、婚姻の祖神、安産、家内安全、商売繁盛、交通安全の神として片野、三萩野一円の氏神様です。 境内に2基の猿田彦大神があります。 @ 文政4年(1821年) A 建年なし また、宝暦4年(1754年)の銘が刻まれた大石があります。 |
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@猿田彦大神 | A猿田彦大神と大石に刻まれた年 | |
7 常徳寺 | ||
曹洞宗 由緒 この寺は、初め、豊後橋の南側にありましたが、寛永年間(1624〜1643年)に紫川が氾濫し浸水した為、村人と話し合って現在地へ移り、寺を建立し馬借町の慈濟寺に預けていた本尊の十一面観世音菩薩を移しました。そして享保年間(1716〜1735年)、辻三にある護聖寺の五世香山良薫に請して開山の祖としました。本尊の十一面観世音菩薩は、仏師定朝の作であると云われています。 |
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8 東岸寺 | ||
西山浄土宗 由緒 京都光明寺の直末寺で、天正年間に由来し、小倉城下常盤橋の東側高浜の岸際(旧船頭町大阪屋善助宅跡)にあったため、「東岸寺」と名付けられたと云われています。その後、細川氏が築城の際、米町(現在の伊勢丹横の平和通り)に移転、俊式和尚を中興第一世としています。享保10年(1725年)京町からの火災により炎上し、鐘楼門を残して古器物、古文書等全て灰塵となってしまいました。そして宝暦3年(1753年)、再建されています。昭和34年、現在地に移転しました。 |
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身替地蔵尊 延宝8年(1680年)に、京都麩屋町の平野宗祐が建立したものです。また、この地蔵尊は、身替地蔵とも呼ばれています。これは、小笠原藩の御家人の妻が、毎晩この地蔵尊を参詣するのを、不義と勘違いした夫が、お参りを終え寺門から出ようとした妻を袈裟懸けに切り、急ぎ家に帰ると死んだはずの妻がいた。驚いた夫が門前に戻ると血が流れており、そのあとを辿ると地蔵が切られており、その切り口から血が流れていたとの話しから身替りと云われています。 |
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9 猿田彦大神 | ||
旧萩崎村の中心地を通る、江戸時代からの道路沿いにある猿田彦大神。建年は、刻まれていません。 | ||
10 お堂 | ||
旧萩崎村の中心地にあるお堂で、江戸時代からの道路沿いにあり猿田彦大神の筋向いにある。由緒等は不明ですが、境内には六地蔵や元治2年(1865年)造が刻まれた手水鉢があります。 |
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参考文献等 | ||
小倉市誌 復刻版 昭和50年7月10日発行 名著出版 北九州市史 近代・現代・教育文化 昭和61年12月10日発行 北九州市 北九州市史 民俗 平成10年10月1日発行 北九州市 足立山麓文化資源基礎調査報告書 平成8年3月発行 北九州市 小倉城下町調査報告書 平成9年3月 北九州市 |